三十四話 沈黙へ降りる
出発してから続いた道は、いつの間にか下りに変わっていた。
巡礼路は山肌に沿って続き、乾いた草の匂いと白い石に支えられていたはずだ。けれど聖匙の村を離れてしばらくすると、足元の土はやわらぎ、靴裏がわずかに沈む。谷へ向かう緩やかな傾斜が続いているのに、身体は不思議と疲れを拾わなかった。
ルーナは、ひとつ息を確かめる。
呼吸は整っている。胸も静かだ。
何かを感じ取ろうと身構える必要もない。
――それが、少しだけ妙だった。
旅は終盤だ。
この先には沈黙の書庫がある。
鍵の村の名が示す場所。誰もが遠回しに恐れてきたところ。
本来なら、心のほうが先走ってもいいはずなのに。
何も、感じない。
怖くもなければ、安心でもない。
感情は平らで、ひっかかりがない。
祈りの言葉さえ、いつもと同じ調子でしか浮かばなかった。
(……疲れてるのかな)
そう思って、すぐに首を振る。
疲れているなら、足が重くなる。喉が乾く。腹も鳴る。
けれど身体は、整いすぎるほど整っていた。
前を行く神官が足を止め、布包みを点検している。
油壺、火口箱、水筒、乾パン。
低い声で二、三度確認が交わされ、結局、何も不足はないらしい。
荷の重さも変わらない。
必要なものが揃っていることが、こんなにも落ち着かないと思ったのは初めてだった。
隣を歩くアルトは、いつもより半歩だけ前にいる。
護衛としての位置。近すぎず、遠すぎず。
剣に手を置くでもなく、肩を張るでもない。
ただ、視線だけがときどき壁や地面へ落ちていた。
――見ている。
――測っている。
何を? そう感じたが、彼は何も言わない。
「何かありますか」と聞けば、答えてくれるだろうか。
そして、答えたあとで、またいつもの距離に戻ってしまうのだろう。
そう思って、ルーナは口を閉じた。
聞かないことも、順序なのだと思えた。
谷へ降りるにつれて、風の音が薄くなる。
耳が詰まるのとは違う。
風は吹いているはずなのに、葉擦れの音が遠い。
鳥の声も、いるはずの場所から聞こえない。
音が消えたわけではない。
どこかで、受け止められている。
谷底へ落ちていくのは冷気ではなく、響きのほうだった。
「……階段だ」
神官が短く言った。
岩の陰に、地下へ続く階段が口を開けている。
段差は低く、幅も広い。
何度も使われた跡があり、苔も薄い。
罠の気配はない。
けれど、終わりは見えなかった。
暗いのではなく、光が届かない深さがある。
ルーナは一段、足を下ろす。
靴底が石を拾う音が、少し遅れて返ってきた。
反響は硬く、距離がつかめない。
二段、三段と降りるたび、背後の空が細くなる。
湿り気はないのに、肌だけがひやりとする。
灯りは、どこからともなく在った。
火の匂いはしない。
聖燈とも違う、淡い光。
壁に埋め込まれた鉱石が光っているようにも見えたが、確信は持てない。
その光は、照らすというより、輪郭を薄めている。
階段を数えようとした。
十を越えたあたりで、数が途切れる。
なぜ止まったのか、分からない。
気が散ったわけでもない。
ただ、数える必要が消えたようだった。
(……何も、感じない)
そう思って、初めて気づく。
この平坦さが、怖くない。
怖くないこと自体が、少し不思議だった。
アルトの歩幅が、わずかに変わる。
音を殺すためではない。
段差の終わりや壁の角度を、身体で測っているような動き。
彼は説明しない。
説明しないまま、ルーナが遅れない速度を保っている。
階段は、唐突に終わった。
地下に降りたはずなのに、天井は高い。
湿り気もなく、土の匂いもしない。
外と内の境目が曖昧で、ここが空洞なのか、建物の中なのか分からない。
少し先に、石の影が重なって見えた。
沈黙の書庫。
噂に聞いていたよりも小さい。
神殿ほどの荘厳さも、砦のような威圧もない。
石造りで、角は丸く、装飾は控えめだ。
けれど、質素とも言い切れない。
建てた者の意図が、どこにも書かれていない感じがする。
近づくと、石の積み方が揃っていないことに気づく。
古い層と新しい層が混じり、癖も違う。
時代も、手も、ひとつではない。
それを、隠していない。
入口は一つではなかった。
正面の広い扉のほかに、左右や裏手にも開口がある。
どれも同じように、閉ざされていない。
拒まれてもいなければ、迎えられてもいない。
ただ、そこにある。
(……目的が、読めない)
聖遺物を守るなら、もっと閉じるはずだ。
選ばれた者だけを通すなら、もっと分かりやすく選ぶはずだ。
けれど、ここは違う。
神官が地図を畳んだ。
紙の擦れる音が、この場所では妙に大きい。
彼は地図を胸に押さえ、建物を見上げた。
沈黙の前では、人は少しだけ動きが多くなる。
「……ここ、でしょうね」
確認のような言葉。
返事はなかったし、必要もなかった。
ルーナは書庫の前に立っても、胸が静かなままだった。
期待も、不安も、湧いてこない。
ここまで来たのに、心が追いつかない。
「……変ですね」
独り言のように零れる。
アルトはすぐに答えず、視線を地面へ落とした。
土の色、石の欠け、足跡の深さ。
細かなものを拾いながら、結論を口にしない。
「何が、ですか」
穏やかな問い。
「何も、感じないんです。
もっと……何かあると思っていました」
曖昧だと分かっている。
けれど、嘘ではない。
アルトは少しだけ間を置いた。
「そうですか」
否定も肯定もなく、
ただ受け止める声。
彼は一歩前に出て、入口のひとつを選ぶ。
正面でも、裏でもない。
いちばん目立たない、小さな開口だった。
「行きましょう」
促しでも命令でもない。
正しさを断言するでもなく、引き返しを勧めるでもない。
淡々としていて、けれど確かだった。
ルーナは頷き、後に続く。
扉をくぐった瞬間、音が鈍る。
足音も、衣擦れも、呼吸も、消えはしない。
ただ、壁に届かず、返らない。
世界が布で覆われたみたいに、響きだけが奪われる。
それでも、心は平らなままだった。
(……あ)
ようやく分かる。
何も感じないのは、自分のせいではない。
ここが、そういう場所なのだ。
怖くないはずがないのに、怖さが立ち上がらない。
感情が形を取る前に、沈黙が先に触れてしまう。
アルトは横で歩きながら、わずかに歩幅を調整する。
護衛の位置に戻るための、ほんの小さな動き。
彼は何も言わない。
けれど、その背中は、確かにここを知っていた。
沈黙の書庫は、
まだ、何も始まっていなかった。
けれど――
始まっていないことこそが、始まりだった。




