【秋の文芸展2025】青い惑星の終わりに
地球が終わると決まった日、空はやけに青かった。
誰もが息を潜め、あたかもこの惑星がまだ生きているふりをしているようだった。
発射台の鉄骨が、夕陽に赤く染まっていた。
整備士の悠真は、溶接面を外し、額の汗をぬぐう。呼吸が少し重い。
大気中の酸素濃度は、二〇パーセントを切っていた。
「お疲れさま。……最後の点検、終わった?」
振り向くと、奏が立っていた。白い作業服の袖が風に揺れている。
目の下に隈があったが、それ以上に、その瞳には奇妙な光が宿っていた。
希望と、諦めの境を見極めようとするような光。
「終わったよ。これで“ノア・アーク”は飛べる。……あとは誰が乗るか、だけだな」
「抽選の結果、出た?」
悠真は無言で頷いた。
タブレットの画面には、一行の名前。『Noah Boarding Permit: Yuuma Kisaragi』
自分の名前だった。
「……そう。おめでとう」
奏は笑った。とても静かに、ほんの一秒だけ。
その笑みが終わると、残されたのは沈黙だけだった。
地球脱出計画〈プロジェクト・ノア〉。
十万人に一人が選ばれ、〈アルカ〉と呼ばれる恒星間移民船で旅立つ。
彼らは“人類の種”と呼ばれた。
選ばれなかった者たちは、ただ地上で“見送る人”になる。
悠真は、その「一人になる」という現実を、いまだ飲み込めていなかった。
地球を離れる――という言葉の重みを、心が拒絶していた。
「なあ、奏。もし逆だったら、君はどうしてた?」
「どうしてたって?」
「俺が残って、君が選ばれてたら」
奏は少し考え、空を見上げた。
空の青は薄い。どこかに罅が入っているように見えた。
「たぶん、同じことを考えてる。『どうして私なんだろう』って」
その返事があまりに穏やかだったから、悠真は言葉を失った。
彼女は本気でそう思っているのだ。
人類を救う抽選に当たったのに、まるでそれを「罰」のように受け止めている。
「発射は明日だよ。……最後の夜くらい、星を見に行かない?」
奏の声は、どこか懐かしい響きを帯びていた。
――星を見に行く。
それは、大学時代からの二人の合言葉だった。
地球がまだ呼吸をしていた頃、彼らは天文サークルに所属していた。
流星群の夜に、凍える手でホット缶を握りながら、
「人は星を見上げているときだけ、戦わない」と笑い合った。
だが、今夜見上げる空には、もう星はなかった。
大気の乱反射が増え、光害のない地球でさえ星が見えない。
望遠鏡を向けても、暗黒ばかりが映る。
「星がない夜空って、信じられる?」
奏がぽつりと呟く。
「信じたくないな」
「でも、現実だよ。……ねえ悠真、星が見えなくても、人は空を見上げるんだね」
悠真はうなずいた。
人は絶望の中でも、空を探してしまう。
それが、まだ人間である証なのかもしれなかった。
風が吹いた。
冷たい金属の匂いがした。
明日になれば、どちらかがこの青い惑星を離れ、どちらかが置き去りにされる。
その境界を、二人は黙って見つめていた。
基地の外周路は、薄い砂埃が舞っていた。
柵の向こうで、巨大な白い胴体がかすかに軋む。宇宙移民船〈アルカ〉。
夜勤の警備ドローンが、規則正しく“目”を点滅させながらすべっていく。
「こっち、入れるよ」
奏が身をかがめ、保守用ゲートのカードを読み取り機にかざした。
赤だったランプが、ためらいがちに緑へと変わる。
二人は影のように通り抜け、発射台の真下で立ち止まった。
鉄骨の隙間から、夜の空気が落ちてくる。
匂いは、錆と、燃焼前の燃料のわずかな甘さ。
悠真は手袋を外し、素手で支柱をさわった。冷たい。確かな重さがあった。
「初めて見学に来た日、覚えてる?」
「もちろん」
