十六話 期待の集まる場所
聖琴の村。
広場に出ると、空気が一段張りつめていた。
夕日は、まだ完全には沈んでいない。
けれど、村の中央に据えられた簡易の舞台の周りだけ、時間が先に進んでいるようだった。
人が集まりはじめている。
声は低い。足取りは速い。
期待が、はっきり形を持って漂っていた。
ルーナは、その輪の外で足を止めた。
(……あ)
気づいた瞬間には、もう遅い。
舞台の脇、装飾の施された天幕の前。
鮮やかな衣装。揺れる宝石。
その中心に、ヴェロニカが立っていた。
視線が合う。
一拍。
ヴェロニカの唇が、ゆっくりと弧を描いた。
「あら」
その声は、周囲のざわめきを自然に押しのける。
「無事だったのね」
無事。
それが、労いなのか確認なのかは分からない。
「はい」
ルーナは、すぐに一歩下がった。
「おかげさまで」
それ以上、言葉を足さない。
足す必要はないと、分かっている。
ヴェロニカは満足そうに頷いた。
「当然よね」
視線が、舞台へ移る。
「今夜は、私が演奏するわ」
断言。
「わかっているわね?」
問いかけの形をしているけれど、答えは決まっている。
「……はい」
ルーナは、もう一歩下がった。
影として、正しい位置へ。
それを見て、ヴェロニカはようやく安心したように息を吐いた。
「あなたは、下がっていてちょうだい」
「はい」
声は平坦だった。
悔しさも、反発も、そこにはない。
それがかえって、ヴェロニカの機嫌をよくした。
「いい子ね」
軽い調子でそう言って、彼女は振り返る。
護衛たちが動き、楽師が呼ばれ、聖琴が運ばれてくる。
弦に触れた瞬間、空気が震えた。
(……音が、前に)
ルーナは、その変化を肌で感じた。
まだ弾かれていない。
けれど、音が来ることだけは、はっきり分かる。
人々が集まる。
祈りの声が、ひそひそと重なりはじめる。
「聖女様……」
誰かが名を呼ぶ。
ヴェロニカは、応えるように顎を上げた。
その姿は、確かに美しかった。
選ばれた者の立ち方をしている。
ルーナは、さらに一歩下がる。
舞台の影。
光が届かない位置。
そこに立つと、周囲の音が変わった。
期待のざわめきが、遠くなる。
代わりに、一定の距離で足音が聞こえた。
近すぎず、遠すぎず。
アルトだ。
彼は何も言わない。
ただ、そこに立っている。
(……譲るのは、当然)
ルーナは、そう思った。
譲ることに、迷いはない。
譲らない理由も、ない。
けれど——
舞台の中央で、ヴェロニカが聖琴に手を置いた瞬間、疑問が浮かぶ。
空気が、はっきりと高揚した。
それは、祈りに似ている。
でも、祈りよりも熱い。
(……これは)
音が鳴る前から、胸がざわつく。
人々が、すでに泣きそうな顔をしている。
感動が、先に訪れていた。
ルーナは、その様子を見て、困惑に視線を伏せた。
(今夜は……長くなる)
理由は分からない。
けれど、そう思った。
アルトの足音が、ほんのわずかに位置を変える。
見張りのための位置。
彼もまた、分かっているのだろう。
この夜は、静かには終わらない。
弦が鳴る。
最初の音が、夜に放たれた。
——ここから、ヴェロニカの夜が始まる。




