二十九話 映る前の準備
「神器、あと二つなんですか?」
ルーナは神官の地図を覗き込んでいた。
指でなぞるでもなく、ただ、描かれた線の流れを追うように。
「ええ」
神官は地図を畳みながら頷く。
「聖鏡と、聖匙です」
「……匙?」
思わず、ルーナは聞き返した。
神官が一瞬きょとんとし、それから苦笑する。
「そう聞くと、食卓の道具みたいですね。ですが――鍵です。古い呼び名で“匙”と呼ばれているだけで」
「鍵……」
ルーナは、小さく納得したように頷いた。
匙ではなく、鍵。
それなら、話が違う。
「順番は?」
「まずは聖鏡です。山裾の神殿跡にあると聞いています」
神官の声は、淡々としている。
だが、その裏に、わずかな緊張が混じっているのを、ルーナは感じ取った。
「鏡、ですか」
鏡と聞いて、何を思えばいいのか分からない。
祈りの道具。占い。真実。
どれも、ぴったりとは来なかった。
アルトは、少し離れたところで話を聞いていた。
視線は地図ではなく、ルーナの横顔に向けられている。
「聖鏡は……」
神官が言葉を選ぶように、わずかに間を置く。
「“映す”と伝えられています」
「真実を、ですか?」
「そう言われることもあります」
肯定とも否定ともつかない返答。
「ただ……」
神官は、視線を伏せた。
「鏡が何を映すかは、見る者次第だとも」
その言葉に、ルーナは少しだけ考え込んだ。
見る者次第。
祈りのようでいて、裁きのようでもある。
「……難しそうですね」
「ええ」
神官は率直に頷いた。
「だからこそ、慎重に進む必要があります」
慎重に。
その言葉が、ルーナの胸の奥で、静かに引っかかる。
(慎重……)
備えるということだろうか。
神器は、人にどうこうできないのに? ルーナは疑問に思う。
ふとアルトの方を見た。
彼は、こちらを見ていなかった。
いや、見ているのに、視線を合わせてこない。
まるで、鏡を前にしたときの“立ち位置”を、もう決めているかのように。
「……聖女様は?」
ふと、ルーナが口にした。
神官が顔を上げる。
「聖女様?」
「はい。ヴェロニカ様は……聖鏡も、先に?」
神官は、少し言いにくそうに口を開く。
「すでに向かわれています」
「……そうですか」
ルーナは、それ以上、何も言わなかった。
追いつこうとも思わない。
急がなければ、とも思わない。
ただ、胸の奥で、静かに何かが整っていく。
(映る、か……)
自分が映るのか。
それとも、自分の後ろが映るのか。
確かめたいとも、確かめたくないとも、思わなかった。
アルトが、いつもの位置へ戻る。
近すぎず、遠すぎず。
「怖いですか」
不意に、低い声が落ちた。
ルーナは、少し驚いてから、首を振る。
「いいえ」
即答だった。
「……でも、見たくないものが映る可能性は、ありますよね」
「ありますね」
アルトは、否定しない。
「ですが――」
そこで、ほんの一瞬だけ言葉を切った。
「見えないまま進むよりは、いい。あなたはそう言う人でしょう?」
何気ない声で、
ただの事実の提示のように。
それなのに、ルーナの中で、すっと腑に落ちた。
「……そうですね」
自分で考え、自分で選んだ答えだった。
アルトは、それ以上何も言わない。
それが、彼の距離の取り方だった。
一行は、聖鏡のある神殿跡へ向けて歩き出す。
まだ、何も映っていない。
まだ、誰も傷ついていない。
けれど――
何が映っても、準備だけは、もう整っていた。




