四十話 前を増やす
最初に変わったのは、命令の出し方だった。
「……分かれましょう」
ヴェロニカの声は低く、整っている。
怒りも焦りも含まない。だからこそ、周囲は一瞬、反応が遅れた。
「分かれる、とは……」
神官が言葉を探す。
問い返す調子ではない。確認だ。
「全員で同じ場所に留まる必要はないわ」
ヴェロニカは大扉の向こう――空の台が置かれた部屋を、もう見ていない。
視線は、回廊の先へ向いている。
「ここは“認定の場”でしょう。
なら、探すのは当然」
“探す”。
その言葉が出た瞬間、空気がわずかに動いた。
探す必要がある、という前提。
それはつまり、ここに聖典が“ある”という前提でもある。
誰も、それを否定しなかった。
「……どのように」
神官が静かに問う。
ヴェロニカは立ち止まり、聖匙を指先で回した。
鍵は音を立てない。磨かれた金属が、淡く光を反射する。
「正面は、もう十分見たわ」
十分、という言葉に含みがある。
十分正しい。十分整っている。
――十分、何も起きない。
「記録にあるのは“現れた”という事実だけ。
現れ方までは、書いていない」
そう言って、初めて振り返った。
随行の者たちは息を潜める。
その視線の集まり方が、ヴェロニカの立場を証明している。
「なら、こちらから近づけばいい」
誰かが、わずかに息を吸った。
その音が、ここではよく聞こえる。
「近づく、とは……?」
「聖女の前に、現れるのでしょう」
ヴェロニカは淡々と言った。
「なら、“前”を増やせばいい」
言い切りだった。
神官は、すぐには理解しなかった。
理解できなかったのではない。
理解していいのか、迷ったのだ。
「……隊を、分けると」
「ええ」
ヴェロニカは頷く。
「記録が集中している正面は、もう確認した。
けれど書庫は、ここだけじゃない」
回廊の脇に開く、別の通路。
目立たない。けれど、閉ざされてもいない。
「全員で迷う必要はないわ。
役割を分けるだけ」
“迷う”という言葉が、さらりと使われる。
それ自体が、この場の空気を塗り替える。
「あなたたちは、こちら」
ヴェロニカは二人を指名した。
記録に強い神官と、地図を持つ随行。
「残りは、正面側を再確認。
私は――」
一瞬、間が空く。
ヴェロニカは聖匙を見た。
鍵は変わらない。重さも、温度も。
「私は、少し動くわ」
“指揮する”でも、“待つ”でもない。
自分が動く、という選択。
それに誰も異を唱えなかった。
「……護衛は」
誰かが、控えめに言った。
ヴェロニカは眉を上げない。
当然の問いだ。だから、当然に答える。
「必要ないわ」
聖女の言葉としては、強すぎる否定だ。
けれど、ここでは違う。
「ここは、敵がいる場所じゃない。
間違いがある場所よ」
間違い。
それを口にしても、彼女の声は揺れない。
配置が、静かに変わる。
人が散り、回廊に足音が分かれる。
正面は正面として残され、脇道に人が流れていく。
ヴェロニカは、一人になった。
正確には、一人きりではない。
距離を取った随行がいる。
けれど、判断は自分だけが下す位置にいる。
彼女は、正面の部屋にもう一度戻った。
空の台。
光。
静けさ。
「……隠すのが上手ね」
誰に向けた言葉でもない。
“現れない”という現れ方。
それが、正しさの中に仕込まれている。
(でも、ないはずがない)
ない、という結論だけは、最初から排除されている。
それを許した瞬間、この巡礼が崩れる。
ヴェロニカは台の周囲を歩いた。
一周。
二周。
歩くたびに、床の感触が少し違う。
石の目が、わずかにずれている。
(……後から、直した?)
補修跡。
正面の“整いすぎ”とは違う、控えめな歪み。
彼女は立ち止まり、床を見下ろす。
「……なるほど」
声が、少しだけ低くなる。
“現れた”のではなく、“置かれた”。
あるいは、“移された”。
記録は、嘘を書かない。
けれど、全部を書きもしない。
ヴェロニカは、聖匙を握り直した。
鍵が、ここで終わりだと思うから、空白に見える。
でも――
(まだ、使う場所がある)
扉を開くための鍵ではない。
“区切る”ための鍵。
彼女は、正面の部屋を出た。
回廊を進む。
今度は、説明のない方へ。
脇道は狭い。
壁画も碑文もない。
それでも、拒まれない。
「……静かね」
随行が言った。
「ええ」
ヴェロニカは歩きながら答える。
「でも、何もないわけじゃない」
足が止まる。
壁の一部に、わずかな段差。
扉ではない。
継ぎ目でもない。
“区切り”。
彼女は、そこに聖匙を当てた。
差し込む場所はない。
回す場所もない。
ただ、触れる。
鍵は、熱を持たない。
けれど、壁の方が、わずかに温度を変える。
「……ここ」
確信ではない。
でも、否定もできない。
随行が息を詰める。
ヴェロニカは、鍵を離した。
何も起きない。
――すぐには。
けれど、静けさの質が変わった。
音が、少しだけ遅れる。
「……戻りましょう」
唐突な指示。
「ですが――」
「今は、これでいい」
彼女は振り返らない。
「場所は、分かった」
何が、とは言わない。
言わないまま、歩き出す。
正面へ戻る途中、隊と合流する。
誰も成果を報告しない。
誰も、失敗を口にしない。
ヴェロニカは、それで満足だった。
動いた。
位置を変えた。
“正しさ”の外へ、ほんの一歩だけ。
それで十分だ。
「今日は、ここまで」
その言葉に、誰も反対しない。
書庫は逃げない。
聖典も、消えない。
そう信じられるだけの手応えが、彼女にはあった。
ヴェロニカは、正面の部屋を最後に一度だけ振り返る。
空の台は、相変わらず空だ。
けれど。
(……前より、近い)
根拠はない。
だが、その感覚だけは、確かだった。
彼女は歩く。
“正しさから外れた”聖女として。
まだ、壊れていないまま。




