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触らぬ神に祟りなし。君子危うきに近寄らず。
こめかみから流れた汗が、ほほを伝ってあご先からぽたりと一滴、地面に落ちた。焼かれたアスファルトに落ちた汗は、一瞬で乾いて消えた。
その瞬間、セミが一斉に鳴きだした。うるさいほどに。
知らん知らん。
リンは歩きはじめた。
「ここはどこですか。どうしてこんなに暑いのですか。ここはフォックスホール王国から遠いのですか。どこかに魔導士はいませんか。ぼくは王国へ帰らなくては」
……ついてくる。そして堰を切ったように話しかけてくる。一部不思議なことばがあったが、聞かなかったことにしよう。
日本語しゃべれるんだな。そこはよかった。
ププッ!
クラクションが鳴って飛び上がった。全然気が付かなかった。王子な彼は道路のど真ん中で、目を見開いたまま固まってしまった。
なんてこった。そこからか。
両手がふさがっているリンは、王子の背に回るとぐいぐいと肩で押した。つんのめるように彼はリンと一緒に道端に寄った。
車のドライバーは、「なんだこいつ」な顔で王子を見ながらびゅんっと走り去った。
「真ん中歩いたら轢かれちゃうよ」
彼はしばらく口をパクパクした後、やっと声を出した。
「あ、あ、あ、あれはなに?」
涙目である。
「車だよー。馬車しか知らないとか言っちゃう?」
「く、くる、くるま? 馬がいないのにどうして走っているの?」
おたおたしながらそう言った。やっぱりそうかー。
「えーと、ガソリンを入れるとエンジンが回って走る仕組み」
リンだってくわしくは知らない。
「が、がそりん。え、えん……?」
かわいそうなくらい、ビクビクしている。王子風味が台無しだ。
話している間にも、配送業者のトラックが走る。タクシーも走る。自転車の老人やママさんのチャイルドシート付の電動自転車も走ってくる。
さっきの空白を取り戻そうとするかのように、どんどんやってくる。
みんな、彼をいぶかし気に見ている。王子コスプレの金髪碧眼の超絶イケメンを。
はたしてこれは不審者なのか。
その視線に気づいた彼は、どんどん身を縮こませる。けっこう背が高いのだ。パパよりもレンよりもずっと高い。目立つことこの上ない。彼は自分でもそれを理解している。
なんだか叱られたゴールデンレトリーバーみたいだ。萎れた耳としっぽが見える気がする。
ちょっと居たたまれなくなってきた。
この人、置き去りにしたらどうなっちゃうんだろう。警察に通報されて、不審者扱い。もしくは不法入国。
……不法入国? 空中の穴からポンッと出てきた人が?
強制送還するにも、送還先が見つかるとは限らない。いや、見つからないだろう。そんな移動手段、聞いたことないもの。
そもそもパスポートなんて持ってるの?
涙目の王子がちょっとかわいそうになってしまった。
このままここで、衆目に晒すのもどうか。
しかたない。とりあえず連れて帰るか。あとはパパとママにまかせよう。子どもができる範疇を越えている。
「うちにおいでよ」
そう言ったら彼はパッと顔を上げた。
「いいのですか」
リンがうなずくと、ほんとうに泣きそうな顔で「ありがとう。助かる」と消え入るような声で言った。
「ここはなにかの小屋?」
門を開けたところで彼が言った。
うるさいだまれなにが小屋だ家だわ。やっぱり置き去りにするんだった。
「わたしの家です」
「……家」
「はい、家です。どうぞお入りください」
書道セットと絵具セットは彼が持ってくれた。紳士である。
ガチャッと鍵を開けて招き入れた。
「靴は脱いでね」
念のため。
「靴を脱ぐ?」
案の定わかっていなかった。
「日本では靴を脱いで上がるんです」
「……にほん」
彼は素直に靴を脱いだ。
リビングに行くと速攻エアコンをつける。持っていた大荷物は床に置いてもらった。
やがてこおぉーーーっとかすかな音を立てて冷たい風が吹き出した。