四十三話 近い声の距離
おかしいと思ったのは、声の届き方だった。
「……そちら、どう?」
ヴェロニカは歩いたまま問いかけた。
距離は、それほど離れていない。回廊を一つ挟んだ程度のはずだ。
返事は、すぐ返ってきた。
「……特に問題ありません」
声は落ち着いている。内容も、いつも通り。
それなのに――
(……近い?)
距離の感覚が、合わない。
もう少し離れているはずなのに、声だけが近い。
ヴェロニカは足を止め、壁に指先を添えた。
「どこにいるの?」
今度は、はっきりと聞く。
少し間があってから、返事が返る。
「……柱のある通路です」
柱。
ここにもある。あちらにもある。
「……どの柱?」
問いが、わずかに強くなる。
「……ええと……」
声が、迷う。
迷っているというより、言葉が場所を掴めていない。
ヴェロニカは、短く息を整えた。
「無理に動かないで。そのままで」
返事は返る。
けれど、“そのまま”がどの状態なのかは見えない。
歩き出す。
数歩進むと、回廊が緩やかに折れ、視界が切り替わる。
「……いた」
思わず声が落ちた。
随行の一人が、柱の影に立っている。
距離は近い。声が近く聞こえたのも、間違いではなかった。
(……なら、さっきのは)
違和感が、少しずれる。
「もう一人は?」
自然に口をついて出た問いだった。
随行は首を傾げる。
「……一人、でしたが」
ヴェロニカは否定しなかった。
視線で通路をなぞる。
確かに、一人だ。
(……二人だと思っただけ)
思った、という感覚だけが残る。
「合流できたなら、いいわ」
そう言って、歩き出す。
今度は、別の通路からの合流を待つ。
“待つ”という感覚が、ここでは少し曖昧だった。
立ち止まっているのか、歩いているのか。
時間が進んでいるのか、止まっているのか。
「……こちらです」
声が、背後からした。
振り返る。
誰もいない。
「……?」
もう一度。
「……こちら」
今度は、横から。
ヴェロニカは、ゆっくりと首を巡らせた。
柱の向こうに、人影が見える。
距離は、遠くない。
近づく。
数歩で届く距離――のはずなのに、
一歩、二歩進んでも、距離が縮まらない。
(……動いている?)
相手は動いていない。
立ち止まり、こちらを待っている。
なのに、距離だけが変わらない。
「……そのままで」
今度は、自分が止まる。
数拍。
距離が、遅れて縮んだ。
人影が、はっきりする。
(……追いつくのが、遅れる)
声と同じだ。
「……失礼しました」
随行は、特に違和感を覚えていない様子だった。
「通路が、少し分かりづらくて」
分かりづらい。
それは、正しい。
ここは、そういう場所だ。
ヴェロニカは頷いた。
「無事なら、それでいいわ」
“無事”。
その言葉が、わずかに重い。
さらに進む。
今度は、こちらから探す。
側付き巫女の名を呼ぶ。
「はい」
返事は近い。
「どこ?」
「……すぐそこです」
“すぐそこ”。
ヴェロニカは歩く。
三歩。
四歩。
見えない。
「……動かないで」
「はい」
即座の返事。
けれど、姿はない。
「……声を出して」
「……はい」
声は、確かに聞こえる。
だが、方向が定まらない。
壁か。柱か。
それとも、曲がり角の向こうか。
ヴェロニカは立ち止まった。
距離が、測れない。
数歩で届くはずの距離が、“歩数”として信用できない。
「……今は、集まらなくていいわ」
判断は、静かだった。
「無理に動くと、余計にずれる」
誰も反論しない。
合流をやめる。
位置を把握し直そうとするのを、やめる。
それが今の最善だと、全員が理解している。
その理解の速さに、ヴェロニカは一瞬だけ眉を寄せた。
(……慣れてきている)
おかしさに慣れるのは危険だ。
けれど、ここでは慣れない方が危うい。
「声が届く距離で、留まりなさい」
命令は、まだ通る。
「動くときは、必ず声を出して」
返事が返る。
重ならず、一人ずつ。
それでも、届いている。
距離は測れない。
けれど、消えてはいない。
人は、いる。
ただ、“そこにいる”という実感が薄れているだけだ。
沈黙の書庫は、人を迷わせない。
代わりに、人と人の間を曖昧にする。
そのことに気づいたとき、
ヴェロニカは、ほんの一瞬だけ足を止めた。
探す、という行為が――
少しずつ、形を失い始めている。
それでも、彼女は歩く。
“正しい判断”を、まだ手放さずに。




