第8話 涙のかかと落とし その3
改まってベッドの上で向き直る理久に、碧海も正面で居住まいを正す。
「なに?」
そんな碧海にまっすぐ見つめられて理久は怖じ気づく。
「いや……えっと……」
理久の頭に笑う華穂がよぎった。
――一緒に謝ってあげるよ――
「大丈夫だよ、ありがと」
無意識につぶやいた。
そんな兄の顔を碧海が訝しげに覗き込む。
「なにさ? さっきから」
その言葉はもう理久には届いていなかった。
頭を下げて、一気に言葉を吐き出す。
「小学生の頃にさ、虐められてる碧海を見殺しにしてごめん」
たったそれだけの言葉ではあったが理久にとってはずっと自身を縛り付けて沈めてきた重石のような言葉でもあった。
そんな自身を苛んできた言葉をようやく吐き出せた理久ではあったが――一方の碧海は特にこれといった反応もなく訝しげな表情のまま理久を見つめている。
理久は顔を伏せたまま続ける。
静寂を恐れるように。
「いや、ずっと気になってて。でもずっと言い出せないまま碧海が行方不明になって、それからずっと後悔してた。毎日毎日、ずっと思い出すたびに……」
「あのさ――」
碧海が遮る。
「――なんの話?」
「は?」
理久が顔を上げて碧海を見る。
「お、憶えてないのか?」
碧海は困った表情で首を傾げる。
「うん。わかんない」
理久は複雑な気分になる。
やっと謝れたと思ったら憶えてないって……。
“ずっと自己を苛んできた日々はなんだったのか”と自問する一方で“いやいや、もともと悪いのは自分じゃないか、憶えてないからって反省した日々の意味を問うのはおかしいだろ”とも思う。
そんなことを考える理久を碧海は“ん?”という表情で見ている。
理久は碧海から目を逸らしてつぶやく。
「そうなんだ。憶えてないんだ……」
しかし、直後に碧海が言い放つ。
「って言うことを期待してた?」
理久の背筋がぴんと伸びた。
「憶えてるのかっ」
碧海は「は~」と大げさなため息をついて足を組み直すと理久を睨み据える。
「当たり前だろ。すごく悔しかった。“にんげんふしん”になった。だからあれ以来、あんまり家でも話さなくなったっしょ」
それは理久の最も恐れていた言葉だった。
しかし、その一方で“直接、聞きたかった言葉”でもある。
自分は碧海を大きく傷つけた、碧海はそれを自分の言葉で理久に告げた、それでこそ理久には謝った意味があった。
理久はベッドの上で座り直すと両手をつき、改めて頭を下げる。
「ごめんっ」
そんな兄を碧海は無言で見ている。
「……」
理久にとっての長い時間を経て、碧海がぽつりと口を開く。
「殴らせてよ」
理久ががばと顔を上げる。
車いすの碧海は無表情で理久を見ている。
そして、静かに繰り返す。
「私の痛みには及ばないだろうけど……殴らせて」
もちろん理久に異論はない。
「そうだよな。痛い思いしないと謝っても意味ないからな」
言いながらベッドから降りて眼鏡をはずす。
車いすを軋ませ立ち上がった碧海がその正面に立つ。
改めて互いの身長差に気付いた理久は腰を下げて顔の高さを碧海に合わせる。
正面にある碧海の顔がささやく。
「いい?」
理久が答える。
「いいぞ」
答えたのと同時に――ごつっ。
碧海のかかと落としが理久の前頭部を直撃した。
理久は目眩と激痛で「ぐうううううう」と声にならない声を上げて、そのままベッドに倒れこむ。
そして、両手で前頭部を押さえながら涙目で碧海を見上げる。
「それ、殴るとは言わないだろっ。でも、これで許してくれるのか?」
「ああ。これで許してやるよ」
改めて車いすに腰を下ろした碧海は無表情のままそう吐き捨てると――笑いだした。
足をばたつかせて笑うその楽しげな様子に理久はほっとする。
半端に許されても、あるいは“憶えてない”と嘘をつかれても理久の溜め込んだ澱は――自業自得とはいえ――消えることはない。
この形が最もスマートな解決法だと碧海は悟ったのだろう。
これが理久にとって最も納得のいく決着だと碧海なりに考えてくれたのだろう。
目の前で笑い続ける碧海を見ながら、理久はそう思う。
そして――満足の行くまで笑った碧海が落ち着くのを待って問い掛ける。
「これからどうする?」
赤い顔で笑い涙を拭った碧海は一転して真顔になる。
「さっきも言った通り、このままでは家に帰れない。先に全部終わらせないと」
理久もまた、まだ、ずきずきする前頭部をさすりながら真顔でつぶやく。
「全部、か。いろいろあるな」
碧海が自身の指を立てて数える。
「蒼空と“三人の妹たち”を助ける。慄冽とクリスタルメーカーをぶっ倒す。たったふたつだけど……それが私の宿題だ」
その口ぶりと表情に強い決意を感じた理久だが“私の宿題”という言葉に疎外感を覚える。
「僕も、一緒に行く……んだよな?」
しかし、碧海の答えは――。
「は? なにしに?」
“なに言ってんだ?”と、言わんばかりの表情に理久は捨てられた犬のような気分になる。
「いや、なにしにって……」
碧海は理久の心中に気付かないのか、それとも、気付いているのか、毅然と言い放つ。
「小雪たちの分離を果たした今、兄いが来る理由はないっしょ。ていうか、そもそも、もう、兄いは境界域へ入れないし。次は私と小雪だけで行ってくる」
その言葉に理久は自身の左手を見る。
そこにあるのはただの指。
さらに頭をよぎるのは、夜霧がくるくる回していたリストバンド。
境界域へ行けなくなった理久が持っていても意味はない――だから、回収したのだろう。
碧海はまくしたてるように続ける。
まるで理久に口を挟む隙を与えないように。
「蒼空たちを助けるにはクリスタルメーカーにアクセスする必要がある。もう宵闇を脱ぎ捨てた自分にはできない。それができるのは小雪だけだ。索漠の意識がまたジャマするだろうが、そのへんの相殺プログラムを夜霧が作ってるから、今度は問題なくアクセスできるはず」
だから、碧海と小雪だけで行くだと?――そう思った理久はまだ出てきてない名前に気付く。
「華穂は?」
碧海が即答する。
「ありゃ無理だ。行ける精神状態じゃない」
境界域でクリスタルメーカーの胴部に浮き上がった“綺羅の本心”によって精神を粉砕されて、ただ、ただ泣いていた華穂の姿が頭によぎる。
「華穂はどこにいる? 家に帰ったのか?」
問い掛ける理久に碧海は黙って天井を指差す。




