無知の力(5)
意識はまるで海に沈んでいくように時折波打ちながら明滅するようだった。ふと、私の顔を何か熱いものが照らす。
火だろうか。しかしそれにしては肌を焼くような熱さはない。その光に対して薄く瞼を上げる。
そこに広がるのは、夏の森だった。五月蝿いくらいの蝉の声が私の鼓膜を揺らす。ここはまるで私があの子に出会ったような、懐かしい雰囲気を醸し出していた。
「目、覚めた?」
振り返ると、幼い私を助けてくれた少女が変わらぬ姿で立っていた。
「神崎……?」
「そうよ、覚えててくれたんだ。」
彼女は私の隣に座ると年相応の無邪気な笑みを浮かべる。ふと、彼女の手が私の手に重なった。
「苦戦してるんだよね、無理ないよ。相手が悪いもん。」
その言葉でふと、自分がどのような状況に置かれているか思い出す。小鳥に気絶させられて夢でも見ているのだろう。
「あの怪異は、一体何者なんだ?」
「くねくね、って聞いた事ない?元々は食い扶持を減らすために子供を間引く風習があったみたいなんだけど……片足を切断して案山子に括り付けるの。その成れの果てよ。」
言われてみればあの怪異の妙な動きは、片足がない故の動きだったのかもしれない。
だが聞きたいのはそんな事ではない。どうにかして窮地を脱する為の策を練らなくてはならない。
「どうすれば、勝てるんだ。」
それを聞いた神崎は、どこか嬉しそうに笑った。
「そっか、影崎も退魔師になったんだね。なら……安心して。君はもう勝つ為の力を備えてるんだから。」
夏の森の輪郭が、溶けていく。まるで夢から覚めるような感覚に陥る。
彼女は寂しげに笑い、手を振った。
「私、死んじゃったから……私の分までしっかり退魔師頑張ってね。影崎。」
再び夜の海に落とされたように意識が混濁する。一筋の細い光を手繰り寄せるように藻掻くと、急にそれは近付き私の身体を包み込んだ。
夢から覚めるような気分だった。
× × × ×
あれからどれ程気を失っていたのだろうか。すぐに身体を起こして周りの状況を確かめる。
怪異と小鳥は対面したまま動かない。しかし明らかに小鳥は満身創痍だった。着ていた服は所々引き裂かれ、肩で息をしている。
私の覚醒に気付いたのか、振り返ると冗談めかしては笑う。
「もう少し寝ていても良かったのよ、私一人で大丈夫だから。」
強がりだとすぐに分かった。この戦況を何とか切り抜けなければ。
私の足は情けなく竦む。それでも小鳥と志乃を守らねばならない。神崎の言葉が背中を押すように蘇る。
勝つ為の力が備わっている、と言われても私が握っているのは小鳥から貰ったスコップ一つだ。お経らしきものは書かれているが、それでも心許ない。
だが、逃げる訳にはいかない。私が立ち塞がると怪異はその表情を楽しそうに歪ませた。小鳥も必死に戦ったのだろう、千手観音の一つの顔は潰れ、腕もあらぬ方向を向いている。
この怪異がくねくねと呼ばれるものだとはもう理解した。そしてその正体を知ってしまえば気が狂って死ぬ事も理解した。
現に割れるように頭は痛く、足取りも覚束無い。
だが、それを構わずに踏み込む。千手観音の振りかざす刀を不格好に転がってかわすと懐へ潜り込む。
「喰らえっ……!」
頼むから効いてくれ、そんな思いと共に脇腹付近にスコップを突き立てる。その瞬間、坂元を素手で殴った時の事がフラッシュバックした。
肉にスコップが食い込む嫌な感覚にも構わず、奥深く捩じ込む。甲高い苦悶の声を上げ、怪異は身体を捩る。
深く刺さったスコップを手放すまいと強く握るも、私の体は宙を舞う。しまった、そう思った瞬間には刀の切っ先が顔目掛けて迫る。
思わず目を瞑る。その狙いが狂うのを願うしかない。しかし私の顔に刺さる事はなく、無様に地面に叩き付けられる。
顔を上げると、小鳥が素手で刀を受け止めていた。右手からは熱い血がどくどくと滴り、私の頬に垂れる。
「貴方の恐怖心は私だけの物。こんな三下怪異に怯えてんじゃないわよ。」
そう言い放てば固く握った左拳をスコップで開いた傷口に叩きつける。まるで拳銃でも放たれたかのような音が空気をびりびりと揺らす。
私もスコップを握り直すと再び迎え撃つ。しかし怪異も残った手に全て斧や刀を握れば猛然と突進してくる。
例え刺し違えようともこの怪異を葬る。まるで自分が自分でないような高揚感と共に心の臓目掛けてスコップを振りかぶった。
私は今、どのような表情をしていたのだろうか。怪異が一歩、二歩と後ずさる。その表情は恐怖で固まったようだった。
一瞬の葛藤。どこか痛む良心に手が止まりそうになる。
その時、また懐かしい声が私に囁く。
「影崎。逃げちゃダメだよ。これ以上苦しませない為に、終わらせないと。」
その言葉が、私の右腕を振り下ろさせた。深く心臓目掛けて突き立てると断末魔のような不快な声が響き渡る。
どろり、と傷口から怪異自身が溶けていくような光景。やがて分裂したくねくね達がくたりと地面に横たわり、蒸発するように消えていった。
「……終わった、のか?」
地面に力なくへたり込む。小鳥が、私を背中から無言で抱き締めた。
遠くから聞こえる蝉の声が、はっきりと聞こえてくるようだった。




