二十六話 分かれ道の霧
道は、二つに分かれていた。
どちらも人の通った跡がある。
どちらも、草の踏まれ方に大きな違いはない。
神官が足を止め、地図を確かめる。
けれど、その指はすぐには動かない。
「……どちらも、道です」
あまりに当たり前のことを苦笑いしながら言うから、
誰も次の言葉を続けなかった。
辺りには、霧が出ている。
神官は忙しなく地図と辺りを見比べていた。
霧は薄い。
視界を奪うほどではないのに、遠くが決定的に見えない。
道の先が、途中で溶ける。
左右とも、同じ高さで、同じ距離で。
「……予定では、左だったはずですが」
神官が言って、首を傾げた。
断言ではない。記憶をなぞるような声。
「右も、悪くない道に見えますね」
護衛の一人が応じる。
調子は軽い。焦りはない。
不思議なことに、
誰も「間違っているかもしれない」とは言わなかった。
霧のせいだ、と誰かが言いかけて、
そのまま口を閉じる。
言い切る理由が、どこにもなかった。
ルーナは、少し離れたところで立っていた。
道の先ではなく、足元を見ている。
草が、しっとりと濡れている。
朝露にしては遅く、雨にしては浅い。
風はない。
それなのに、霧は流れていく。
(……止まってはいない)
理由は分からない。
けれど、そう思った。
胸の奥が、静かだった。
不安はない。
期待もない。
ただ、ここで立ち止まることが、
間違いではないと分かる。
「……少し、待ってもいいですか」
ルーナが言った。
声は小さい。
けれど、霧よりもはっきりしていた。
神官が振り返る。
「何か、気になることが?」
問いは穏やかだ。
疑う響きはない。
ルーナは首を振った。
「いいえ……何も」
何も、ない。
だからこそ。
「でも……急がなくても、大丈夫な気がして」
言葉にしてから、自分で少し驚く。
根拠は、やはり見つからない。
神官は一拍だけ黙り、
それから小さく頷いた。
「……分かりました」
理由を求めない頷きだった。
一行が、その場に留まる。
荷を下ろすほどではない。
ただ、歩みを止めるだけ。
霧が、また少し流れた。
ほんのわずかに、
右の道の先が、明るくなる。
光、というほどではない。
ただ、霧の密度が違う。
誰かが、それに気づく前に、
ルーナは一歩、右へ踏み出した。
(……こっち)
思考より先だった。
ルーナの指がすっと指差す。
アルトの足音が、すぐ後ろで止まる。
近すぎず、遠すぎず。
彼は何も言わない。
問いもしない。
ただ、その選択を受け取った。
「こちらへ行きましょう」
神官が、決定を言葉にする。
反対は出なかった。
誰も、惜しむように左を見ない。
霧の中を進むと、
道は緩やかに下っていく。
しばらくして、
湿った土の匂いが変わった。
煙の匂い。
人の生活の匂い。
「……村、ですね」
誰かが言う。
霧の向こうに、
灯が一つ、滲むように現れた。
ルーナは、立ち止まり、
小さく息を吐いた。
「……ありがとうございます」
誰に向けた言葉かは、分からない。
神にか、道にか、
それとも——
アルトは、その横顔を見ていた。
灯は、強くはない。
けれど、消えない。
迷う人を、追い立てる光ではなく、
気づけば隣にある光。
(……やはり)
彼は、心の中でだけそう思った。
この灯は、
掲げられるものではない。
気づかれないまま、
人を正しい場所へ連れていく。
そして彼女は、
その灯のありかを、
すでに知っている。




