十五話 長い夜の鐘
馬車が村へ近づくにつれて、道の感触が曖昧になっていった。
揺れが増えたわけではない。速度が落ちたわけでもない。
それでも、進んでいるはずなのに、距離の感覚だけが薄れていく。
窓の布越しに見る景色が、どこか同じ場所を繰り返しているように見えた。
同じ木。似たような石垣。畑の端に立つ人影。
(……まだ着かない?)
口には出さず、胸の内で問いかける。
問いかけた瞬間、時間が伸びたような気がした。
外から足音が一定の距離で続いている。
近すぎず、遠すぎず。
その足音だけが、今どこを進んでいるのかを教えてくれる。
「……この辺り、暗くなるのが早いですね」
ルーナがぽつりと言うと、すぐ外から声が返った。
「ええ。この村は、そういう土地だと聞いています」
アルトの声だった。
風に混じっても、少しも揺れない。
「夜が、長いとか?」
「はい」
短い肯定。
それだけで、理由を説明する気がないのが分かる。
説明できないものも、あるのだろう。
馬車がさらに進む。
空はまだ明るいはずなのに、木立の影が濃い。
夕方とも、まだ昼とも言い切れない。
(……時間が、ずれてる)
そう感じたとき、胸の奥が少しざわついた。
嫌な予感ではない。
けれど、放っておけない違和感。
やがて、道が開けた。
低い家並み。
石造りの建物が寄り添うように並び、中央に小さな広場がある。
そして、その端に——鐘楼。
大きくはない。
飾りのない、
ただ、長く使われてきたことだけが分かる鐘だ。
馬車が止まり、村人たちが集まってきた。
声は控えめ。動きは早い。
「……ようこそ」
村の長らしい人物が頭を下げる。
その背中には、疲れがあった。
「この村は……夜が長くて」
言い訳のように、そう言った。
「日が沈んでも、終わらない気がするんです。
朝が来ても、来た実感がない」
ルーナは頷いた。
言葉より先に、身体が理解している。
(だから、鐘が……)
村人の視線が、鐘楼へ集まる。
誰も責めるような顔はしていない。
ただ、頼るような視線が飛んでくる。
神官が一歩前へ出る。
「巡礼の務めとして、この村の鐘を鳴らします」
そう言ってルーナに視線を向けた。
空気が少しだけ動いた。
夜。
村は、確かに暗かった。
灯は点いているのに、闇が引かない。
時間が溜まっているような静けさ。
ルーナは、自然に目が覚めていた。
まだ誰も起きていない。
でも、もうすぐだと分かる。
理由はない。
ただ、今だと思った。
外套を羽織り、外へ出る。
空気は冷たい。夜の終わりの冷たさ。
鐘楼の下に立つと、木製の階段が軋んだ。
その音が、不思議と遠くまで響いた。
(……今なら)
ルーナは、鐘を見上げる。
触れ慣れていないはずなのに、位置が分かる。
力はいらない。
強く鳴らす必要もない。
ただ、正しい瞬間に。
鐘を鳴らす。
音は、大きくなかった。
けれど、澄んでいた。
一度。
間を置いて、もう一度。
音が、村に染み込んでいく。
鳥が鳴いた。
遠くで、扉が開く音がした。
誰かが深く息を吸う。
夜が、終わる。
朝。
村は、少しだけ軽くなっていた。
人々の動きが早い。
言葉が少ないのに、顔が穏やかだ。
「よく眠れました」
そう言って頭を下げる村人がいた。
理由は分からない。
けれど、夜が明けたという事実だけが残る。
アルトは、広場の端に立っていた。
いつもの位置。
前に出ない。
鐘楼を見上げ、空を見る。
(……整った)
それだけで十分だった。
夕方。
日が沈みきる前、ルーナはまた鐘楼に立った。
今度は、村人が自然と集まっている。
子どもがあくびをし、年寄りが腰を下ろす。
一日が、終わる準備をしている。
鐘を鳴らす。
音が、今日を区切る。
夜は来る。
でも、長くはならない。
その夜、誰も不安そうな顔をしなかった。
アルトは、遠くからその様子を見ていた。
口元は動かない。
けれど、目だけが、ほんの少し柔らかい。
(順調だ)
それだけで、十分だった。
翌朝、出立の準備は滞りなく進んだ。
誰も寝坊しない。
誰も名残を惜しまない。
鐘は村に残る。
役目を果たしたまま。
馬車が動き出す。
外から、足音が一定の距離で重なる。
近すぎず、遠すぎず。
時間は、また前へ進み始めた。




