第9話 夢見る脳髄 その5
その先にあるのはかすかの光もない闇の空間。
それでも理久は迷いもためらいもなく室内へと踏み込む。
周囲の様子はなにも見えない。
それでも足元の感触が変わっていないことから、これまで見てきた階段や廊下と同じ石造りらしいことだけはわかる。
理久は静寂の中で暗闇に目を凝らす。
碧海はどこだ?
音も光もない空間で苛立ちと恐怖に背を押されて、その名を呼ぼうとした時、一条のピンスポットが理久の正面、十メートルほど先の一点をぽつんと照らす。
そこに照らし出された“もの”に理久は息をのむ。
それは理久の身長ほどのガラス容器。
液体を満たしたその中に浮いているのは教科書でしか見たことのない――“脳髄”だった。
そのサイズから少し小さめではあるものの、等身大の人間のものらしいことがわかるが本物かどうかはわからない。
「教材か? 理科室にあるみたいな」
恐怖心からか無意識のうちにつぶやいている自分に気付く。
そして、思い至る。
寄生虫はこの部屋に“碧海とオレサマがいる”と言った。
そして、この部屋にあるものは、目の前にあるものは……!
「まさか……どっちだ?」
震える声を絞り出したのと同時に、ガラス容器の中で脳髄を浸している液体にごぼりと泡が湧き上がる。
そして、声。
「ようこそだぜ、義兄さん」
それはさっきまで聞いていた寄生虫と同じ口調、同じ声。
すなわち、この部屋に碧海と一緒にいる“オレサマ”なる存在の声。
驚くことも忘れて理久の脳はフル回転する。
今、なんて言った?
“義兄さん”て言ったのか?
“オレサマ”にとって僕は“義兄さん”なのか?
いや、そんなことはどうでもいい。
その声はどこからだ?
この脳髄の声なのか?
この脳髄の声ならば、この脳髄は“オレサマ”の脳髄ということだ。
でも
もし
そうじゃなかったら?
今の声がこの脳髄の声じゃなかったら、この脳髄は誰の脳髄だ?
寄生虫は言った。
“この部屋に碧海とオレサマがいる”と。
そして、扉を開いたこの部屋に、この脳髄はある。
ということは、この脳髄は……どっちだ?
どっちだ? どっちだ? どっちだ? どっちだ? どっちだ?
それ以上、考えることから逃げるように理久は脳髄を指差して声を荒らげる。
「オマエは誰だっ?」
答えろ、オマエは誰だ、何者だ、オマエの正体は――。
息ができなくなるほどの緊張の中で理久は答えを待つ。
それはまるで長い時間のように。
ごぼり。
新たに湧き上がった泡とともに嘲笑うような声が告げる。
「なにを焦っているんだぜ?」
ダメだ、わからない。
この声の主がこの脳髄なのか、違うのか。
理久が怒鳴る。
「答えろって言ってん――」
同時に声がささやく。
「約束通り招待したぜ……碧海」
新たなピンスポットが部屋の奥を照らす。
そこにいるのは“壁ぎわに無表情で立っている制服姿の碧海”。
そして、そのとなりには壁から上半身を生やして半開きの口元で焦点の合ってない目を中空に向けている、ところどこが破れた戦闘服の蒼空。
理久が碧海のもとへと走り出す。
「碧海っ」
走り出してから罠かもしれない、うかつだったかもしれないとの考えが頭をよぎるが、もう止まらない。
無我夢中で碧海の前へ立ち、頭を両手で掴んで無表情の顔を覗き込む。
「碧海っ。聞こえるかっ。僕だっ」
碧海の目がゆっくりと理久を見た。
その震える唇が声を漏らす。
「……兄い……兄い」
理久は脳髄を指差し、無我夢中で問い掛ける。
「あれは誰だ? 違うよな? 碧海じゃないよな?」
問いながらも理久の十本の指が碧海の髪の下をまさぐる。
切開跡がありませんように、縫合跡がありませんように、“中身”を取り出した痕跡がありませんように……。
碧海がたどたどしく答える。
「ちが……う。あれは……私じゃなく……」
よかった!
あの脳髄は碧海じゃなかった!
ということは――“オレサマ”なる存在の脳髄だった!
碧海は無事だった!
思わず理久が碧海を抱きしめようとした時、声が告げる。
「これで列席者はそろったんだぜ。そろそろ始めるんだぜ」
理久が“オレサマ”の脳髄を振り返る。
「始めるって、なにを……」
「結婚式を――だぜ」




