十一話 杯の祠
馬車は進んでいく。
窓の布が揺れる。道の凹凸が、ゆっくり身体に伝わってくる。揺れは不快ではない。ただ、神殿の石畳とは違う揺れだ。世界が動いている揺れ。
ルーナは膝の上で手を組んだ。
祈りの形。指先が、まだ少し温い。
外から足音が一定の距離で重なる。
近すぎず、遠すぎず。
それが続く限り、馬車はひとりの箱にはならない。
その事実が、胸の奥を静める。
静めることに慣れてしまうのが怖いのに、慣れたくないと言えない。
馬車がゆるやかに減速した。
車輪が砂利を噛む音が変わる。
「村に入ります」
外から声がした。
アルトの声。風に混じっても輪郭が崩れない。
「はい」
返事は短い。
短くても届く距離。
布を少し持ち上げると、窓の外に畑が見えた。土の色はまだ冷たい。けれど、芽がある。遠くに低い家並み。煙がまっすぐ上がっている。
小さな村だ。
神殿のような高い壁はない。鐘楼もない。代わりに、中心に小さな祠がある。
祠の屋根は苔むしていた。
それでも、誰かが毎日掃いているのだろう。道は整っている。花が供えられている。
馬車が止まり、外が少し騒がしくなった。
人の足音。布の擦れる音。誰かの息を呑む気配。
扉が開いた。
光が差し込む。
ルーナは一瞬だけ目を細めた。
「足元を」
アルトの声が、すぐ近く。
外へ降りると、空気が違う。
土の匂い。草の匂い。人の生活の匂い。
村人たちが集まっていた。
数は多くない。けれど、視線は真っ直ぐだ。
「……聖女様」
誰かが小さく言う。
その言葉が空気を作る。皆がそれに倣って頭を下げる。
ルーナは反射的に手を組みそうになって、やめた。
祈る前に、まず立つ。
(影)
言葉が浮かぶ。
でも、足元は揺れない。
隣に銀色があるからだ。
アルトはいつも通り前に出ない。
けれど、村人の視線が一斉に集まった瞬間だけ、ほんの少し位置を変える。
ルーナと村人の間に、薄い膜を作るように。
神官が一歩前へ出て、名目を告げた。
巡礼。祝福。神器への祈り。村の安寧。
言葉は整っている。
けれど、村人の視線の方が先に届く。
ルーナは村人を見た。
祈りの言葉より、見上げる目の方が切実だった。
祠へ向かう道を歩く。
小さな石段。土の道。靴裏に柔らかさが残る。
祠の前に、村の長が立っていた。
年老いた男だ。背は低い。だが、手は真っ直ぐに祠へ伸びている。
「聖女様。ようこそ」
声が震えている。
喜びではなく、張り詰めた震え。
「この村の神器は……古い杯です」
杯。
聖杯。
村の長は、布に包まれたものを抱えている。
布は何度も洗われた色をしている。角がすり減っている。抱え方が丁寧だ。
「この杯の水で、病の子が息をつないだことがありました。飢えの時には、祈祷水を分け合って……」
説明は短く、しかし信心深さがよく伝わる言葉だった。
生活の中で語られている言葉。
派手な奇跡ではない。
ただ、今日の息を守るための器。
ルーナは、その話に頷いた。
頷くと、村の長の肩が少しだけ下がった。
「触れていただけますか」
差し出される布包み。
その瞬間、村人たちの息が揃う。
ルーナは手を伸ばす前に、一拍置いた。
置いた拍が、祠の前の空気を静かに整える。
(触れるのは、聖女)
名目が頭をよぎる。
しかし、ここで求められているのは名目だけではない。
ルーナが布に触れたとき、指先に冷たさが伝わった。
金属の冷たさではない。水の近くにある冷たさ。
布をほどくと、杯が現れる。
小さな杯。飾りはない。けれど、縁だけが滑らかだ。何度も口をつけられ、何度も洗われた縁。
ルーナは両手で杯を受け取った。
重さは軽い。
軽いのに、落とせないと分かる重さ。
村人たちが見つめている。
祈りの言葉を待っている。
ルーナは息を吸った。
言葉は増やさない。
「……この村に、今日も静かな夜が訪れますように」
祠の前の空気が、ほんの少し変わった。
風が一瞬だけ止まる。
草のざわめきが引く。
誰かの咳が、途中で止まる。
静かすぎて、何も起きていないように見える。
けれど、村人の顔が変わった。
肩が下がる。
目の縁の力が抜ける。
息が深くなる。
ルーナは杯を布に戻し、村の長へ返した。
返した指先が、少し湿っている気がした。
(……水)
杯の中に水が入っていたわけではない。
それでも、水の気配だけが残る。
村の長は杯を受け取ると、胸に抱えた。
抱えた瞬間、目を伏せる。
「ありがとうございます」
言葉は短い。
けれど、響きは本物だった。
神官が続けて形式的な祝福を述べた。
村人たちは深く頭を下げる。
礼を守る動き。
その間、ルーナの隣で銀色が動かない。
アルトは祠を見ていた。
杯ではなく、祠の奥を。
何を見ているのか分からない。
分からないまま、視線を追いそうになって、やめた。
帰り道、村人がそっと近づいてきた。
年若い女だ。腕に幼子を抱いている。子は眠っている。
「……聖女様」
小さな声。
ルーナが足を止めると、女は頭を下げた。
下げたまま、言葉を探している。
「この子、昨夜は泣き止まなくて……でも、今朝は、よく眠っていて……」
言い終わらない。
言い終わらないまま、涙が落ちる。
泣いているのに、顔は穏やかだった。
ルーナは何も言わずに、子の額に手を当てた。
触れるだけ。
熱はない。
呼吸が静かだ。
「……大丈夫」
それだけ言った。
女は肩を震わせ、何度も頷いた。
その瞬間、横から低い声が落ちた。
「……時間です」
アルトだ。
急かしている声ではない。守るための区切りの声。
女ははっとして身を引き、深く頭を下げた。
ルーナは歩き出した。
胸の奥に、何かが残る。
残るのに、重くはない。
ただ、静かだ。
馬車の前に立つと、アルトがいつもの位置に立った。扉の前。
手を差し出すわけではない。けれど、そこにいる。
「……ありがとうございました」
ルーナが小さく言うと、彼は一瞬だけこちらを見た。
「何がですか」
「……区切ってくださったこと」
言葉にすると、少し恥ずかしい。
それでも言った。
アルトは返事をしなかった。
代わりに、視線をもう一度だけ向ける。
「必要だと思いました」
短い言葉。
それだけで、胸の奥に甘さが灯る。
ルーナは馬車に乗り込んだ。
扉が閉まり、布の匂いが戻る。
馬車が動き出す。
窓の外、村の祠が遠ざかる。
杯は村に残る。神器は村に祀られたまま、誰かの明日を守り続ける。
ルーナは膝の上で手を組んだ。
祈りの形。
指先が、少し湿っている気がした。
外から、一定の距離で足音が重なる。
近すぎず、遠すぎず。
その距離のまま、
巡礼は続いていく。




