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偽聖女は巡礼中。ーーえ? 護衛が神様ですって?  作者: 絹ごし春雨


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四十一話 遅れる空腹

 B班が最初に気づいたのは、空腹だった。


それ自体はおかしくない。

歩いている。休憩も取った。水も飲んだ。

それなのに――その感覚が、妙に遅れてやってきた。


(……今?)


ルーナは無意識に腹に手を当てる。

痛みではない。鳴りもしない。

ただ「何か足りない」と、身体が思い出したような合図だった。


「……食事、でしたね」


神官が言った。

言った直後に、わずかに首を傾げる。


「……でしたよね?」


問いが、確認に変わる。


ルーナは答えようとして、止まった。

最後に食べたのは、いつだっただろう。


村を出る前。

書庫に入る前。

それとも――入ってから?


思い出そうとした瞬間、記憶が薄い布みたいにほどけた。

あるはずの場面が、細部を持たない。座った、という感触だけが残り、口にした味が残らない。


「乾パンを……」


随行の一人が荷を下ろし、布包みを開いた。

中身を確かめる。


乾パンは、ある。

数も、減っていない。


「……減ってない」


呟きは小さい。

けれど、ここではよく聞こえる。


減っていないことが不自然なのか、

減っていないことがありがたいのか、

誰もすぐには判断できない。


神官が一枚、乾パンを取り出した。

割ると、硬い音がする。

それは現実の音だ。確かにそこにある音。


彼はひと口齧る。

ゆっくり噛んで、飲み込む。


「……味はします」


まるで報告書みたいな言い方だった。

でも、この場所ではその言い方が一番安心できた。


乾パンが回る。

ルーナも受け取る。


硬い。

噛む。

口の中の水分が奪われる感覚がある。


(……食べてる)


食べているのに、食事をした感覚が薄い。

飲み込んだはずなのに、空腹が引いていく速度が分からない。


神官が水筒を回した。


水は冷たい。

いつも通りの冷たさ――のはずなのに、温度の違いが掴めない。

冷たいと感じるまでに、少し間がある。


(遅い)


そう思った瞬間、胃の奥が少しだけ落ち着いた。

遅れて反応する身体。遅れて追いつく感覚。


休憩が終わり、また歩き出す。


柱が続き、棚が続く。

同じような通路。

同じような分岐。


それでも、さっきまでとは違って見える。

違いを言葉にできない。けれど「何か」がずれてきている。


アルトは変わらず半歩前。

視線だけが時々、上へ向く。天井。壁。灯り。


壁に埋め込まれた淡い光は、一定の明るさに見える。

けれど、その一定が不気味だった。


「……灯り、減りませんね」


随行が言う。

言った直後に、しまったという顔をした。


減らない灯りを、疑ってはいけない。

口にした途端、こちらが負ける気がする。


神官は返事をしなかった。

しないことが、ここでは答えになってしまう。


ルーナは、壁の光を見上げた。

炎ではない。匂いもない。揺れもない。

ただ、そこにある。


それなのに、目が疲れる。


眩しいからではない。

明るさが足りないからでもない。


焦点が合わないまま、ずっと見ているような疲れ。

長く読書をした後の目の奥の重さに似ている。


(……どれくらい歩いてるんだろう)


そう思ったところで、時間が分からないことに気づく。

休憩を一回取った。食事もした。

それで、“進んだ”気がしない。


振り返っても、来た道が分からない。

戻ろうと思えば戻れるのかもしれないが、戻ったところで“戻った”と分かる保証がない。


「……神官様」


ルーナは小さく呼んだ。


神官はすぐ振り返る。

反応が早い。それも少し不自然に感じた。


「はい」


「地図……使えますか」


神官は、一拍だけ黙った。

黙ってから、胸元の布包みを取り出す。


地図は、ある。

紙も、文字も、線も、いつも通り。


けれど。


広げた瞬間に、視線が滑る。

線がどこにも繋がらない。

描かれているはずの目印が、意味を持たない。


神官は地図を見つめ、やがて静かに畳んだ。


「……難しいです」


「そうですよね」


ルーナはそれ以上言わなかった。

言わなかったのに、胸の奥に小さな疲れが溜まる。


“難しい”という言葉の裏にあるものを、二人とも分かっている。

ここでは、地図が地図として機能しない。


歩き続ける。


同じような棚が続く。

でも、どこかで棚の本が少しだけ減っている。

空白が増えている。

さっきは詰まっていたはずの場所が、抜けている。


ルーナは足を止めた。


棚の一角だけ、明らかに何もない。

本が抜かれた跡もない。最初から空だったように見える。


なのに、その空白は目に刺さる。


(……あそこだけ、欠けてる)