「この船体を見上げて、私、笑ったんだよね。『人類って、まだ冗談を言えるんだ』って」
奏は、笑いながら、笑っていなかった。
視線は悠真の肩越し、はるか上のノーズコーンをなぞる。
「冗談?」
「だってそうでしょ。滅びるってわかってから、いきなり“勇ましい希望”を語れる人たちが増えた。『星々が新しい故郷だ』とか、『生命は広がる運命にある』とか。正しいけど、ちょっとだけ、照れくさい。本当は怖いくせに」
悠真は、うなずいた。
怖い。正確には、怖さを数える余裕がないほど、現実が近い。
それでも、握った鉄骨の冷たさは、まだ希望の形をしている。
「……知ってた? 抽選って言ってるけど、完全なランダムじゃない」
奏が、声を落とした。
「だろうな。遺伝的多様性、専門スキル、適応指標……いろいろ重み付けしてる」
「それだけじゃない。『他者に対して協力的である傾向』って項目がある。心理テストの回答と、これまでの対人行動のログから推定するやつ。点が高いほど、優先順位が上がる」
「聞いてないぞ、そんなの」
「公開されてない。……でも、技術班の人から聞いた。『人類の再建には、善意が必要だ』って理屈。わかるけどね」
そのとき、悠真は気がついた。
奏が、その項目について話すときだけ、少し声が震えることに。
「君の点は?」
「高かった。だから、私は名簿の上位にいた。……でも、最後に弾かれた」
奏は空を見上げた。
「『生殖に関する既往症』の項目で失格。――正確には、『確率が低い』ってだけなんだけど」
風が、二人の間をやさしく通り抜けた。
息が詰まるような沈黙が、しかし、壊れずにそこにいた。
「ごめん」
悠真はそれしか言えなかった。
それは謝罪というより、受け取るための手を差し出す合図のようなものだった。
「謝るのは違うよ。……ねえ悠真、私があなたにした質問、覚えてる? 大学の屋上で」
「どれだ?」
「『もし、地球が終わるって決まったら、最後に何をする?』ってやつ」
思い出す。
古い校舎の屋上。夜更けの風。
コンビニの肉まんを分け合い、望遠鏡のレンズに息をかけては拭った。
その時の答えは、たしか、こうだった。
『星を見に行こう』
――二人で。
「今夜、それをしよう」
奏は小さな円筒を取り出した。
軽量のプロジェクタ。大学時代、二人で改造したものだ。
「これ、まだ持ってたのか」
「捨てられなくて。ほら、ドームに行こう」
発射台の脇には、訓練用の星空ドームがある。
空が見えなくなった時代、人は空を作り直した。
その皮肉を抱えながら、二人は暗いドームの中に入った。
扉が閉まり、静けさが、どさりと落ちてくる。
床に腰を下ろすと、奏がプロジェクタのスイッチを入れた。
白い天蓋に、じわりと光がにじむ。
最初の一つ、次の一つが、暗がりに穴を穿つ。
「――うわ」
悠真は息を呑んだ。
忘れていた夜が、頭上にひろがった。
網膜が、星を思い出す。
身体が、重力を忘れそうになる。
「アルゴ座は……こっち」
奏の指先が、淡い光の束をなぞる。
指が通ったあとに、少しだけ明るさが残り、星座の線が浮かぶ。
「ねえ悠真。私たちは、何度も何度も、星に名前をつけ直してきたんだよ」
「名前を?」
「昔の人がつけた名前を、私たちの言葉に置き換えたり、別の物語を重ねたり。人って、見上げるたびに世界を更新してる。――それが、好きだった」
スクリーンの星々は、ゆっくりと回転していた。
ドームの中心に座る二人だけが、静止している。
それは、止まった時間の中で、世界だけが動いていくみたいだった。
「抽選の結果、まだ受け入れられない?」
奏が、さりげなく尋ねる。
「受け入れたくない、が正直なところだな」
「うん」
