十四話 軽くなる足音
馬車は進んでいく。
窓の布が揺れて、外の光が淡く滲む。車輪が小石を噛む音が一定で、揺れは思ったより少ない。道が良いのか、御者が上手いのか。どちらでもいい。静かに進めば、それで十分だった。
ルーナは膝の上で手を組んだ。
祈りの形。ほどけないまま残る。
(今日は、進みが早い)
それだけ思って、すぐに胸の奥へ戻す。
言葉にすると、何か理由を探してしまいそうだから。
外から、足音が一定の距離で重なる。
近すぎず、遠すぎず。
その音は、昨日までより少しだけ軽い気がした。
気がする、だけ。断言はしない。
馬車の横に影が一つ並ぶ。
アルトだ。
彼は歩いている。鎧を着たまま。外套の裾が揺れ、足元は土と石の道だ。普通なら、疲れが先に来るはずの歩き方。
それなのに。
アルトの歩調は変わらない。
乱れない。息が上がらない。
ルーナは視線を落とした。
(すごい……)
感心する。
彼は疲れないんだろうか。
休んでいるのを見たことがない。
馬車が少しだけ揺れ、布の窓がふわりと膨らんだ。
風が変わったのだろう。草の匂いが濃くなる。遠くで鳥が鳴いた。
「水を」
外から声。
袋が、馬車の側面にそっと括りつけられる気配がした。
ルーナが窓を少し開けると、銀色が見えた。手袋と外套の端。
「……ありがとうございます」
「飲んでください」
少しだけ機嫌の良さそうな声。
喉がほどける。
水を飲んでいる間も、足音は一定の距離で続いている。
近すぎず、遠すぎず。
その距離のまま、どれくらい歩いているのだろう。
ふと、馬車の前方から笑い声がした。
護衛の誰かが、何かを言ったらしい。声は大きくない。けれど、乾いた笑いではない。
今朝から、護衛たちの空気が少しだけ軽い。
視線が鋭いままなのに、肩が硬くない。
(……今日は、みんな元気だ)
そのことに気づいて、ルーナは少しだけ安心した。
護衛が元気なら、こちらも守られる。それにギスギスもしない。
しばらく進むと、馬車がゆるやかに減速した。
車輪が砂利を噛む音が変わる。
「休憩を取ります」
神官の声。
扉が開き、光が差し込む。
土の匂いが近い。
「足元を」
アルトが扉の前に立っている。
いつもの位置。自然にそこにいる。
ルーナは地面に降りた。
草が湿っている。朝の露が残っているのだろう。靴底が少し冷たい。
護衛たちは水場へ散り、馬の手綱を直し、荷の紐を締め直している。
動きは手早い。手早いのに、焦りがない。
「今日は早いな」
誰かが言った。
「……馬車が軽いのか?」
「いや、荷は変わらんだろ」
「じゃあ道か」
道、と言いかけて、誰かが肩をすくめた気配がする。
「……まあ、楽ならいい」
会話はそこで終わる。
ルーナは水を口に含み、遠くを見た。
木立の間を風が抜けていく。葉が揺れる。まだ春の匂いが浅い。
アルトは少し離れた場所に立っていた。
水場とルーナの間。視線は外へ向けたまま。
普段と同じ護衛の姿勢。
なのに、何かが違う。
……表情が、違うのだ。
口元は動かない。
眉も寄らない。
けれど、目の奥が、ほんの少しだけ柔らかい。
気のせいだと思った。
思ったのに、アルトがこちらを一瞬だけ見た。
見て、すぐに前へ戻す。
その一瞬、確かに。
――笑っていた。
笑う、と言うほどではない。
でも、確かに。
ルーナは水袋の口を閉じる手を止めた。
(……今、笑った?)
確認したいのに、確かめるのが怖い。
(何かいいことでもあったんだろうか)
ルーナは咳払いをして、視線を外へ逃がした。
分からないままでもいい。
出立の合図がかかり、列がまた整う。
馬車に乗り込む前、ルーナは一つだけ尋ねた。
「……休憩、短かったですね」
アルトはすぐに答えた。
「歩けていますから。みんな元気なんですよ」
歩けている。
その言葉が、護衛側のことだとすぐ分かる。
「皆さん、今日は疲れてないんですね」
「ええ」
目だけがまた少し柔らかくなる。
今度は見間違えない。
アルトは、嬉しそうだった。
滞りなく予定が進んでいる。
それを楽しむかのようだった。
その表情が、ルーナの胸の奥を少しだけ甘くする。
(……どうして)
馬車が動き出す。
外の足音がまた一定の距離で重なる。
近すぎず、遠すぎず。
ふと、後方から声が飛んだ。
「アルトさん、今日やけに軽くないですか」
冗談めいた声。
返事を期待している声。
「いつも通りだ」
アルトの声は淡々としている。
「うそだ。鎧、重いはずだろ」
「慣れている」
「それだけか?」
「それだけだ」
会話はそこで切れる。
護衛たちが笑う。短い笑い。風に溶ける笑い。
アルトは、歩調を変えない。
変えないまま、ほんの少しだけ口元が緩んだ。
見えないくらいに、けれどルーナは気づいた。
ルーナは窓の布を指でつまみ、そっと下ろした。
見てしまうと、胸が落ち着かなくなるから。
でも、耳は閉じられない。
足音が軽い。
鎧の擦れる音が、昨日より柔らかい。
誰も遅れない。
護衛が楽になっている。
その事実だけが、巡礼の空気を少しだけ変えている。
(……聖靴)
名前が浮かぶ。
浮かんで、すぐに消す。
消しても、足音は続く。
近すぎず、遠すぎず。
言葉にしないまま、
歩けてしまう余韻を抱えたまま、
巡礼は続いていく。




