三十一話 誰も欠けていない像
神殿跡は、思っていたより小さかった。
石柱は途中で折れ、屋根は半分以上失われている。
それでも中央だけは、妙に整っていた。
風が抜けても、音が荒れない。
足音が、吸い込まれるように静まる。
「……ここです」
神官が低く告げる。
台座の上に、鏡が置かれていた。
大きくはない。
両手で持てるほどの、小さな手鏡だ。
縁には簡素な文様が刻まれているが、宝飾はない。
ただ、古く、澄んでいる。
ルーナは一歩、距離を保ったまま立った。
近づきたいとも、離れたいとも思わない。
「触れなくても、映ります」
神官の声が、いつもより慎重だった。
「前に立つだけで」
ルーナは小さく頷き、鏡の正面に立つ。
特別な作法はない。
祈りの言葉も求められない。
ただ、立つ。
鏡に映ったのは、自分だった。
外套の色。
髪の流れ。
少しだけ伏せた目。
いつもと変わらない自分。
(……普通)
そう思った瞬間、
違和感が、ほんのわずかに走る。
映っているのは、自分だけではなかった。
肩の向こう。
背後の空間。
ぼんやりと、
誰かの輪郭が、重なっている。
神官。
護衛たち。
少し離れた場所に立つ、アルト。
全員が、淡く、同じ濃さで。
誰も前に出ていない。
誰も欠けていない。
ルーナは、思わず瞬きをした。
消えない。
揺れもしない。
鏡は、ただ映している。
「……あ」
声にならない音が、喉の奥で止まる。
(誰も欠けていない)
光は、強くならない。
目を射ることもない。
けれど、じんわりと胸が熱くなる。
「……どうですか」
神官が、慎重に尋ねる。
ルーナは、少し考えてから答えた。
「……一緒に、映っています」
評価でも、感想でもない。
見えたままの言葉。
神官は、それ以上何も聞かなかった。
理由も、意味も、求めない。
鏡は、やがて静かに曇り、
次の瞬間には、ただの鏡に戻っていた。
ルーナは一歩、下がる。
(ここまで、一緒にこれた)
呼吸が、いつもより深かった。
少し離れた場所で、アルトが目を伏せている。
表情は変わらない。
けれど、その沈黙は、長かった。
(……やはり)
彼は、何も言わない。
この鏡が何を映したのか。
それをどう受け取るべきか。
今、言葉にする必要はないと知っているからだ。
「行きましょう」
神官がそう告げ、一行は歩き出す。
ルーナは、もう一度だけ、鏡のあった台座を振り返った。
輝きは残っていない。
奇跡の痕跡もない。
それでも――
(……ひとりじゃ、なかった)
その感覚だけが、
静かに胸に残っていた。




