十話 揺れる箱
馬車が動き出してから、しばらくは音が少なかった。
車輪が石畳を離れ、土の道に入る。揺れが柔らかくなる。布の窓がかすかに震え、外の光が淡く滲む。
ルーナは外套の端を握りしめた。
今は、祈りを口にしない。
それでも、何もせずにいると、胸の内に言葉が溜まっていく。
(どうか、滞りなく)
それだけで、十分だった。
馬車の外から、一定の距離で足音が重なる。
近すぎず、遠すぎず。
その距離を意識した瞬間、ふと気づく。
神殿にいた頃は、歩くたびに柱の影を探していた。
今は、音を探している。
音が、そこにある。
そう思う前に、揺れが一つ大きくなった。
馬車が小さな段差を越えたのだろう。荷がわずかに鳴る。
「大丈夫ですか」
外から声。
アルトの声は、馬車の板を一枚挟んでも近かった。
近いのに、入り込まない。
「大丈夫です」
「揺れが強くなります。しばらく」
「はい」
短いやり取り。
それだけで、肩の力が抜ける。
馬車は、神殿の周辺の森を抜けた。
木々の匂いが薄まり、代わりに土と草の匂いが濃くなる。
窓の布を少し持ち上げると、畑が続いていた。
冬の色がまだ残る。けれど、ところどころに淡い緑がある。畝の間を人が歩き、鍬を振る。
顔を上げた村人が、馬車に気づいて立ち止まる。
誰も声は上げない。
ただ、手が止まる。
遠くからでも分かる視線。
探しているものが、こちらにある。
ルーナは布を下ろした。
見られていることに、慣れたくない。
その思いだけが、静かに残る。
それでも、胸の奥に感覚が残る。
視線とは違う、何か。
昼前、隊列がいったん止まった。
外が忙しくなる。馬の鼻息。鞍の革。人の声。
「休憩を取ります」
神官の声。
扉が開き、光が差し込む。
ルーナは目を細めた。
アルトが扉の前に立っている。
出立の朝と同じ位置。
「足元を」
「はい」
地面に降りると、土が柔らかかった。
草の匂いが近い。風が、頬に触れる。
休憩場所は道の脇だった。
水場があり、小さな木陰がある。荷が下ろされ、護衛が周囲を見張る。
静かだった。
ルーナが水を飲もうとすると、器が置かれていた。
いつからそこにあったのか分からない。木の器。水が揺れている。
「……ありがとうございます」
返事はない。
代わりに、足音が近づく。
アルトが、少し離れた場所に立っていた。
水場とルーナの間。視線は外へ向けたまま。
器を返し、袖を整える。
その一つひとつに、時間がかかる。
巡礼は、時間がかかる。
再び歩き出す前、神官が短く指示を出した。
道はこのまま真っ直ぐ。最初の村で神器を拝する。
ルーナは頷いた。
風が、首元を撫でる。
アルトは何も言わない。
ルーナが一歩出ると、彼も一歩。
止まれば、止まる。
距離が、戻っていく。
午後、空が少し曇った。
光が薄くなり、影が柔らかくなる。
窓の布の向こうで、遠くの景色がぼやける。
(村)
言葉になる前に、胸が小さく揺れた。
馬車がゆるやかに減速する。
車輪の音が変わる。
外から声。
「村が見えました」




