二十二話 触れない結界
夕方、村の空気は落ち着いてはいなかった。
子どもは走り回っている。
声が重なり、転びそうになって、誰かが泣き出しかける。
それを大人が呼び止め、言葉が強くなり、また別の声がかぶさる。
誰も怒ってはいない。
けれど、少しの拍子で喧嘩になりそうな気配が、あちこちに立ち上がっていた。
まだ、何も起きていないだけだ。
怒鳴り声も、泣き声も、
一歩手前で踏みとどまっている。
ルーナは広場の端に立ち、白い布を見つめていた。
聖布――正確には、祈りの際に用いられるヴェール。
覆うための布。
守るための布。
けれど、遮断するものではない。
「……被って祈るそうです」
声は、すぐ後ろからだった。
振り返る前に分かる。
一定の距離。低い声。
「はい」
答えると、アルトは何も言わずに一歩近づいた。
近い。
けれど、触れない。
布を持つ手が、視界に入る。
騎士の手。鍛えられているのに、動きは慎重だ。
(……あ)
アルトは正面に立ち、ふわりとヴェールを被せた。
白い布が視界に落ちる。
顔に直接触れないように。
けれど、髪にかかる位置を確かめるように。
その距離で、アルトは一瞬、呼吸を止めた。
「……苦しくないですか」
「大丈夫です」
声が、布越しに柔らかくなる。
アルトは、それ以上近づかない。
けれど、離れもしない。
布を整える指先が、風を読むように動く。
「なんだか……守られている、感じがします」
ルーナがはにかんだようにそう言うと、アルトの手が一瞬止まった。
「……そう、ですか」
声は低い。
けれど、少し戸惑ったように。
アルトが退く。
ヴェール越しに見る景色は、少しぼやけている。
人の輪郭が柔らかい。
距離が、適切になる。
喧嘩は起きませんように。
怒鳴り声も、泣き声も人を傷つけませんように。
この布がある限り――
いや、この布を被せた人が、ここにいる限り。祈ろう。
(……あ)
気づいてしまった。
この結界は、布そのものじゃない。
今ヴェールは、アルトとルーナを隔てている。
近すぎず、遠すぎず。
触れないけれど、離れない。
「……終わったら、外しますね」
「はい」
「今は、しばらく、そのままで」
その約束が、なぜか胸に残る。
外す。
いつか、外す。
でも今は、被せられている。
ヴェールの下で、ルーナは目を閉じた。
祈りの言葉は、浮かばない。
ただ、呼吸だけを整える。
その様子を、アルトは見つめていた。
守る位置。
騎士として、正しい位置。
それなのに――
布を被せたのが、自分であることだけが、胸を温める。
(……まずいな)
そう思って、
ほんの一瞬だけ。
口元が、緩んだ。
この結界が保たれている限り、
彼女は、まだ安全だ。
――そして、
自分は、もう後戻りするつもりもない。