「たぶん、俺より君のほうが、向いてる。船の中で、誰かが泣いたら、一緒に泣いて、終わったら一緒に笑うだろ。俺は、どっちかというと、黙って直すタイプだ」
「黙って直す人がいなきゃ、船は飛ばないよ」
「君がいると、飛ぶ理由が増える」
自分で言って、頬が熱くなる。
奏は、短く笑った。目尻に、疲れと優しさが重なる。
「じゃあ、交換する? ID」
「冗談でも言うな」
「冗談半分。本気半分」
ドームの天井で、夏の大三角が少しずれ、冬の星が顔を出す。
季節の切り替わりは早く、どこかで軋むような音がする。古い機材の音かもしれない。
「ねえ、あの時の約束、覚えてる?」
「まだ何かあったか」
「あるよ。――“譲るときは、譲られたほうが強くなる約束”」
奏は、床に片膝を立て、両手で抱えたプロジェクタをそっと撫でる。
「卒業製作の時、私が設計した追尾機構をあなたが諦めかけてた。精度が足りなくて。
でも、あなたは改良した私の案に『俺の案だった』ってシールを貼ってくれた。私のせいで、あなたの評価が上がった。――あれは、私にとっての“譲られた強さ”だった」
悠真は、目を閉じた。
あの時の、細い春の光と、はんだの匂いを思い出す。
「俺は、ただ、君が前に出るのが苦手だって知ってたから」
「そう。だから、今度は私の番だよ。譲る。……強くなるために」
静寂の中に、プロジェクタの冷却ファンの音が細く響く。
星は、変わらず、そこにあった。
現実の空で見えなくなっても、頭上の白い天蓋の向こうに、確かにある。
「交換はできない。できるように作られてない。……建前上は」
悠真は、言葉を選んだ。
「でも、やり方は知ってる」
奏が、少しだけ驚いた顔をする。
「整備ログの権限は、俺のほうが強い。
出発前最終チェックの時、搭乗者IDを…“一度だけ”書き換えられる穴がある。
緊急時対応用のバックドア。――君みたいな設計者なら、存在くらい気づくだろ」
「知ってる。でも、使うべきじゃない穴だ」
「そうだな」
「あなたが使ったら、私は……許さない」
奏は、まっすぐに悠真を見た。
涙は、どこにも見当たらなかった。
ただ、言葉の奥に、透明な刃が一本、納められていた。
「わかった」
悠真は、笑ってみせた。
約束を、嘘にしないために。
星空の投影が、ふっと暗くなる。
プロジェクタの電池が切れかけていた。
奏が予備の電池を取り替え、その手つきが、いつもの現場の癖を持っていることに、悠真は少しだけ救われる。
「――ねえ、もうひとつ、見せたいものがある」
奏が立ち上がる。
「外、行こう」
ドームを出ると、夜はさらに深くなっていた。
基地の外灯が遠ざかるにつれて、暗闇が重くなる。
フェンスの途切れ、バックヤードの片隅。
奏は、錆びた金網の下をくぐり、スニーカーに砂を入れながら、風の通り道に沿って歩いた。
辿り着いたのは、基地のはずれの小さな丘だ。
誰も気づかないような場所。
しかし、そこだけ土が柔らかく、草が浅く生えている。
「ここ、埋めたんだ」
「何を?」
「タイムカプセル。二人の。――大学を出るとき」
奏は、膝をつき、両手で土をかいた。
指の腹に、乾いた土の粒が集まる。
ほどなく、金属の角が露出した。
古い弁当箱。落書きで、星の落書きがある。
蓋を開くと、紙の匂いが、夜気の中でやわらぐ。
中には、写真が一枚、折り畳まれたプリントアウトが数枚、小さな袋に入った何か。
「見て」
奏が差し出したのは、大学の屋上で撮った一枚。
ボロい三脚と望遠鏡。ピースをする二人。
背景の空は、思い出が過剰に美化したせいか、やけに青い。
「そして、これ」
プリントは、手書きの設計図だった。
『Aster』と右上に短く書かれている。
星空ARアプリの最初のモック。
二人で描いた、拙い線。
「Aster」
悠真の口から、自然に名前が零れた。
