2. 色香の罠
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2. 色香の罠
王都の夜は、昼間の喧騒をすっかり洗い流し、酒場の灯りだけが柔らかく揺れていた。石造りの壁に反射する松明の炎は、薄暗い空間に陰影を作り出し、人々の顔や酒杯を柔らかく照らす。木製の床を踏む足音や、グラス同士が触れ合う音、ざわめく声が混ざり合い、酒場には独特の生気が漂っていた。
その一角で、一人の金貸しが豪快に笑いながら杯を傾けていた。長年の権益を握り、商売を独占してきた男だが、王の新しい政策に対しては苛立ちを隠せなかった。「あの新王め…庶民に遊びを流行らせて、俺たちの商売をかき乱すつもりか」と、心の中で毒づきながらも、酒の甘みに顔をほころばせている。
その時、隣にひとりの女性が腰を下ろした。美しく、整った顔立ちに長い黒髪を揺らし、微笑を浮かべるその姿は、酒場の光を吸い込むかのように妖艶だった。実はその女性こそ、陽光によって派遣された分身スパイであり、スキル「誘惑・詐欺」を備えた存在である。民衆の中に自然に紛れ込み、計算された行動で対象を心理的に操作するために作られた、完璧な駒だった。
「旦那様、お強いお方なのに、王のせいで苦労されているとか……」
女の声は柔らかく、甘い音色を帯びている。それは耳に心地よく響き、意識の隅々にまで静かに浸透する。男は思わず視線をそらせずに、その瞳の奥に引き込まれる。酒の酔いと合わせて、理性の隙間に柔らかな魔力が忍び込んでくる。
「ふん、そうよ。あの新王、庶民どもに遊びを流行らせやがって」
男は憤りを口にするが、その声にはやや酔いの緩みが混じる。女は軽く微笑み、そっと男の腕に触れた。その瞬間、男の心臓が一拍早まる。肌に触れる感触の温もり、そして視線の奥に潜む巧妙な誘惑――理性は次第に曇り、欲望と好奇心が先に立つ。
「ならば……私と一緒に商売を広げませんか?」
女の言葉は、まるで魔法のように男の思考をすり抜ける。通常なら慎重に考えるべき提案も、酒と誘惑の相乗効果で、男は瞬間的に承諾の気持ちを抱く。頭の中で小さな警告の声が囁くが、酔いのせいでそれはかき消され、感情と欲望の波に押し流される。
女は微笑みを維持したまま、契約書を差し出す。文字のひとつひとつが、王の魔力によって既に縛られていることを男は知る由もない。触れた瞬間、契約の意識は自動的に確定し、撤回不能の法則がその上に降り注ぐ。
「どうぞ、旦那様。署名を」
男は無意識のうちに印を押す。墨の匂いと紙の感触が手に伝わる瞬間、理性の最後の抵抗も消え、契約は完全に成立した。女は満足そうに微笑み、そっと男の腕を離した。表面的には何事もなかったかのように振る舞うが、内部では既に魔力によって縛られた鎖が確実に男を捕らえている。
酒場の喧騒の中、陽光の戦略は静かに成果を上げ始めた。金貸しの男は自分の意志で行動したと思っているが、実際には計算された分身スパイの巧妙な罠の中に取り込まれている。遊びの場、酒の席、そして日常の延長線上に仕組まれたこの策略は、まさに無利子の世界の経済操作の一部であり、影のざわめきに対抗する第一歩だった。
女は契約成立後、軽く会釈し、酒場の中に自然に溶け込む。男は微かに酔いが覚め、何かが違うことに気づくが、理性が完全に麻痺しているため、異変を感じ取ることはできない。彼の表情は満足げで、商談が成功したように見える。しかし、その背後で、王の意図と分身スパイの策略が静かに支配していた。
王都の夜は、表向きの賑わいと裏側の策略が交錯する場となる。分身スパイは民衆に紛れ、光と影の間で任務を遂行する。酒場での一件は、無利子の世界への道を着実に切り開く小さな勝利であり、陽光の計画が現実に作用し始めた証だった。
夜風が街路を吹き抜け、酒場の松明が揺れる。金貸しの男は、まだ自分が操られていることに気づかず、契約の紙を手に握りしめたまま、満足げに酒を傾ける。分身スパイの微笑みは、闇に紛れながらも確実に王の意志を伝えていた。そして、この夜、王都の経済に静かな嵐が吹き始めたのである。
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