三十二話 鍵はもうある
聖匙の村は、ひどく普通だった。
市場があり、井戸があり、家々の扉も開いている。
鍵に縁のある村だと聞いていたわりに、閉ざされた印象はない。
「……ごく普通の村、という感じですね」
神官がそう呟くと、村人は曖昧に笑った。
「神器は使うものじゃありませんから」
その言い方だけが、少し引っかかった。
広場の奥、石造りの小さな堂の前に、
すでに人の気配があった。
その中心に立っていたのは、ヴェロニカだった。
「ご苦労だったわね」
柔らかな声。
労いの形をしているが、ねぎらいだけではない。
彼女は手にしたものを軽く掲げる。
細身の金属製の鍵。
古い意匠。けれど、摩耗はない。
聖匙。
「……それが」
神官が息を整える。
「ええ」
ヴェロニカは頷いた。
「沈黙の書庫の鍵よ」
言い切りだった。
推測でも、期待でもない。
「この村で保管されていたのですか」
「そう」
鍵を回すことも、確かめることもしない。
ただ、持っている。
「書庫は、まだ開かれていない」
「でも――開くのは、この匙よ」
確信だけが、そこにある。
ルーナは、その言葉を聞きながら、
胸の奥で静かな違和感を覚えた。
(……鍵、なのに)
開く扉の話が、まだ出ていない。
それでも、
“開く”と断言されている。
「あなたたちは」
ヴェロニカの視線が、神官からルーナへ移る。
「ずいぶん遠回りをしてきたみたいね」
声は穏やかだ。
けれど、含みははっきりしている。
「でも安心なさい」
微笑む。
「必要なものは、もうここにある」
匙を軽く持ち上げる。
「――だから、あなたたちの巡礼は、もう役目を終えているのよ」
言外にある言葉は、ひとつだけだ。
あなたは、無駄足。
誰も、すぐには返事をしなかった。
ルーナは、聖匙から視線を外す。
確かに、鍵はここにある。
確かに、ヴェロニカは迷っていない。
けれど――
(……急ぎすぎている)
それが、はっきり分かってしまった。
鍵は、振り回すものなのだろうか。
確信だけで、
全てが開くものなのだろうか。
正しい場所で、
正しい順序で、
正しい“開き方”で。
その条件が、まだ揃っていない。
ルーナの頭に自然に疑問が浮かんだ。
アルトと、視線が合う。
彼は何も言わない。
だが、ヴェロニカの言葉を、肯定もしない。
ヴェロニカ一行は、そのまま村を後にすることになった。




