第34話 お菓子を作った(2)
今頃、ハンナはユマやカタリナと一緒に料理をしているところだろうか。事前にハンナに、ボウルを使って手の使い方を教えてみせたので、今日のハンナは一応は大丈夫だろう。カタリナより上手く作ることは、おそらくプロでも困難だが、だからこそ気持ちを込めて、オンリーワンのお菓子を作るようアドバイスした。味ではカタリナに劣るが、気持ちでは負けてはいけないとも伝えた。クレアは、ハンナが今キッチンでどのようにしているか気がかりだった。
「‥‥ん?あら」
浴室入り口の引き戸が開いた。ピンク色のブロントをはためかせたその先輩は、湯船に入っているクレアの背中を見て声をかけた。
「誰かがいたのね。4年生かな」
「‥‥はい」
クレアはハンナに似て人見知りで、必要のない話は面倒なのでしたがらない。しかし、先輩にここで返事しないと面倒なことになると思って、クレアは雑に返事をした。
その先輩、セレナは湯船のそばでしゃがんだ。
「名前、なんていうのかな?」
「クレア。クレア・ルガフィーズ。です」
最後に取って付けたような丁寧語をつけてクレアが返事すると、セレナは周りを見回して誰もいないのを確認して、そのまま湯船に入った。
「体、洗わないんすか」
「細かいことは気にせんでも」
そうやってセレナは笑いながら返事した。クレアは少し眉を潜めて、セレナから少し離れた。
「あっ、自己紹介まだだったね。うちはセレナ・ユタート。セレナでいいわよ」
「はい、セレナ先輩」
クレアは面倒くさそうに返した。そしてすぐに、ハンナの話を思い出した。
「‥‥もしかして、生徒会長と同じ部屋すか?」
「うん、そうよ、生徒会長がどうしたの」
「‥‥そっすか」
カタリナは、ハンナの恋のライバルだ。カタリナについて情報を仕入れることも、ハンナの勝利につながるだろう。数日前に初めて話したばかりの相手のためにここまでするのは普通に考えておかしいかもしれないが、クレアはなぜか、ハンナのことを他人事には思えなくなってきていた。
「んじゃ、聞いていいすか」
「ん、何?」
「ユマって知ってんすか?」
「知ってるよ、生徒会長の義理の妹でしょ」
「そこんとこ詳しく。どれだけ仲いいか知りたい」
「あはは、もう噂になってるからね」
セレナは笑った。ユマとカタリナが2人きりでいるところはすでに何人かに目撃されていた。学園でも歴史に残るような技力を持ったカタリナは何かと注目されやすく、そんなカタリナが月に来たばかりの新5年生と2人きりになったという話は広まりやすいのだ。といっても今は生徒会長周辺のごく一部だけの話だが。
「ん、小さい頃からずっと一緒で仲いいよ?」
セレナはそう答えた。だが、カタリナがユマに恋慕していることは伝えてこない。知っていてわざと伝えていないか、それとも本当に知らないのか、それはクレアには分からなかったが、ひとまず警戒することにした。
「喧嘩とかはないんです?」
「ないない」
「いつも一緒に遊びに行ってんですか?」
「行ってるよ」
どこから探るか決めかねて、当たり障りのない会話が続く。セレナもセレナで、この前マーガレットと一悶着あったので反省して、デートの話をむやみに出さないようにしている。
「‥そういや、生徒会長はお菓子作りがうまいと聞いたんすけど」
クレアがそうしゃべると、セレナは少し間を置いて反応した。
「うん、うちも食べたことあるけどおいしいよ?」
「わえも食べてみたい」
そう子供のように言うと、セレナは周りを見回して、それからクレアの耳にくいっと口を近づけて、小声でささやいた。
「ここだけの話、来週歓迎会あるじゃん?そのときに会長に作ってもらうことになってるから」
「‥なるほど、そのときに全員食べられるわけか」
「そういうこと」
◆ ◆ ◆
「どうでございますか?」
「負けないよ」
そのころ、ハンナとカタリナは肩を寄せ合って、ポウルをかき混ぜていた。私などそっちのけである。ハンナは少々かき混ぜすぎ気味だが、カタリナはハンナを凝視しつつも、しっかり自分のポウルをきれいに混ぜている。これが技力ナンバー1か。私はテーブルの向かい側で、自分のポウルをゆっくり混ぜていた。
「生地を作るわ」
カタリナはそう言って、ポウルの中身をまな板に流し込んだ。
「わ、わたくしも!」
やがて2本ののし棒が握られ、生地を薄く長く伸ばしていく。
