四十五話 金の混じる灯り
B班が座ったのは、偶然だった。
通路が途切れ、柱も棚もなくなる。
行き止まりというほど閉じてはいないが、進もうとすると、足が一瞬だけ迷う場所だった。
「……ここで、少し」
誰かが言った。
休憩、という言葉は出なかった。
ルーナは頷き、床に腰を下ろした。
石は冷たいが、不快ではない。
足の裏から伝わる感触が、ここまで歩いてきたことを思い出させる。
水筒が回ってきた。
飲む。
量は少ない。
味は、まだある。
(……まだ、大丈夫)
その「大丈夫」が、何を基準にしているのかは分からない。
時間なのか。
距離なのか。
それとも、単に気分なのか。
灯りは、天井近くに淡く浮かんでいる。
聖燈でも、松明でもない。
減っているようにも、増えているようにも見えない。
誰も、口を開かなかった。
ルーナは膝の上に手を置き、呼吸を整えた。
吸って、吐く。
それだけ。
祈らなかった。
祈る言葉は、いくらでも浮かぶ。
今日ここまで来られたこと。
誰も欠けていないこと。
次も、無事であるように。
けれど、言葉にしなかった。
理由はない。
ただ、今は言わなくていい気がした。
(……何も、しなくていい)
そう言われた気がした。
瞬間、思考がそこで止まる。
先へ進まない。
引き返しもしない。
ただ、そこにある。
誰かが、立ち上がった気配がした。
衣擦れの音。
足音。
けれど、それが誰かは確認しなかった。
アルトは、少し離れた位置に立っている。
視線は通路の奥。
こちらを見ていない。
それで、いい。
ルーナは目を閉じた。
眠るつもりはなかった。
ただ、視界を閉じた。
暗くはならない。
光は、まぶたの向こうにも残っている。
色も変わらない。
音も、消えない。
ただ、遠くなる。
(……時間、どれくらい経ったんだろう)
考えかけて、やめる。
数えようとして、やめる。
数える理由が、今はない。
足音がした。
近づいてくる。
「……ルーナ」
名前を呼ばれる。
目を開ける。
神官が、少し困った顔をしている。
「休憩は、もう……」
問いの形をしているが、確認ではない。
決断を促す声だ。
ルーナは、すぐに立たなかった。
「……もう少し、ここで」
自分の声が、思ったより静かだった。
神官は一瞬、言葉に詰まる。
反対する理由はない。
けれど、進まない理由もない。
「……分かりました」
彼はそう言って、離れた。
ルーナは、また目を閉じた。
何も、起きない。
何も、変わらない。
……はずだった。
気づいたのは、灯りだった。
明るさが、変わっていない。
それなのに、輪郭が少しだけはっきりしている。
壁の凹凸。
床の細かな傷。
さっきより、見える。
(……あれ)
目を開けたからではない。
視界の質が、違う。
ルーナは、周囲を見回した。
通路の先。
柱の影。
誰かが立っている――気がする。
(……誰?)
確認しようとして、やめた。
呼ばない。
立ち上がらない。
ただ、見る。
人影は、近づいてこない。
遠ざかりもしない。
“そこにある”という感じだけが、残る。
アルトが、こちらを見た。
視線が合う。
彼は何も言わない。
けれど、微かに首を振った。
(……今は、いい)
そう言われた気がした。
ルーナは頷き、また膝に視線を落とす。
呼吸は、一定だ。
心拍も、乱れていない。
空腹は、ある。
けれど、焦るほどではない。
(……変だな)
変だと思えることが、変だ。
普通なら、不安になる。
時間が分からない。
出口も見えない。
なのに、心が静かだ。
祈らない。
探さない。
進まない。
それだけで、ここが“応じている”気がした。
灯りが、また少し変わる。
今度は、色だ。
白だったはずの光に、ほんのわずか、金が混じる。
温度は変わらない。
ただ、色だけ。
「……?」
誰かが、声を上げかけて、やめた。
ルーナは、思う。
(……私、何もしてないのに)
その瞬間、気配が近づいた。
足音ではない。
風でもない。
“距離”が、縮んだ。
ルーナは、ゆっくりと顔を上げる。
通路の奥。
さっきまで曖昧だった人影が、はっきりしている。
誰か、ではない。
“誰かの位置”。
そこに、人が立てる場所がある。
そんな感じだ。
(……近い)
怖くない。
嬉しくもない。
ただ、近い。
アルトが、一歩だけ動いた。
こちらにではない。
人影の方へ。
その瞬間、影が薄れる。
(……あ)
理解する。
動くと、遠ざかる。
何もしないと、近づく。
「……ルーナ」
アルトが、低く呼ぶ。
「はい」
「……そのままで」
命令ではない。
確認でもない。
選択の共有だ。
ルーナは頷き、座ったままでいる。
人影は、完全には消えない。
けれど、さっきほど近くもない。
(……これ、書庫の)
書庫が、応じている。
探さない者に。
祈らない者に。
名前を呼ばない者に。
(……求めてないから、かな)
理由は分からない。
でも、結果は分かる。
何もしない。
それが、ここでは“進む”ことだ。
時間が、少しだけ流れた。
それとも、止まったままか。
分からない。
けれど、灯りは確実に変わった。
色が、少し深くなっている。
「……行けそうですか」
神官が、恐る恐る聞く。
ルーナは、首を振った。
「……今は、まだ」
理由は言わない。
言えない。
“今は”としか言えない。
神官は頷き、それ以上何も言わなかった。
誰も、立ち上がらない。
誰も、急かさない。
沈黙の書庫は、静かだった。
けれど、その静けさは、
さっきまでのものとは違う。
何も起きていないのに、
一歩、奥へ入った感じがする。
ルーナは目を閉じる。
祈らない。
考えない。
ただ、そこにいる。
その選択が、
ここでは“正解”だと、
身体の方が知っていた。
そして、まだ誰も気づいていない。
このまま進めば――
戻れない場所に、と。