忘れていない。忘れたと思おうとしただけだ。
『誰かが空を見上げるとき、孤独が少しだけ減るアプリ』。
あの時、確かにそう書いた。
「そして、最後」
奏が、小袋から、薄い金属を取り出した。
コイン。片面に星、片面に翼。
学祭で売られていた、安い記念品。
でも、二人には大事なものだった。
「決めようか」
奏が、言った。
「乗るのは、どっちか。――私たちはずっと、譲り合ってきた。譲ることで強くなる約束を、何度も回してきた。だから、最後も、ルールを守る。
“譲る側が、譲られた側を選ぶ”」
「どうやって?」
「コイントス。……ただし、投げるのは私。で、選ぶのはあなた」
悠真は、言葉を失う。
それは、どこまでも彼女らしい提案だった。
偶然と意思を、半分ずつ入れるやり方。
「表が出たら、あなたが行く。裏が出たら、私が行く」
「俺が、どっちかを選ぶんじゃないのか」
「違う。“選ぶ”ってのは、結果を受け止めるってこと。あなたに最初の拒否権をあげる。これが、私の譲り方」
コインが、指の上で小さく踊る。
月のない夜に、わずかな照明が金属を鈍く光らせる。
「いくよ」
奏が、息を吸い、吐く。
コインが、空に舞う。
半回転、もう半回転。
星の面と翼の面が、交互に閃く。
掌に落ちた瞬間、世界が一瞬だけ止まった。
「――裏」
奏の掌に、翼が静かに収まっていた。
彼女は、コインを開いたまま、悠真を見る。
「あなたが、決めて」
悠真は、笑った。苦しい笑いではない。
どこか遠くから、潮の満ち引きみたいに自然な笑いだった。
「ルールを守るよ。裏は、君だ」
「了解」
奏は、コインを握って、胸のポケットにしまった。
その手つきが、いつもより少しだけ震えているのを、悠真は見て見ぬふりをした。
「発射は、明日の朝。
最終生体チェックは、四時。
そこで、最後に一度だけ――私たちは、まだ何かを選べる」
丘の上に、風が渡った。
砂がわずかに踊り、遠くで、機材が鳴る。
世界は、着々と明日のための準備を進めている。
「戻ろう。……寒くなってきた」
「うん」
基地へ戻る道は、来たときより短く感じた。
歩幅が合う。呼吸も合う。
長い年月で自然にできた体のリズムが、最後の夜にも変わらず残っている。
宿舎に着くと、別れ際、奏が言った。
「おやすみ、悠真」
「おやすみ」
ドアが閉じる音。
廊下の灯りが、十五秒ごとにわずかに暗くなる。省電力モード。
そのリズムに合わせ、悠真の心臓も、少しだけ拍を落とす。
部屋に入ると、机の上に、受領印の押された紙が置かれていた。
搭乗許可証。名前。生体ID。
“Yuuma Kisaragi”。
――君がいると、飛ぶ理由が増える。
さっき言った自分の言葉が、耳の奥でくり返される。
悠真は、拳を軽く握った。
何かを壊したいのではない。何かを、変えないために。
深夜二時。
壁の時計が、乾いた音で時間を刻む。
枕元の端末が震え、ひとつの通知が届く。
『整備ログ:出発前最終点検の権限が開放されました。――対象:搭乗者ID照合』
画面の片隅で、カーソルが小さく瞬く。
バックドアを通るための、細い、細い通路。
押せば、変わる。押さなければ、変わらない。
悠真は、指をとめる。
ゆっくりと、端末を伏せる。
そして、ベッドの脇に座った。
暗闇の中、背筋が壁に触れ、ひんやりとした冷たさが、まるで外の空気のように胸を静める。
――約束は、まだ、壊れていない。
目を閉じる。
見えるのは、白い天蓋に映った星。
“Aster”。
二人で描いた、星のアプリ。
もし、これが船に乗る人たちに配られるなら、きっと、誰かが夜を怖がる時間は、ほんの少しだけ短くなるだろう。
眠りは浅く、しかし途切れなかった。
夢の中で、空はふたたび青かった。
