二十五話 名を呼ばれない祈り
ルーナは、小さな祠の前に立っていた。
跪いてはいない。
手も組んでいない。
ただ、胸の前で外套の端を軽く押さえ、目を伏せている。
祈りの言葉は、ほとんど動かない唇の内側にある。
(どうか、今日も滞りなく)
それだけだった。
願いは短い。
具体的な救いも、奇跡も求めない。
ただ、今日という一日が、今日の形のまま終わることを。
風が、祠の周囲を一周する。
木の葉が擦れ、小さな音を立てる。
ルーナはそれに耳を澄まし、わずかに呼吸を整えた。
それで、祈りは終わりだった。
顔を上げる。
世界は、何も変わっていない。
空は同じ色で、道も同じ場所にある。
遠くで護衛たちの話し声がする。
それでいい、と思った。
少し離れた場所で、アルトは立ち止まっていた。
近づかない。
邪魔もしない。
ただ、視線だけが外れない。
彼は、ルーナが祈っている姿をよく知っている。
聖女としての儀式ではない、こういう祈りを。
声に出さず、
何かを願うというより、
世界と呼吸を揃えるような祈り。
(……やはり、心地良い)
アルトは、目を伏せ心の中でだけそう呟いた。
誰かに与えられた力ではない。
教え込まれた形でもない。
この少女は、
最初から神に向かって立っている。
頼らず、縋らず、
それでも背を向けない。
だからこそ、
”神“は彼女を見失わない。
ルーナがこちらに気づき、ふと視線を上げる。
「……待たせましたか?」
「いいえ」
即答だった。
アルトは、いつもの位置に戻る。
近すぎず、遠すぎず。
「終わりましたか」
「はい。いつも通りです」
いつも通り、という言葉に、嘘はない。
アルトは、それ以上聞かなかった。
何を祈ったのかも、
神が応えたのかも。
必要ない、全て知っているから。
彼女はもう、
祈るだけで足りている。
歩き出すルーナの背を見ながら、
アルトは静かに思う。
(……この祈りを、邪魔するものは)
世界にあってはならない。
それが”神“の意思だと、彼女が知る日は来るだろうか。
彼は、今日もその一歩後ろを歩いた。




