第36話 新たな敵の影
カタリナはユマから十分な距離を取ると、スマートコンに小声で話しかけた。
「どうしたの、セレナ」
『医師から聞いたわよ、ハンナにあの薬を飲ませたって?』
カタリナは呆れたようにふうっと息をついた。
「情報が回るのは早いわね」
『それで?何であの薬飲ませたん?』
セレナは少し声を荒げた。
『ある会社の睡眠薬には特徴的な副作用があって、手の甲に翼のような形状をした湿疹が現れるんでしょ』
ハンナの手の甲には、天使の絵でよく見る翼の絵が浮き上がっていた。医師はそれを確認したのだ。
カタリナの与えた薬には睡眠薬としての作用ももちろんあるが、手の甲にあらわれる特徴的な湿疹を利用して、仲間同士で信号を送り合うのにも利用されることがある。
『あの湿疹が出る薬を作れるのは、キミの国の会社だけでしょ?地球人ならまず寄り付かないようなところにある会社の薬を何で一介の学生が持ってんのって話。下手すれば地球軍にばれて銃殺よ?ねえ、元帥サン?』
「その呼び方は好みではないわ」
カタリナは近くの椅子を引いて、そっと座った。
「本当にうっかりなのよ」
『ふうん‥会長が失敗って珍しいじゃん』
「ハンナが体調を崩して、気が動転してたのよ」
『じゃあ、医師がこっち側の人間だというのも偶々(たまたま)か』
それを聞いてカタリナは何かを言いかけたが、抑えてふふっと笑った。
「それはよかったわ。怪我の功名よ。わたしが今夜そちらに行くと伝えて」
『分かった』
電話を切って、カタリナはふうっとため息をついて、椅子の背もたれに背中を預けて、ぼうっと天井を眺めた。
カタリナがあの国の薬を持っていることが地球軍に伝わったら、即銃殺とはいかなくでも監視対象に入ることは確実だろう。通信もほぼ全てが傍受され、思ったように活動できなくなる。もちろん医師が二重スパイという可能性も排除できないのだが、仲間だと聞いただけでも胸のつかえが落ちるようだった。
カタリナはまた、その足でキッチンに戻った。
「‥ん、どうしたの、お姉さん」
ユマは、オーブンが焼き終わったのか、クッキーを取り出しているところだった。
「‥‥ユマと2人きりでいられるのはこれが最後だと思ったけど‥‥」
「お姉さん?」
突然カタリナが変に重い話をしだしたので、ユマが慌てて手に持っていた天板を揺らすと、カタリナはそれをたしなめるようにユマの背中を撫でた。
「ハンナのところ、行きたいでしょ?行きなさい」
「‥ありがとう、お姉さん!」
ユマの表情は一気に明るくなった。
◆ ◆ ◆
月の重力に慣れていない人が走ると危ないということは、地球で何度も言い聞かされていた。私は早歩きで寮に戻り、206の部屋のドアを勢いよく開けた。
「‥‥いない」
ベッドで横になっているはずのハンナの姿がなかった。トイレかな、そう思っているとふいに後ろから声がした。
「あんた、ユマ?」
「え?」
あまり聞き慣れない声がしたので振り向いてみると、クレアだった。ハンナと同じエルフの耳を伸ばしていたので一瞬びくっと身を震わせたが、ハンナと違ってきつい目つきと、鮮やかな緑色の髪の毛で、すぐ分かった。
「ハンナを探してる?」
「う、うん」
「医務室にいる」
「分かった、ありがとう!」
私はそのまま医務室へ直行した。ドアをノックして開けると、たくさん並んでいるベッドの手前に、机に向かって作業している医師の姿が見えた。
「いらっしゃい」
「あ、あの、ハンナはどこにいますか?」
「あら、お見舞いね」
医師は椅子から立ち上がってベッドの方へ歩いていったので、私も後へ続いた。ハンナは部屋の端のベッドで横になって寝ていた。
「くっすり寝ていますよ。明日の朝には起きるはずです」
「ありがとうございます、先生」
医師が机に戻ると私は横の椅子に座って、ハンナの腹を撫でた。