青さは、さよならの色にも、ようこその色にも見えた。
目覚ましが鳴ったのは、四時の十分前だった。
いつもより早起きしたのは、偶然か、体が知っていたのか。
悠真は、ジャケットを羽織り、ブーツを履いた。
鏡の中で、自分の顔が、少しだけ細くなっているのに気づく。
廊下に出る。
誰もいない。
ただ、曲がり角の向こうから、靴音が近づく。
「おはよう」
奏だった。
彼女も、眠れなかったのだろう。
でも、その目は、いつも以上に澄んでいた。
「行こう」
「うん」
彼らは、ゆっくりと歩き出す。
最終チェックポイント――そこが、今日の最初のハードルになる。
扉の前で、彼らは一度だけ立ち止まった。
何も言わなかった。
言葉は、もう十分に使った気がした。
扉が開く。
白い光が、海のように押し寄せる。
中から、検査官の柔らかな声。
「搭乗候補者、二名。――確認します」
名前を呼ばれる。
指先をかざす。
網膜スキャナが、低い音で動く。
モニタに、二人の名前が、横並びに現れる。
Yuuma Kisaragi。
Kanae Saotome。
青い惑星の終わりに、二人の名前が並ぶ。
それだけで、世界の重心が少しずれる気がした。
悠真は、息を吸った。
奏も、息を吸った。
そして、二人とも、吐いた。
同じリズムで。
最終チェック区画は、無機質な白で塗り固められていた。
壁も床も、息を吐く音さえも吸い込むような静けさ。
白衣の検査官たちが淡々と動き、器具の灯が青く瞬く。
指先に生体センサーが巻かれ、心拍が表示される。
悠真の数値は、少しだけ速かった。
検査官が何も言わず、端末に指でサインをする。
それは「異常なし」と「もう戻れない」を同時に意味する。
「これで終わりです。……出発十五分前までに搭乗口へ」
淡々とした声が、背中を押した。
二人は通路に出た。
歩くたび、靴底の音が小さく反響する。
――残された時間は、もうわずかだった。
「ねえ悠真、少しだけ寄り道しよう」
「どこへ?」
「観測室。最後に、地球を見ておきたい」
奏が先に歩き出す。
エレベーターの扉が開くと、狭い空間に二人だけが閉じ込められた。
金属の壁に映る自分の顔が、少しだけ他人に見える。
ボタンを押す音。
数秒の沈黙。
「怖くないの?」
悠真が問う。
「少し。でも、それより惜しい」
「惜しい?」
「この星を見送ることができないのが、少しだけ、惜しい」
扉が開く。
観測室のガラスは、厚く、透明だった。
その向こうに、青い星が広がっている。
――地球。
その表面を覆う雲の帯。黒ずんだ海。
それでも、美しかった。
まるで、最後まで自分を誇ろうとするように。
「この光景、どこかで見たことある」
奏が呟く。
「いつ?」
「夢の中。まだ私たちが学生だったころ。あの夜も、地球が遠く見えた気がした」
悠真は、肩越しに彼女を見た。
長いまつげの影が頬に落ちている。
その横顔を、記憶の奥に焼き付けた。
「……なあ、奏」
「うん?」
「もし、俺が残ったら、君は許す?」
「許さない」
即答だった。
しかし、声の奥には、かすかな揺らぎがあった。
「でも、もし私が残ったら?」
「それは……俺が許す」
「ずるいね」
「いつもそうだろ」
二人の間に、短い笑いがこぼれる。
その笑いが終わると、また静寂が落ちてきた。
観測ガラスの向こう、太陽がゆっくりと昇る。
その光が、青い惑星をわずかに照らす。
地球の輪郭が、金色の縁取りに変わる。
「……そろそろ、行こう」
「うん」
搭乗ゲートへの通路は、思いのほか長かった。
両脇の壁には、古い宇宙飛行士たちの肖像写真。
“希望”“挑戦”“未来”といった言葉が、白いプレートに刻まれている。
そのすべてが、もう過去形に見えた。
搭乗ゲートの前で、係員が立っていた。