私も同じようにのし棒を取り出して使いながら2人の様子を見ていたが、こころなしか、ハンナは疲れているように見えた。まだ午前なので気のせいかと思ったが、やはり疲れている。息が荒いように見えたし、顔もピンクになっている。
「ハンナ、大丈夫?」
「‥大丈夫でございます」
そうは言うが、やはり息が荒い。隣で器用にのし棒を使っていたカタリナもさすがに気になるのか、ハンナの横顔を覗き込んだ。
◆ ◆ ◆
入浴を終わらせ自分の部屋に戻ったクレアは、ため息をついた。
結局セレナとの会話は当たり障りない内容に終始したし、カタリナに関する有用な情報を引き出せたとは言えない。そもそもセレナ自身が、カタリナの恋心を知らない可能性もあるのだ。
クレアは窓を開けた。窓の景色は一見朝のうららかな日差しのように見えるが、それは体内時計を調節するためのまやかしで、いったん窓を開ければそこには夜空が広がっている。クレアは窓から首を出して、左奥の木の中に隠れた2階建ての建物を見た。あそこが旧レストランで、ハンナが料理している場所だ。ハンナにアドバイスした手前、どうしても気になる。
「どうしたんですの、クレア様。憂鬱な顔をして」
後ろからルームメイトの声がしたので、クレアは窓を閉めた。ベッドで横になっているマチルダだった。クレアは壁にもたれて、聞き返した。
「あんたこそ、どして寝てるん」
「月に来てから、めまいや頭痛がひどくなったんですわ」
「あー‥‥宇宙酔いかもね。医者呼ぶ?」
「結構ですわ。マチルダに不可能はないんですのよ、おほほ」
病弱な体で高笑いされても、と言いかけたがクレアはつばを飲み込んだ。確か、4年生が月に来てから1週間程度。体の弱い人は、そろそろあの症状が出てくる頃だ。
「あら、どこへ行きますの?」
「ちょっと急用を思い出した」
マチルダにそう言い残して、クレアは部屋を出た。
◆ ◆ ◆
無重力空間で長期間過ごすと、めまい、頭痛、吐き気などが出てくる。これを宇宙酔いという。そして、体液シフトとよばれる症状も出現する。これは、地球の重力によって足近くに集まっていた血液が、脳に集まってくる。結果として足が細くなり、頭は赤く、大きくなってしまう。また、骨が柔らかくなってしまうことも分かっている。
月は地球の6分の1の重力であり、宇宙船による半日に満たない高速移動ののちの月での長期滞在においてこれら症状が発現することはあまりなく、するとしても軽微だ。それは数百年に及ぶ長年の研究の成果であり、レストランの食事や月で販売される食品などには、骨を強化したり宇宙酔いを予防したりするための栄養が入っている。それでも体の弱い人は発症することがあり、メグワール学園の月キャンパスでも毎年十数人の病人を出している。
薬の入った箱を持ったクレアは足音を殺して、旧レストランのドアをゆっくり開け、中を覗き込んだ。少し黄色の明かりがつきっぱなしの食堂は無人で、静寂に包まれていた。その向こうにあるキッチンスペースからは真っ白な光が漏れている。
「どうしたのだ?」
いきなり後ろから声がしたので、クレアはびくっと反応した。
「‥何だ、あんたか」
「マーガレットなのだ」
マーガレットも状況は把握しているらしく、地味な色をした帽子で鮮やかに輝く赤い髪を隠していた。
「何しに来たのだ?」
「‥‥ハンナが体調を崩しているのではないかと思って、薬を持ってきたんだけど」
「ご明察なのだ。ハンナはすでに倒れているのだ」
それを聞いてクレアは目の前のマーガレットにわずかな違和感を抱いた。ハンナが本当に体調を崩しているのであればこのような余裕のあるセリフを言うわけがないし、他人事にしているようにも見える。マーガレットが、ハンナやユマとは全く別の目的でここにいる可能性は高いだろう。
「わかった。で、あんたは何しているところなの?」
「しっ!隠れろ」
「えっ、う、うん」
マーガレットに言われるがままに、クレアも一緒にテーブルの下に隠れた。まもなくキッチンの方から足音がして、カタリナ、ユマ、そしてユマの魔法で体を浮かべられたハンナが姿をあらわした。ハンナはかなりくったりしている様子だった。
3人はテーブルの間を通って、そのままレストランを出ていってしまった。その様子を息を殺しながら見ていたクレアは、遠慮のない音量でマーガレットに尋ねた。
「‥なぜ隠れる?」
「今ここで隠れないと、殺されるのだ」
「‥えっ?」
驚くクレアにマーガレットは声を殺して、口に手を付けて言った。
「生徒会長が、ハンナに薬を盛ったのだ」