欠けているはずなのに、不足とは感じない。

本来あるはずのものがない、と分かっているのに、心が騒がない。


騒がないことが、また怖い。


「……ルーナ」


アルトが名前を呼んだ。


呼ばれて、ルーナは少しだけ安心する。

この場所で、自分の名前が意味を持つのがありがたい。


「はい」


「立ち止まるなら、端へ」


彼は指差す。

通路の端。柱の影。人が動く邪魔にならない場所。


指示は最低限だ。

でも、守られている。


ルーナは頷いて端へ移動した。


「……何か、気になりますか」


神官が問う。

声は低い。こちらも最低限。


ルーナは棚の空白を見て、首を振った。


「分かりません。

 でも、見てしまうんです」


「……見てしまう」


神官が同じ言葉を繰り返す。


「この場所は、そういうのが増えます。

 “引っかかり”だけが」


彼は自分でも今言ったことが正しいのか分からない顔をした。

けれど、言葉にしたことで少しだけ落ち着いたようにも見えた。


再び歩き出す。


しばらくすると、誰かが小さく言った。


「……油、減ってませんか」


声の主は、荷を管理していた随行だ。

彼は火口箱と油壺を取り出して、じっと見比べている。


「減ってる……ような」


言い切らない。

言い切ることが怖い。


神官が近づき、油壺を覗き込んだ。


中身は、確かに減っている。

でも、どれくらい減ったのかは分からない。


「……使ってないのに」


随行が呟く。


使ってないわけではない。

休憩のときに灯りを確認した。火口箱を開けた。

でも、それが“使用”に当たるのかどうか。


ルーナは油壺を見つめた。


油は透明に近く、底が見える。

底が見えることが、やけに現実味を持って迫ってくる。


(減ってる)


壁の灯りは減らないのに、こちらの油は減る。

その不均衡が、ようやく“危険”として形を取り始めた。


「……進むのをやめますか」


誰かが言った。


その言葉に、全員の動きが止まる。

止まった瞬間、沈黙が厚くなる。


ルーナはアルトを見る。


アルトはすぐには答えない。

視線を周囲へ巡らせる。柱の数、通路の幅、壁の光。


そして、短く言った。


「休みましょう」


進むでも戻るでもない。

中間。


「ここで?」


神官が問う。


「ここなら、壁を背にできます」


アルトは柱の配置を示し、短い休憩場所を選ぶ。

選んだ場所は通路の隅で、分岐から少し離れている。

誰かが迷って走り出しても、すぐに見える位置。


ルーナはその意図が分かって、胸が少し落ち着く。


休憩に入る。


乾パンをまた回す。

今度は、数が減った。


減ったことが、ほっとする。


減る。

減るなら、時間が進んでいる。

減るなら、自分たちは“ここにいる”。


ルーナは乾パンを受け取り、ひと口齧った。


味はする。

硬さもある。

でも、噛んでいるうちに、口の中で“食べた感覚”が薄れていく。


飲み込んだはずなのに、飲み込んだ実感が抜ける。


(……残らない)


さっきの札と同じだ。

意味が残らない。感覚が残らない。


残るのは、身体の最低限の反応だけ。


ルーナは水を飲んだ。

飲んだ瞬間は冷たい。

数拍遅れて、喉が潤ったと感じる。


遅れる。


それがはっきりしてきた。


「……ルーナ」


アルトが小さく呼んだ。


「はい」


「今、何か考えていましたか」


問いはやさしい。

でも、確認でもある。


ルーナは一瞬、言葉を探した。

探して、見つからないまま答える。


「考えてたのに……

 何を考えてたか、分からなくなりました」


神官が目を伏せる。

随行が唇を噛む。


アルトは、ほんの少しだけ息を吐いた。


「それでいい」


「……え?」


「ここは、そういうふうに削ります。

 だから、削られたことに気づいた時点で十分です」


気づいたことを、褒めるわけではない。

生存のための確認みたいな言い方だった。


ルーナは頷いた。


(削られてる)


気づいたから、まだ大丈夫。

そう思うことで、足場ができる。


休憩を終え、また歩く。


すると、壁の灯りが一つ、ほんの少しだけ暗い箇所があった。

気のせいかもしれない。

でも、さっきは同じ明るさだった気がする。


ルーナは足を止めた。


「……アルトさん」


呼ぶと、彼はすぐに横へ来る。

距離が近い。いつもより半歩だけ。


「どうしました」


「灯りが……」


言いかけて、言葉が止まる。

暗い、と言い切れない。暗くないかもしれない。


アルトは灯りを見上げ、静かに答えた。


「見えるなら、まだ大丈夫です」


励ましではない。

判断だ。


“まだ”。


その一語が、胸の奥に落ちた。


まだ大丈夫。

つまり、いつかは大丈夫ではなくなる。


ルーナは、ゆっくり息を吸う。


怖さが、ほんの少しだけ形を取り始めていた。

遅れて。

やっと。


沈黙の書庫は、派手な罠を用意していない。


代わりに、確かさを削る。

時間を薄くし、食事を薄くし、灯りを薄くする。


薄くなったことに気づくまで、薄くしたことに気づかせない。


だから、ルーナは歩く。


歩きながら、数える。


何を数えているのか分からなくなる、その瞬間まで。


そして、分からなくなった時にだけ、また気づく。


――自分たちは、確実に奥へ運ばれている。


ここがどこで、どれくらい経ったのか。

それを知らないまま。


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