1.婚約者と王女の距離
彼の好きな淡いピンク色のふわっとしたドレスに、以前彼に贈られた髪飾り。
化粧も薄く、調える程度で。
彼好みの装いは完璧だ。昼のお出かけだから、これで十分なはず。
だけど、何か足りない気がする。
それが何かわからず、じっと鏡の中の自分を見つめる。くるくると回りながら全身を確認する。
「どうしよう、着替えようかしら。もう少し落ち着いた色の方がいいかも」
「ですが、そのドレスはヴィータネン伯爵令息様のお気に入りの色で作ったのではありませんか?」
「そうだけど」
侍女のもっともな指摘に、どうしたものかと唸る。
「奥様に確認していただいたらどうでしょう?」
「そうね。お母さま、今サロンだったかしら?」
時計を確認すれば、お母さまがサロンで刺繍をしている時間。急いで部屋を出ると、サロンへ飛び込んだ。
「お母さま、相談に乗ってください!」
「クリスタ。行儀が悪いですよ」
じろりと睨まれ、すぐさまごめんなさいと謝る。お母さまは礼儀に煩いのだ。
「まあ、いいでしょう。それで、何についての相談かしら?」
「新しいドレスを着て行くのだけど、どこかぼんやりしているような気がして」
「ああ、そういうこと。今日、ヴァリオ殿とお出かけだったわね」
わたしのモヤモヤした気持ちをわかってくれたのか、お母さまは小さく頷いた。
「色がふんわりしているのに、ドレスの形もふんわりしているから締まりがなく見えるのよ。リボンベルトの色を同系色の色の濃いものに変えなさい」
侍女がすぐさま衣裳部屋に取りに行く。付け替えてもらうと、確かに色が締まっていい感じだ。
「ありがとう、お母さま」
「どういたしまして。約束の時間まで、まだ余裕はある?」
「ええ」
時計を確認して頷くと、お茶を一緒に飲みましょうと誘われた。座り心地の良い長椅子に腰を下ろす。お母さまに今日は人気のあるカフェに行くことを話す。
「それは楽しみね」
「ええ! もし時間に余裕があれば、小物も見てきたいわ」
お気に入りの雑貨屋にも寄ってもらって、と今日の予定をあれこれ立てていると。
「お嬢さま、お手紙が届いております」
「ありがとう」
家令に手紙を差し出された。それを受け取り、差出人を確認する。
そこにはヴァリオ様の名前があった。
嫌な予感が頭を過ぎったが、約束の時間まで一時間もない。こんな時間に断っては来ないだろうと思いつつ、手紙を広げる。
――仕事が入った。申し訳ない。
そんなはじまりの手紙だった。
期待が大きかった分、地の底まで気分は落ちた。両手で手紙をぎゅうぎゅうに握りつぶす。
「誰からなの?」
「……今日の予定はなくなりましたわ」
わざと明るく話すわたしに、お母さまは眉をひそめた。
「またなの?」
「……ええ。王女殿下がどうしても今日でないと駄目だと仰るらしいので」
王女殿下、という言葉に、お母さまは明らかに不愉快な顔になる。そのあからさまな変化に、言い方を失敗したと後悔した。
お母さまは姿勢を正してわたしを見つめる。嘘もごまかしも許さないという強い目に思わず身構えた。
「ヴァリオ殿はいつまで王女殿下に振り回されているのかしら」
「振り回されているわけではないと思います。ヴァリオ様は第二王子殿下の護衛ですから」
暗に仕事で王女殿下に付き添っていると伝えた。
「十分に振り回されていますよ。第二王子殿下の専属護衛であっても、その妹の護衛は職務範囲ではないはずです」
「そうですが」
お母さまの厳しい言葉。反論する言葉がすぐに思い浮かばず、テーブルの上にあるカップに手を伸ばした。すでに冷めてしまっているけれども、喉を潤すにはちょうどいい。
「それにしても王女殿下にも困ったもの。不貞をして、離縁されて戻ってきたのに、いつまで娘気分でいるのかしら?」
「お母さまったら。そんな風に言っては」
「問題ありませんよ。不名誉な離縁をして、出戻ってきているのですから。それにね、王族としての特権などすでに剥奪されています。王家からすでにあの方の立場については通達されているのですから」
お母さまの言葉は正しい。とはいえ、流石に言葉にするのは憚られる。
王女殿下のすぐ上の兄である第二王子がかわいがっているから、嫁ぐ前と変わらない暮らしをしている。以前と同じ暮らしにはわたしの婚約者であるヴァリオ様も含まれていて。
ヴァリオ様は第二王子殿下の専属護衛で、王女殿下とも幼いころから顔見知りだ。そこにはわたしが入っていけない確かな繋がりがある。
「クリスタ、物分かりのいいだけなのは感心しませんよ。あと少しで結婚なのです。一方が我慢しなければいけない夫婦関係など、すぐに破綻します」
「わかっています。ヴァリオ様にもきちんとお話ししているのですが」
お母さまの厳しい視線を受け止めきれなくて、少しだけ視線を下げた。
「どのように話したの?」
いつもなら曖昧な答えでも引いてくれるのだけど、今日は引いてくれないらしい。追及されて、どくどくと鼓動が速くなる。
「王女殿下との距離が近く、よからぬ噂が立っていることと、あとは……わたしとの約束をきちんと守ってほしいと」
言葉を探しながら告げれば、ため息を吐かれた。
「クリスタ、それでは駄目だわ。このままでは破談になるけど良いのか、というぐらいはっきり言わないと」
「えっ、破談?」
ぎょっとして顔を上げれば、酷く冷静な顔をしたお母さまがいた。
「王女殿下がいなくなるまで、ずるずると今の状態でいるつもりなの? あなたはこのキュトラ侯爵家の娘なの。そんなぞんざいな扱いをされていい存在ではないのよ」
「わかっています」
「本当かしら? いずれにしても、今のままならば、破談も視野に入れることになるわ」
突きつけられる現実に、胸の奥がきりきりと痛む。
取り戻すのなら、それなりの行動を。
切り捨てるのなら、早めの判断を。
そう考えていても行動に移せないのは、ヴァリオ様の気持ちがどこにあるのかはっきりしないから。
いつだって彼の気持ちをちゃんと聞こうと思っている。だけど、今日みたいに会えないことが多く。次に会った時に彼の気持ちを聞こう、そんな風に先延ばしにする。
それもまた、言い訳だとわかっている。
胸の痛みを誤魔化しながら、現実から目を逸らし続けていた。