十二話 野営の距離
「大丈夫ですか」
外から声がかかる。
「はい」
返事は短い。短くても届く距離。
「夕方は、道が見えにくくなります」
「……そうですね」
「石が増えます。揺れますから、お気をつけて」
言い方に、気遣いだけが残る。
ルーナは唇の端を少しだけ上げた。
「揺れたら、また聞いてください」
「はい」
それだけの会話で、胸の奥が落ち着く。
馬車の列はゆっくり速度を落とし、やがて道の脇へ寄った。
人の声が増える。馬が鼻を鳴らす。荷を下ろす音。
「今夜はここで休みます」
神官の声がした。
扉が開き、夕方の空気が差し込む。
「足元を」
アルトが扉の前に立っている。
いつもの位置。自然にそこにいる。
ルーナは地面に降りた。土が柔らかい。草の匂いが近い。
神殿の石畳より、ずっと世界が生きている匂い。
夜営の準備は手早かった。
火が起こされ、鍋が吊られ、簡素な幕が張られる。
A班と違う。
整った儀式も、見せる祈りもない。
ただ、生き延びるための動きがある。
ルーナは自分の荷を抱え、指定された場所へ向かった。
幕の内側。風下。火から遠すぎない位置。
「……ここですか」
「はい」
返事は、すぐ後ろからだった。
振り返ると、アルトが立っている。
手は空いている。持つものはないのに、なぜか一番忙しそうに見える。
「風が入らないように」
「……ありがとうございます」
「当然です」
当然、と言う言い方がおかしい。
ルーナは笑いそうになって、咳払いで誤魔化した。
夕食は薄い粥と干し肉だった。
火の近くに集まって食べる。器の音が小さく響く。人の会話は少ない。
それでも、誰かが笑った。
笑い声は短く、すぐに風に溶ける。
ルーナは器を持ったまま、火を見つめた。
火は、神殿の灯より荒い。
荒いのに、温かい。
食事が終わるころ、神官が小さく指示を出した。
「明日は南へ。次の村には、聖靴がある」
その言葉が出た瞬間、空気が少し変わった。
聖靴。
巡礼の安全祈願。
安全な旅だとは思っていない。
しかし、危険だと言われると“影武者”と言う言葉がのしかかる。
ルーナは器を置き、指先を軽く握った。
緊張ではない。どちらかというと、予感に近い。
夜が深くなるにつれ、焚火が一つまた一つ減っていく。
見張りの交代の声。馬のいななき。遠くで梟が鳴いた。
ルーナは幕の中で外套に包まれ、目を閉じた。
眠ろうと思えば眠れる。けれど、眠る前に耳が外の音を拾う。
足音。
一定の距離。
近すぎず、遠すぎず。
その音が、夜営の暗闇を区切っている。
区切りがあると、夜が怖くない。
(……ありがたいな)
そう思って、すぐに忘れる。
深く考えない。考えると、また固くなる。
しばらくして、外の空気が変わった。
風が一段冷える。焚火の匂いが薄まり、代わりに湿った草の匂いが混じる。
雨が来る前の匂いだ。
ルーナは目を開け、幕の隙間から外を見た。
空は暗い。星が少ない。
「起きていますか」
低い声がした。
「……はい」
幕が揺れ、影が立つ。
アルトだ。顔は見えない。けれど、気配で分かる。
「雨が降るかもしれません」
「そうですね……匂いが」
「……分かりますか」
「分かります」
なぜか少しだけ驚いたような間があった。
ルーナはその間を、笑わずに受け取る。
「外套を、もう一枚」
アルトが言った。
「え?」
返事をする前に、幕の内側に布が滑り込んできた。
外套だ。見慣れない色。たぶん護衛用のもの。
「……いいんですか」
「濡れるよりは」
「アルトさんは」
「私は、平気です」
平気、という言葉は信用できない。
でも、今は突っ込まない。
「……ありがとうございます」
「はい」
それだけで会話が終わる。
ルーナは外套を指先で触れた。
布は硬い。けれど、熱が残っている気がする。
(さっきまで誰かが着ていた)
その当たり前のことが、妙に恥ずかしくなる。
恥ずかしいまま、外套を羽織った。
布が肩に落ちる。少し大きい。袖が長い。
それが、なんだか落ち着く。
外の足音がまた一定の距離に戻る。
近すぎず、遠すぎず。
雨は、まだ降らない。
降らないのに、夜はしっとりしていく。
ルーナは目を閉じた。
眠りに落ちかけたころ、遠くで小さな泣き声が聞こえた。
子どもの泣き声。
夜営のどこか。護衛の誰かの家族ではない。巡礼団に子どもはいない。
村人の声だ。
近くの家。あるいは道沿いの小屋。
泣き声は細く、途切れ途切れで、すぐに風に攫われそうだった。
ルーナは起き上がり、外套を掴んだ。
音が気になる。気になるのに、助けに行ける立場ではない。
(私は、聖女じゃない)
言葉が浮かんで、そこで止まる。
(神様……)
ただ、手を組み合わせる。
祈った瞬間、泣き声が少しだけ弱くなった。
弱くなって、途切れて、遠くで消えた。
ルーナは息を止めた。
外套の端を握った手が熱い。
ルーナはその熱を、見なかったことにした。
翌朝。
雨は降らなかった。
その代わり、草に露が残り、足元が少し濡れている。
出立の準備は早い。
火が消され、荷がまとめられ、馬が整えられる。
ルーナが幕を出ると、空気がひんやりしていた。
昨日より少しだけ冷える。けれど、冬の冷え方ではない。
「眠れましたか」
アルトの声。
「……少し」
「それで十分です」
十分、という言い方が妙に優しい。
ルーナは「はい」と返し、歩き出した。
馬車に乗り込む前、ふと気づく。
アルトの外套の肩が、昨日より湿っている。
(あの人、平気じゃないじゃない)
思って、口には出さない。
深く考えない。考えると、甘くなるから。
馬車が動き出す。
道の先に、次の村が待っている。
聖靴の村。
旅の安全祈願。
その日のために、今は道を進む。
外から足音が一定の距離で重なる。
近すぎず、遠すぎず。
その距離のまま、
巡礼は続いていく。




