三十九話 白紙の机
同じ棚が、また現れた。
ルーナは足を止めた。
そう思ったのは、背表紙の色の並びが似ていたからだ。
黒、赤、褪せた青。三冊目の角が欠けているところまで、前に見た気がする。
棚の端に触れた。
石より温かい。木の手触りがある。現実の感触だ。
なのに、確信だけが持てない。
(……さっきと同じ?)
振り返ると、列柱が違う。
柱の彫りも少し浅い。床の小さな欠けも別の位置にある。
同じに見えるだけで、違う場所。
あるいは――違うと“思わされている”だけ。
考え始めたところで、頭がすっと静かになる。
思考が続かないわけではない。続けてもいいのに、続ける必要が薄れていく。
「……進みますか」
神官が言った。声は、いつもより小さい。
小さくしたつもりでも、ここでは言葉が広がらないから、結局いつもの大きさに聞こえる。
ルーナは頷いた。
どちらに、という問いが出る前に足が動いた。
右でも左でもない。少しだけ斜めに見える通路へ。
そこへ行く理由はない。
けれど、直感だ。理由がないことが理由になっている。
アルトは何も言わず、半歩前の位置を保つ。
剣に触れない。周囲を警戒しているようで、していない。
ただ、揺れていない。
その揺れていなさが、この場所では少しありがたかった。
通路の先に小部屋があった。
扉はない。壁が口を開けたような入口で、天井だけが少し低い。
中には机が一つ。椅子が二つ。
どちらも、まるで今朝まで使われていたかのように綺麗だ。
机の上には、白紙の束が置かれていた。
「……紙?」
神官が小さく言った。
ルーナは近づいて、一枚持ち上げた。
紙は紙だ。重さがある。繊維の感触がある。
何も書かれていない。
裏返しても、やはり白い。
透かしても、水印もない。
「これで、何をしろっていうんでしょうね」
誰かが冗談めかして言いかけて、言葉を飲み込んだ。
この場所で冗談は、口の中で乾く。
ルーナは紙をそっと戻した。
そして、机の角に触れる。
冷たい。
石ではない。木なのに冷たい。
(……ここも違う)
違う、と言い切る理由はない。
でも、ここで何かが起きる気配がないのは分かる。
小部屋を出ると、通路が三つに分かれていた。
どれも同じ幅。
同じ暗さ。
同じ静けさ。
「……どうしましょう」
神官が、今度ははっきりとルーナを見る。
判断を渡してくる目だ。
ルーナは少しだけ息を吸う。
(私が決めるんだ)
急に責任が降ってきたわけではない。
最初からそうだった。影武者として同行し、補助としてここにいる。
けれど、今は“補助”という言葉が薄い。
彼女の選択で、隊が動く。
ルーナは左の通路を見た。
次に右を見る。
最後に真ん中を見る。
真ん中の通路の床だけ、ほんの少し傷が多い。
誰かが通った跡――そう見える。
「……真ん中で」
言った自分の声が、やけに近く聞こえた。
神官が頷き、皆が動く。
誰も文句を言わない。言えないのかもしれない。
通路は少し長かった。
柱が続き、棚が続き、また柱が続く。
途中に、棚のない空間があった。
ただの空間。何もない。
広くも狭くもない。
そこで、ふと、足が止まる。
理由はない。
でも、止まりたくなる。
「……休みますか」
神官が言った。
ルーナは頷いて、床に腰を下ろした。
疲れはない。息も乱れていない。
それでも座ると、身体が少しだけ安心する。
水筒が回ってくる。
飲む。冷たい。味がする。
(……ちゃんと、ここにいる)
水の感触は現実だ。
だから、迷っているのも現実なのだろう。
アルトは立ったままだった。
壁に背を預けるでもなく、柱に寄るでもない。
ただ、そこにいる。
ルーナは彼を見上げる。
「……アルトさんは、迷ってないんですか」
自分でも驚くほど、素直な問いだった。
アルトは少し間を置く。
「迷う、というより――」
言いかけて、止める。
言葉を選んでいるというより、言葉にしすぎないようにしている。
「ここは、そういう場所です。
迷いを“起こす”場所」
ルーナは瞬きをした。
「……起こす」
「はい。人が勝手に迷うのではなく、迷う状態にされる。心が迷っている訳ではないのです」
淡々としている。
怖がらせる声ではない。
だから余計に、言葉が胸に残る。
「でも、私、怖くないんです」
告白みたいに聞こえたかもしれない。
けれど、事実だった。
怖いはずなのに怖さが立ち上がらない。
心が平らで、手がかりがない。
アルトは、ルーナの顔を見た。
その視線は短い。触れない。
けれど、外さない。
「怖くないことは、おかしくありません」
「……え?」
「怖さがないから、進めることもあります」
それは慰めではなく、許可に近かった。
ルーナは頷き、視線を床に落とす。
床の傷を数える。数えているうちに、何を数えていたのか分からなくなる。
(……時間も、よく分からない)
休んだのかどうかも曖昧だ。
けれど、座っていた間に水を飲んだ。それは確かだ。
立ち上がる。
歩く。
それだけで、また元に戻る。
通路の先に、行き止まりがあった。
壁に突き当たる。扉もない。棚もない。
「……戻りましょう」
誰も落胆しない。
落胆するためには、期待が必要だ。
この場所では期待が育たない。
戻る。
曲がる。
分岐が、増えている。
「え……?」
神官が小さく息を漏らした。
さっき三つだった分岐が、四つになっている。
そんなはずがない。
でも、四つある。
誰も「おかしい」と言い切らない。
言い切った瞬間に、こちらが負ける気がする。
ルーナは四つの通路を見た。
どれも同じ。
けれど、ひとつだけ、空気がわずかに薄い。
薄い――と言っても、匂いが違うとか温度が違うとか、そういう話ではない。
ただ、目がそこへ滑る。
「……ここ」
指をさした。
神官が短く頷く。
隊が動く。
選んだ通路は、すぐに広い回廊へ繋がっていた。
天井が少し高い。柱が太い。棚がない。
「……戻った?」
誰かが呟く。
戻っていない。
けれど、戻ったような広さだ。
ルーナは歩きながら、ふと気づく。
自分は“戻ったかどうか”を気にしている。
つまり、今までより少しだけ、心が動いている。
(……今、何かを感じた)
怖さではない。
喜びでもない。
ただ、違いを“違い”として受け取った。
アルトの横顔を見る。
彼は何も言わない。
でも、歩幅は少しだけゆっくりになっている。
合わせてくれているのかもしれない。
それとも、ここが“深い”と判断したのか。
回廊の端に、小さな札が落ちていた。
木片に文字が刻まれている。
ルーナは拾い上げ、読もうとして――目を止める。
文字は読める。
けれど、意味が浮かばない。
さっきと同じだ。
「……読めない」
神官が覗き込む。
「読めますよ。……でも、頭に残らない」
二人で顔を見合わせてしまう。
それだけで、少し可笑しい。
笑えないのに、可笑しい。
ルーナは木片を戻した。
落ちていた場所に、そっと置く。
(ここで、何かを拾ってはいけない気がする)
根拠はない。
けれど、今はその根拠のなさを信じた。
沈黙の書庫は、何も見せていない。
けれど、何も見せないまま、確実に内側へ人を運んでいる。
その運ばれ方が、さっきより少しだけ分かった。
だから、ルーナは歩く。
理由のない選択を、理由のないまま続ける。
出口のない場所で、出口のない選び方をしながら。
そして気づかないふりをする。
――ここにいる時間が、もう“長い”のだということに。