一時は本当に死ぬかもしれないと焦っていたので、肩の力が抜けるようだった。ハンナの安らかな寝顔を見て、私の頬は自然とほぐれた。
「ハンナ、よかった‥」
私は布団の中をまさぐって、ハンナの手を取り出して、それを両手で握った。そして、泣き声を押し殺して、ぼろぼろと涙を流した。
ハンナ、よかった。本当によかった。私の友達が目の前で死ぬなんて、耐えられない拷問だった。手からは確かに体温と、脈拍を感じる。脈拍が少し遅い気はするものの、それは寝ているからだろうと私は納得した。ハンナの温かい手を握っているだけで、全身の力が抜けたように、今までたまっていたものが一気に溢れ出るような気持ちになってくる。
「‥‥ん?」
ハンナの手にさらさらした感触がしたので、私はその手を見た。包帯が巻かれていた。
「‥‥包帯?」
料理の前に包帯はなかったと思うし、料理で怪我した様子はなかったし、これが一体何なのか分からなかったが、後でハンナに聞こうと思って私はその手を布団の中に戻した。
◆ ◆ ◆
「で、結局夜までここにいたわけ?」
カタリナが呆れた様子で、私の隣まで椅子を運んで座った。窓が映す外の景色は暗くなっていた。おそらく本来の景色をそのまま映しているのだろう。
私は眠そうな目をこすって、うなずいた。
「ハンナが生きているってだけで、嬉しくなって‥‥なりました」
「わたしも安心したわ」
そう言って、カタリナはハンナの顔を眺めた。そして、布団を少しめぐってハンナの包帯に包まれた手を確認している様子だった。しかしカタリナは包帯を見ても何も声に出さず、そのまま布団を戻した。
「ユマ」
「はい」
「お菓子はわたしの部屋に置いてあるわ。本当は作りたてを食べたかったけどね、わたしだけ食べるわけにもいかないわ」
「ありがとうございます、生徒会長。‥‥食べてもよろしかったのに」
カタリナは笑顔で首を振って、それから私の頭を撫でた。
「夕食、まだでしょう?消灯までには部屋に戻りなさい」
「はい、分かりました」
私はカタリナと一緒に医務室を出た。
◆ ◆ ◆
レストランでは、アユミとノイカが並んで食事していたので、私とカタリナはその向かいの席に座った。私は月キャンパスの学園祭によくアユミ、ノイカと一緒に訪れたので、カタリナも2人と面識はある。
「へえ、お菓子作りをしていたのね」
話を聞いていたアユミが相槌を打った。
「はい、ハンナと生徒会長とクッキーを焼いていたところです」
「生徒会長のクッキーはおいしいわよ」
「アユミ先輩も食べましたか?」
「食べるも何も、新5年生歓迎会で全員にふるまわれるわよ、ねえノイカ」
アユミが隣のノイカに目配せすると、ノイカは面倒そうにうなずいた。
「でも、残念ね」
カタリナが口を開いた。
「焼きたてのクッキーをユマは楽しみにしてたから」
「生徒会長、焼きたてのクッキーはいつでも食べられるから大丈夫ですよ」
私がさりげなしにそうフォローすると、カタリナは何かを思い出したように目を伏せて、首を振った。
「わたしが卒業するまではね」
「えっ?」
戸惑う私に、アユミが補足した。
「ここを卒業したら軍人になって、宇宙を飛び回るの。戦争でいつ死ぬかもわからないし、いつ帰れるかもわからないから二度と会えなくなるかもしれないんだよ」
「あ‥‥」
正直私は戦争をぼんやりとしか捉えていなかったが、姉も先輩も戦争のことを深刻に考えているのは伝わってきた。
二度と会えないかもしれない。それを聞くだけで、すぐ隣に座っている姉の存在が急に遠く見えてきた。
「‥生徒会長」
「ん、何?」
カタリナが何事もなかったかのようにいつもの調子で返事したのが、なぜか憎たらしく感じてきた。
「‥‥何でもありません」
「ふふ」
カタリナは笑って、食事を口に運んだ。