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偽聖女は巡礼中。ーーえ? 護衛が神様ですって?  作者: 絹ごし春雨


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三十八話 空の認定

 最初に起きたのは、混乱ではなかった。


誰も動かず、誰も声を上げない。

光に満たされた部屋の中央で、台だけが空のまま、何事もなかったかのようにそこにある。


ヴェロニカは、しばらく瞬きをしなかった。


目が慣れれば、何かが見えてくるかもしれない。

光の奥に、隠された仕掛けがあるのかもしれない。


そう思っている間は、まだ余裕があった。


けれど、いくら待っても何も現れない。

光は光のまま、台は台のまま、空白は空白のままだった。


「……確認して」


声は低く、抑えられている。


命令というほど強くはない。

けれど随行の者たちは、即座に動いた。


壁際。

床。

天井。


隠し扉がないか、仕掛けがないか。

誰もが慎重に、けれど焦らないように振る舞っている。


焦れば、間違いが起きる。

ここまで正しく来たのだから、最後も正しくなければならない。


ヴェロニカはその様子を、台の前に立ったまま眺めていた。


聖匙を握る指に、少し力が入る。

白くなるほどではない。まだ、そこまでではない。


(……遅い)


そう思った瞬間、自分でも驚いた。

現れないことではなく、“遅い”と思ったことに。


聖典は、現れる。

そう書いてある。


ならば、現れないのはおかしい。

今すぐでなくてもいい。

けれど、待たせる理由もない。


「記録を」


ヴェロニカが言うと、神官が頷いた。


持ち込んでいた写本が広げられる。

紙をめくる音が、この部屋ではやけに大きく聞こえた。


「……ここです。

『聖女が扉を開き、その前に聖典が現れた』」


読み上げられる声は、揺れていない。

揺れていないからこそ、余計に空白が際立つ。


「場所は?」


「この部屋、と……」


神官は言い切らず、文字をなぞる。


ヴェロニカは、それ以上聞かなかった。

書いてある。

それで十分だ。


(……書いてあるのに)


その言葉を、心の中で繰り返す。


書いてある。

記録がある。

伝承がある。


それなのに、ここには何もない。


誰かが、息を詰めた。

誰かが、視線を逸らした。


沈黙が、じわじわと広がっていく。


ヴェロニカは、怒鳴らなかった。

机を叩くこともしない。

神官を責めもしない。


そのどれもが、“間違い”を認める行為になるからだ。


「……もう一度」


言葉は短い。


「最初から、確認して」


確認とは、見落としを探すことだ。

見落としがあったと仮定することで、正しさを保つ。


随行の者たちは、もう一度部屋を巡る。

さっきよりも丁寧に。

さっきよりも静かに。


それでも、結果は変わらない。


何もない。


時間が、少しずつ歪み始める。


どれくらい経ったのか分からない。

灯りの強さは変わらない。

疲れも感じない。


ただ、空白だけが、じっとそこに居座っている。


(……違う)


ようやく、別の思考が浮かぶ。


ここが違うのではない。

手順が違うのでもない。


――“現れ方”が、違う。


ヴェロニカは、ふと台の前に戻った。


聖女の前に、現れる。

そう書いてある。


(……前、ね)


言葉の意味を、初めて考える。


鍵穴の前。

台の前。

それとも、別の“前”。


考えた瞬間、胸の奥に小さな棘が刺さる。


もし――

もし、この部屋が違うのだとしたら。


「……いいえ」


ヴェロニカは、すぐにその考えを切り捨てた。


ここまで来た。

正面を進んだ。

記録の通りに。


これ以上、“別の可能性”を考える必要はない。


「……ふざけないで」


声は、低い。


怒りではない。

けれど、苛立ちがないわけでもない。


空白が、こちらを試しているような気がした。


――選ばれていない、などという可能性。


そんなものは、最初から存在しない。


ヴェロニカは、ゆっくりと部屋を見回した。


光は美しい。

静けさも、整っている。


すべてが“正しい”。

正しいのに、報われない。


それが、何よりも許せなかった。


「……待ちましょう」


神官が、慎重に言った。


ヴェロニカは、首を横に振らなかった。

けれど、頷きもしない。


待つ、という選択肢が、ここにあるのかどうか。

それすら、まだ判断がつかない。


沈黙は、彼女の周囲に集まっていく。


誰もが、彼女の次の言葉を待っている。

その沈黙が、ヴェロニカを中心に形を取る。


彼女は聖匙を握ったまま、動かない。


鍵は、正しく使われた。

扉も、正しく開いた。


それでも、何も起きない。


――正しさが、初めて彼女を裏切った。


ヴェロニカは、その事実をまだ口にしない。


口にした瞬間、

何かが決定的に変わってしまうと、分かっているからだ。


だから彼女は黙る。


怒りも、否定も、結論も出さずに。

ただ、沈黙の中に立ち続ける。


それが、彼女にできる最後の“正しさ”だった。

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