奏が認証カードを差し出す。
スキャナが光り、機械的な音声が響く。
『搭乗者確認――Kanae Saotome』
奏が、少しだけ振り返った。
悠真が頷く。
その仕草ひとつで、何百の言葉が交わされた気がした。
「ありがとう、悠真」
「礼を言うのは俺だ」
扉が閉まる。
金属の音が、空気を裂いた。
悠真は、手をポケットに入れた。
冷たい金属の感触――コインがあった。
表の、星の面。
「……違うな」
手を開く。
その面には、小さく刻まれている。
“Wings”。
――翼の面。
彼女が、すり替えていた。
丘で投げたコイン。
手の中に落ちた瞬間、彼女は見抜かれていたのだろう。
だが、彼女は何も言わなかった。
いつだってそうだった。
言葉より、行動で決める人だった。
モニタが点滅する。
発射準備完了まで、残り二十分。
悠真は、制御室への通路を歩いた。
誰もいない。
深夜の整備時と同じ、静寂があった。
――君がいると、飛ぶ理由が増える。
自分がそう言ったのは、冗談でも慰めでもなかった。
本当の意味でそう思っていた。
だからこそ、選んだ。
残ることを。
管制席に着く。
メインコンソールには、最終認証の入力欄。
カーソルが、ひとつの名前の上で点滅している。
Yuuma Kisaragi。
Kanae Saotome。
指先が、ゆっくりとキーに触れる。
彼は、一度、目を閉じた。
そして、入力した。
> EXECUTE_ID_SWAP: TRUE
わずかな電子音。
画面の文字列が、静かに入れ替わる。
“Boarding ID Updated.”
これで、船は彼女の名を記録した。
――もう、戻れない。
発射カウントダウンが始まる。
「Tマイナス五分」。
地鳴りのような振動が、床を震わせた。
遠くで、空気が焼ける音がする。
制御盤のランプが、ひとつずつ緑に変わっていく。
通信ラインを開く。
声が届く。
奏の声だった。
『――悠真? 聞こえる?』
「聞こえる」
『何してるの? 搭乗リストが……』
「大丈夫。手違いさ」
『嘘。あなた……!』
言葉が途切れる。
外部音が混じる。
通信のノイズ。
それでも、彼女の声の震えが伝わる。
「奏、聞いてくれ。
君は、空の向こうへ行くんだ。俺は、ここで見送る。
ずっとそうしてきただろ。――君が前に出て、俺が後ろで支える。それだけのことだ」
『やめて! そんなの、友情じゃない!』
「違うさ。
本当の友情ってのは、相手の未来を信じて、自分の居場所を譲ることだと思う。
俺が残ることで、君の世界が少しでも広がるなら、それでいい」
『そんなの……そんなのって、ズルいよ……!』
泣き声が、通信に混じった。
それが、彼女の最後の声になった。
「行け。――君が見たがってた星々を、もう一度見てくれ。俺の分まで」
悠真は、マイクを切った。
発射カウントダウン、最終段階。
「Tマイナス十秒」。
世界が、光に包まれる。
轟音。
空気が裂ける。
炎の柱が、発射台を突き抜けた。
地球脱出――成功。
観測ガラスの向こう、巨大な船体がゆっくりと上昇していく。
空が、白く染まる。
そして、その白が、青に変わる。
まるで、惑星が最後の呼吸をしているようだった。
悠真は、端末を閉じ、椅子にもたれた。
心拍モニタが、静かに数値を下げていく。
外では、風が吹き抜けていた。
鉄骨が鳴り、海が遠くで光った。
やがて、すべての音が遠ざかっていく。
発射台から離れていく巨大な船体を、悠真は窓越しに追った。
光と煙の渦がしばらく空に留まり、その向こうに細い軌跡だけが残る。
その軌跡が消えるころ、地上はふたたび静かになった。
制御室の空調が、かすかな風を流している。
冷たい金属の匂いに、焦げた空気の匂いが混じる。
