十三話 歩みを守る靴
山道は、思っていたよりも静かだった。
麓の村を出ると、人の声はすぐに遠のいた。代わりに聞こえてくるのは、足元で小石が転がる音と、風が木々を揺らす音だけになる。道は細いが、踏み固められている。誰かが何度も通ってきた道だ。
「この先です」
案内役の村人は、振り返らずに言った。
年は若くない。背中が、山道の歩き方を知っている。
「聖靴は、山の上に祀られています。昔から、ずっとそうらしいです」
ルーナは頷いた。
返事をするほどの余裕は、今はなかった。
歩き始めてしばらくすると、足裏に伝わる感覚が変わってきた。平地とは違う。登りはじめの負荷が、ふくらはぎに溜まる。息が、ほんの少しだけ深くなる。
(長い道)
そう思った瞬間、歩調が自然と落ちた。
落ちた、と思う前に、隣の気配も同じ速さになる。
アルトだ。
前にも後ろにも出ない。
ただ、同じ高さで、同じ速度で歩いている。
「……歩きにくいですか」
「少し、だけ」
「では、このくらいで」
言って、何かをするわけではない。
けれど、歩調を合わせてくれる。
案内役の村人が、ちらりと振り返る。
「……さすがですね」
誰に向けた言葉か、分からない。
でも、足取りは変わらなかった。
道は、徐々に険しくなる。
根が張り出した場所。湿った土。苔むした石。
一度、後ろの護衛が小さく足を滑らせた。
すぐに立て直す。転ばない。
誰も声を上げない。
列は乱れない。
ルーナは、自分の足元を見た。
疲れていないわけではない。
けれど、先ほどより「つらい」と感じるほどでもない。
(歩ける)
ただ、それだけ。
不思議だった。
休憩を取るほどでもない距離を、黙々と進む。
山の匂いが濃くなる。空気が少し冷たい。
途中、案内役の村人が足を止めた。
「ここです」
開けた場所ではない。
大きな岩の裏。小さな石段。
その先に、祠があった。
屋根は低く、装飾もない。
けれど、前はきれいに掃かれている。草一本、踏み荒らされていない。
「これが……」
村人は言いかけて、口を閉じた。
説明はいらない、と判断したのだろう。
ルーナは一歩、前に出た。
中には、靴が一足、置かれていた。
古い。けれど、壊れてはいない。
装飾用の靴なのに、底がすり減っている。
「履き替えるものではありません」
村人が言った。
「この靴は、“歩みを守る”ためのものです」
ルーナは頷いた。
誰か一人のための靴ではない。
この道を歩く人すべてのための靴。
(なるほど……)
納得は、静かだった。
形式的な祈りが行われた。
神官の声。短い祝詞。決められた言葉。
その間、ルーナは一歩下がって立っていた。
影として、自然な位置。
けれど、靴に目を向けたまま、手を組む。
(今日も、滞りなく)
それだけを祈る。
風が吹いた。
祠の前を、軽く通り抜ける。
誰かの衣擦れ。
それだけで、何かが変わったような気がした。
帰り道は、不思議と短く感じられた。
同じ道。
同じ勾配。
同じはずなのに、足が前に出る。
案内役の村人が、ぽつりと言った。
「……下りは、いつも楽なんです」
「はい」
「でも、今日は……登りも、楽でした」
それ以上は言わない。
言わなくてもいい。
ルーナは、足元を見た。
確かに、重さはある。
けれど、それが邪魔をしない。
歩いている、という実感だけがある。
村へ戻るころ、陽は傾き始めていた。
「ありがとうございました」
ルーナが言うと、村人は深く頭を下げた。
「こちらこそ。……道中が、無事でありますように」
無事、という言葉が、重くない。
祈りというより、日常の挨拶のようだった。
馬車へ戻る途中、アルトが隣に来る。
「疲れましたか」
「……少し、だけ」
「それなら、ちょっとだけ」
彼は歩みを落とした。つられてルーナの歩みもゆっくりになる。
なぜか笑ってしまいそうになった。
馬車に乗り込む前、ふと気づく。
誰も、遅れていない。
誰も、足を引きずっていない。
それが、当たり前のように受け入れられている。
(……歩けてしまう)
言葉にはしない。
しなくていい。
馬車が動き出す。
山が遠ざかる。
外から、足音が一定の距離で重なる。
近すぎず、遠すぎず。
その距離のまま、
巡礼は、続いていく。




