14
「いきなりひとりにしてごめんね。夏期講習が終わったら、すぐにリンが帰ってくるから、それまで待っててちょうだいね」
ママがそう言って出て行ったあと、リチャードは言われたとおりに鍵を閉めた。
「よし!」
指さし確認をして、リビングに戻った。
だあれもいない。
生まれてこの方、そんなことがあっただろうか。
いつだって自分の周りには誰かがいた。乳母だったり、侍従だったり、護衛だったり、メイドだったり。いつも誰かがいたのだ。
そう思ったら急に心細くなった。
だあれもいない。
これから先、どうなるんだろう。戻る方法はあるんだろうか。
この世界はフォックスホール王国とは別の世界らしい。見たことも聞いたこともないものだらけ。初めて聞くことばだらけ。
そんな世界に、ぽつんとひとり。
あのときリンに見捨てられていたら、いまごろどうなっていただろう。あの公園で野宿?
食べるものもなく?
いやいや。ほんとうにリンに出会えてよかった。リンはぼくの命の恩人だ。運命の人だ。世界で一番大事な人だ。
もちろん牧野林家の人々も。
おかげで寝る場所も(ベッドじゃないのは驚いたが、ぜいたくを言っている場合ではないのはわかっている)用意してもらって、食べ物ももらって、おふろにも入れた。
レンが親切にシャワーの使い方や、体の洗い方を教えてくれた。
しゃんぷーとこんでぃしょなーとぼでぃそーぷの違いも教えてくれた。
お城では髪も体もおなじバラの香りの石けんで洗っていたから、使い分けるなんてびっくりだ。
おかげでもうひとりでお風呂に入れる、たぶん。
ありがたい。
当たり前だと思っていたことが、こんなにありがたいことだなんて思ってもみなかった。
ぼくはまだまだ世間知らずだったのだな。
テレビでは布団や枕の話をしている。安眠がどうしたとか。
リモコンの使い方は教えてもらった。
この世界にはすごいものがある。どれだけ高度な魔法なのかと思ったら、魔法じゃないという。
これが魔法じゃないのなら、なんなのだ。そうしたらこれは「技術」だという。
馬の乗り方とか、剣の使い方とかのことか。いやいや、信じられない。魔法と言われた方が納得できるのだが。
こんな右も左もわからない世界なのに、夕べは不覚にもぐっすりと眠りこけてしまった。いわば完全アウェイの敵陣の真っただ中なのに。王族として失態であるが、牧野林家の人々が悪意を持っているとは思えないし。心細いところを親切にしてもらったら、安心しても仕方あるまい。
テレビを見ながらソファに寝転がる。
朝から、こんなにだらけていいんだろうか。聞き馴染みのないことばが、テレビから流れてくる。
あろまにかんせつしょーめー。すまーとうぉっち……。
ちゃんねるを変えてみる。どこかの景色が画面に映し出される。ちゃんと動いている。すごい。
あにめ。絵が動いてしゃべる。音楽も鳴る。カーンとかドーンとかの音も鳴る。すごい。
たくさんの女の子たちが太ももまでむきだしの短いスカートをはいて、歌いながら踊っている。
脚、あんなに出しても、なにも言われないんだ。リチャードのいた世界では、脚を出すなんて裸と同じくらい恥ずかしいことだった。
リンもひざが出ていたし。
価値観の違い。価値観ってなんだろう。
はっ。そうだ! ぽてち! ぽてちとやらを食べてみよう。
こちらの世界では、なんでも売っているらしい。お菓子は家では作らないんだとか。料理人がいないからか?
キッチンへ行って、戸棚を開ける。戸棚の下の段にお菓子の袋が詰め込んである。
ことばはわかるし話せるが、残念ながら文字は読めなかった。なのでママが出かける前に、教えておいてくれたのだ。
ぽてちはこれだ。
ふくろをひとつ手に取った。教えってもらったように袋の口を両手で引っ張る。
めりっと口が開いた。こういうつるつるてかてかの袋も初めて見たが。
これがぽてちか。
うすーいぱりぱりしたものが、袋の中に入っている。ふわんと香ばしい香りがする。
え? これだけ? 中身少なくない? 半分しか入ってないけど。作る人、間違ったのかな?
うーん、でもどうしようもないな。リンが帰ってきたら聞いてみよう。とりあえず一枚取る。
ほんとにうすーい。気を付けないと、持っただけで砕けてしまう。こんな繊細な食べ物があるんだなぁ。
かじってみる。
ぱり。
うわ。砕けた。え? なにこれ。
ぱりぱりぱり。もう一枚。ぱりぱりぱり。
えー、うまいんだけど。この緑の点々はなんだろう。初めて見たものだ。でもうまい。ただの塩味じゃないんだ。
これお菓子? 甘くないけど。ママ殿はお菓子って言ったもんな。
えー、この世界すごい。こんなおいしいものがあるなんて。
夢中になって食べて、気がついたら袋が空になっていた。
はー、全部食べてしまった。うまかった。
名残惜しく指先についた緑の点々を舐めているときだった。
ピンポーン。
チャイムが鳴って、リチャードは飛び上がった。