その匂いが、悠真に奇妙な安心を与えた。
“ここ”にいることが、自分の役割であると確かめるように。
耳元の通信機から、断片的な声が漏れた。
船内の環境音、計器のビープ、何かを呟く声。
それは奏の声だった。
『……視界、開けた……雲が……下に……』
通信が安定しない。
それでも、彼女が上にいることだけは、はっきり伝わる。
悠真はマイクを取らなかった。
言葉を返せば、決心がほどける気がしたからだ。
代わりに、端末を開き、整備士の権限で制御パネルにアクセスする。
「地上補助電源の自動遮断」
「酸素供給ルートの優先変更」
残り少ないエネルギーを、船の加速補助に回す設定だ。
ほんの数パーセントだが、惑星圏脱出の際に影響が出る。
入力完了。実行。
コンソールに表示された警告を無視し、悠真は立ち上がった。
制御室を出て、外に出る。
夜明け前の空は、灰色に薄く染まり始めている。
遠くで波が砕ける音がする。
基地のフェンスを抜け、丘に向かって歩く。
砂が靴の中に入り、足裏を冷たく撫でる。
――丘の上に、まだ風はあった。
昨日、二人で座った場所に腰を下ろす。
タイムカプセルを掘り出した跡が、まだ地面に残っている。
悠真は、ポケットから小さな端末を取り出した。
それは二人で作ったARプロジェクタの小型版だった。
スイッチを入れる。
暗い空に、星々がゆっくりと浮かぶ。
見えないはずの星が、丘の上だけに、ひっそりと現れる。
その光が、悠真の顔を青白く照らした。
「……これで、いい」
小さく呟いた声は、風に消える。
胸の奥に、静かな痛みがあった。
悲しみというより、手放すときの痛み。
誰かに贈り物を渡したときに感じる、空っぽさのような痛み。
空を見上げる。
遠くの軌跡が、かすかに光っている。
あの中に、奏がいる。
彼女が、もう一度星を見上げていることを想像する。
端末に、録音モードを起動した。
マイクが赤く点滅する。
「――奏へ」
言葉を紡ぎ始める。
静かに、ゆっくりと、途切れないように。
「君が、星を見上げているとき、きっと孤独は少し減っている。
この星に置いてきたものが、君の目の奥で光になっている。
俺は、その光を信じている」
指先が震える。
でも、声は、笑っているようだった。
「君は、俺の代わりに、未来を見てくれ。
俺が、君の代わりに、この星の最後を見届ける。
それが、俺たちの友情だと思う」
録音を止める。
データを暗号化し、出発ログに添付する。
次の定期通信で、自動的に船に届く設定にした。
彼女が気づくころには、地球はもう見えないかもしれない。
風が強くなる。
酸素マスクの警告音が鳴り始める。
残量が、もう限界に近いことを示していた。
悠真は、マスクを外した。
冷たい空気が、肺を刺す。
だが、それは痛みではなく、目覚めるような感覚だった。
目を閉じる。
青い惑星の匂いが、胸いっぱいに広がった。
――
そのころ、宇宙移民船〈アルカ〉の船内。
重力が徐々に消え、奏の身体がシートの中で浮き始めていた。
警告灯が点滅する。搭乗者IDの再確認。
画面には、彼女の名前――Kanae Saotomeが表示されている。
すべてを理解するのに、一秒もかからなかった。
胸が、凍るように締めつけられる。
手袋を外し、顔を覆う。
涙が、無重力の中に小さな球になって漂った。
「……悠真」
声が、船内に溶ける。
その声は、誰にも届かない。
だが、彼女は知っていた。
彼が、必ず何かを残していると。
パネルの端に、未開封のメッセージが届いていた。
『LAST_MESSAGE.YK』
奏は震える指で開いた。
『君が見たがっていた星々を、もう一度見てくれ。俺の分まで』
文字が、視界ににじむ。
目の奥が痛い。
けれど、心の奥で、何かが立ち上がるのを感じた。
