一話 祈りの中心
「嫌よ。お祈りなんて、さっきしたでしょう?」
「それより、新しいドレスを着たいのに」
聖女ヴェロニカの声は、朝の大礼拝堂によく響いた。
高く、澄んでいて、遠慮がない。
ルーナは一歩下がった場所で、静かにそれを聞いていた。
(……今日も、聖女様は相変わらずだ)
暁光神殿の大礼拝堂には、まだ祈りの余韻が残っている。
香の匂いは完全には消えず、朝の光が高窓から差し込んでいた。
ほんの少し前まで、神に捧げられた言葉が満ちていた場所。
その中心で、ヴェロニカは祈りを終えたとは思えない様子で椅子に腰掛けていた。
豪奢な衣装の裾を気にしながら、鏡越しに自分の姿を確かめている。
「今日は光の色がいまひとつだわ。外套を替えましょう」
「……聖女様、本日は祈祷の——」
「終わったでしょう? だから言っているの」
神官の言葉は、途中で切り捨てられた。
ルーナは視線を伏せる。
下級巫女の立つ位置は決まっている。
前に出ない。声を挟まない。ただ、場を乱さない。
それが務めだ。
それでも、胸の奥に小さな引っかかりが残る。
(聖女様は……お祈りが、好きではないのかしら)
考えるだけだ。
声に出す必要はない。
神に捧げる言葉は、ルーナにとって特別なものではなかった。
朝起きたこと。今日も働けること。
それらを確かめるように、静かに手を組む。
それが、祈りだった。
大礼拝堂を出ると、神殿はすでに朝の仕事で動いていた。
水を運ぶ者、帳簿を抱える見習い、祭具を磨く下級巫女たち。
ルーナもその一人として、流れに加わる。
水桶を抱え、回廊を歩く。
石畳は冷たく、光の差し込む角度だけが少しずつ変わっていく。
仕事は多く、単調だ。
けれど、嫌いではなかった。
祭具の一つ一つに触れるとき、そこに積み重ねられた時間を感じる。
誰かが祈り、誰かが感謝し、誰かが救われた——かもしれない。
その「かもしれない」に触れられることが、ルーナの信仰だった。
昼前、回廊を通りかかったとき、ふと視線を感じた。
柱の影に、騎士が立っている。
銀色の鎧に、深い色の外套。
神殿付きの護衛だろう。珍しくもないはずなのに、足が止まった。
騎士は壁にもたれず、剣に手を置くこともない。
ただ、静かにそこに立っている。
視線は大礼拝堂の方角へ。
けれど、ヴェロニカ個人を見ているようには見えなかった。
場全体を、ゆっくりと見渡している。
(……不思議な方)
護衛騎士は、もっと前に出るものだ。
聖女のすぐそばで、威圧するように立つ。
そういう役目のはずなのに。
視線を外そうとした、その瞬間。
騎士と目が合った。
一瞬の、間。
それから、彼は小さく会釈をした。
形式的でも、馴れ馴れしくもない。
ただ、そうするのが自然だというように。
午後、神殿の奥で会合が開かれた。
ルーナは書記係として控えの間に座り、扉の向こうの声を聞かないふりをする。
それも、下級巫女の務めだ。
「……聖女様のご様子が、近頃どうにも」
「祈祷の回数も減っています」
「民の目もあります。形式だけでも——」
誰かが、小さくため息をついた。
「聖女様は……お若い。お気持ちもあるのでしょう」
気持ち。
理解。
配慮。
ペンを持つ手が、一瞬止まる。
信仰を守る聖女に向ける言葉としては、どこか曖昧だった。
会合が終わるころには、外は夕方の色に変わっていた。
ルーナはいつものように、下級巫女用の小さな礼拝室へ向かう。
飾り気のない部屋。
白い壁、簡素な祭壇、古びた床。
ここでは、誰に見せるでもない祈りが許されている。
ルーナは膝を折り、手を組んだ。
(今日も、一日が終わりました)
願いは増やさない。
ただ、感謝する。
今日が、昨日から続いていることを。
「……ありがとうございます」
声に出したのは、それだけだった。
祈りを終え、立ち上がると、礼拝室の外に人影があった。
「失礼」
低く、耳に優しい声。
昼間の騎士だった。
「夜間の巡回です。ここは……静かですね」
「はい。下級巫女用なので」
「そうでしたか」
彼は、立ち去らなかった。
まるで、ルーナが部屋を出るまで、そこにいることが決まっているみたいに。
回廊を歩き出すと、背後に足音が続く。
近すぎず、遠すぎず。
合わせるような歩調。
「……ありがとうございます」
自然と、そう口にしていた。
「務めですから」
そっけない返事。
けれど、否定はしない。
ルーナは思う。
この騎士は、いつから神殿にいるのだろう。
今日が初めて会ったはずなのに、
ずっと前から、そこにいたような気がしてならなかった。
神殿の灯が、一つずつ消えていく。
夜は、静かに更けていった。