彼が譲ったものを、受け取るために。
奏は、涙の球を拭き、まっすぐ前を見た。
スクリーンの向こうに、新しい星の光が見える。
その光を、強く、強く見つめた。
「……見てるよ、悠真。ちゃんと、見てる」
声は、もう泣いていなかった。
船体が加速する。
窓の外に、青い惑星が小さくなっていく。
その小ささが、胸をえぐる。
しかし同時に、それは未来への道しるべのようにも見えた。
――数年後。
恒星移民船〈アルカ〉は、惑星アウロラの軌道上に到達していた。
薄い橙色の大気、地平線に沈む三つの太陽。
気圧も重力も地球に近い。人類が再び「地面に立つ」ことを許された世界だった。
調整区画のドアが開く。
冷却室の霧が晴れると、奏の姿が現れた。
白い作業服の袖をたくし上げ、手に持った端末を確認する。
胸ポケットには、あの翼のコイン。
擦れて少し黒ずんでいたが、今も光を宿していた。
「気圧安定……水分濃度、正常。外気に生命反応あり」
奏は、報告を口に出しながら、ヘルメットを外す。
空気を吸い込む。乾いて、甘い匂いがした。
――生きている。
背後では、ほかのクルーたちが地表データを収集していた。
彼らの声は明るい。
何かを失った者たちの声ではなく、何かを引き継いだ者たちの声。
その音を聞きながら、奏は丘を登った。
アウロラの空は、地球よりも少し低い。
夕陽が近く感じられる。
胸ポケットから、小さな端末を取り出す。
悠真の残した録音データ――“LAST_MESSAGE.YK”。
スイッチを押すと、懐かしい声が流れた。
「君が、星を見上げているとき、きっと孤独は少し減っている。
この星に置いてきたものが、君の目の奥で光になっている。
俺は、その光を信じている――」
声が風に混じって消える。
奏は微笑んだ。
泣き顔ではなかった。
涙は、もうあの青い惑星に置いてきた。
「……ねえ、悠真。あなたの言った通りだよ」
目を閉じて、空を仰ぐ。
オレンジ色の雲の隙間に、かすかに青い光点が見える。
――地球。
遙か何光年の彼方で、すでに息を止めた惑星。
それでも、光は届いている。
何万年遅れの、最後の輝き。
「あなたの残した“光”が、ここにも届いたよ」
奏は、端末を起動した。
画面に浮かび上がるのは、あの日ふたりで作ったアプリの名――Aster。
星空を重ねて見るためのARプログラム。
その最新版は、船の中で何百人もの手によって更新されていた。
“夜を怖がらないための灯り”――という彼の理念は、いつの間にか移民全員の希望になっていた。
奏は、アプリをかざす。
視界に広がる夜空に、白い線が走り、星座が形を取る。
表示されたひとつの星の名前の横に、小さく文字が浮かんだ。
Yuuma.
新しい世代が、この惑星で初めて名づけた星。
いつの間にか、皆がそう呼ぶようになっていた。
そのことを知ったとき、奏は誰にも訂正しなかった。
それが、彼の「生」の続きだと思えたからだ。
夜が降りる。
薄い風が頬を撫で、草が音を立てる。
空には、無数の光点。
地球で見た星空より、少しだけ大きく、少しだけ近い。
「――見てるよ、悠真」
その言葉は祈りではなかった。
ただ、報告だった。
約束を守ったという証。
足元の草の上に、翼のコインをそっと置く。
そして、掌を合わせた。
指の隙間から風が通り抜ける。
「ありがとう。譲ってくれて」
微笑むと、風が頷いたように吹き抜けた。
その瞬間、アウロラの空に流星が走る。
長く、静かに、地平線まで。
まるで、青い惑星からの最期の返事のように。
夜が明ける。
オレンジ色の空に、新しい太陽が昇る。
その光が、丘に立つひとりの影を照らした。
――その影は、やがて次の時代を歩き出す。
青い惑星の終わりに ―完―