黄泉還り(4)
「……取り敢えず距離は取れたわ、正確に言えばもうここから逃げ場はないのだけれどね。」
村の端まで命からがら逃げ延びるとその先は底の見えない谷が広がっていた。周りを見回しても橋は見当たらない。
「どうする、ここで迎え撃つか。」
「当たり前じゃない。相手も所詮は怪異、私よりもずっと格下のね。高級霊コロリで一発よ。」
彼女は私の鞄の中を探ると、表情を強ばらせる。
「……高級霊コロリ、入ってないじゃない。」
勿論入っている訳がない。さっき地蔵に貼ったものが最後なのだから。
その旨を伝えると彼女は今にも怪異としての恐ろしい表情をさらけ出そうとするのを必死に耐えているようだった。間違いなく腸の煮えくり返っている時の表情だ。
「このドケチ退魔師、ポンコツ。役立たず。……私が取ってくるわ、それまで絶対に振り返らず待ってなさい。」
そう言って駆け出す彼女の足音が遠くなる度、張り付くような恐怖が私の背後から近付くような予感がした。
それから五分ほどしただろうか、谷の向こうを当てもなく眺めていると背後から足音が近付いてきた。
小鳥だろうか。振り向こうとした所で彼女が宿で話した伝承を思い出す。
本名を呼ばれても振り向いてはいけない。姿形を奪われてしまう。
頬に冷や汗が伝う。暫しの沈黙の後、その足音は止まった。
「何だよ、影崎。急に宿から飛び出しやがって。家でもそんなに恋しくなっちまったか?」
それは坂元の声だった。ほっと胸を撫で下ろすと、その声に振り向く。
しかしそこに居たのは、坂元ではなかった。
彼の体は三倍ほどに膨張し、どす黒い肉のようなもので覆われている。辛うじて顔だけは表に出ているが、腐乱した肉団子のような形相は凡そ人間のものではない。
「さ、坂元……」
「おう、お前もこっち側に来いよ。すっげえ気分が良いんだよ。怪異ってのはな、退魔師の血を吸えば吸うほど強くなれるんだよ。」
アンバランスに肉塊から飛び出した足で、距離を詰めてくる。
「お前の方が弱い癖に、俺だけ死ぬってのは納得いかねえよな。」
恨み言を吐く坂元だった何かから、目を背けたくなる。意識も飛びそうな程の恐怖が身体を押しつぶすような重圧。
「俺の糧になれよ、影崎。お前の体、くれよ。なあ。」
戦わなければならない。こうなってしまった彼の仇を討つ為、そして彼の魂をこの呪縛から解放する為に。
しかし私に対抗出来るような術はない。大層な術も、怪異に効くような道具も持っていない。
私が鞄から何かを当てずっぽうに掴んだ瞬間、肉塊から伸びた血管のような触手で足を絡め取られる。
「うわっ……!」
バランスを崩し、怪異の目の前まで引き摺られる。手に掴んだ物を確認するまで暇すらない。
耳まで裂けた醜い口が、私の顔を削り取ろうと大口を開けて迫る。
こんな時、小鳥ならどうするか。
無我夢中で、何かを握り締めた右の拳を勢いに任せ叩き込む。
握り締めた物は聖水の小瓶だった。私の手の中で砕けると拳に纏わり付き、怪異の顔をどろりと溶かす。
「うぐぅ……お前、ふざけやがって……!」
微かだが、勝機が見えた。右拳を振りかぶると距離を詰める。
然し、それはあまりにも迂闊だった。右手首を触手に絡め取られると動きを封じられる。どろりと顔を半分溶かした怪異は怒り狂った様子で私の喉元を狙った。
死を覚悟する。普段はすぐ気絶する癖にこんな時だけは気を失わせてくれないのか、と走馬灯めいた思考が脳裏を過ぎった時。彼女の凛とした声はよく響き渡った。
「振り向くな、と言ったはずでしょう。浮気者。」
怪異は背後から聞こえた声に思わず振り返る。その刹那、小鳥の全体重を乗せた蹴りが露出した顔面に突き刺さる。
ごきり、と人間の最も大切な骨が折れたような音が響いた。しかし怪異は倒れない。
だが私の拘束は緩んだ。聖水とガラスで切った血に塗れた右拳を肉塊に叩き込む。
ぶちゅ、と嫌な感触。中の筋肉とも内臓とも言い難い滑るような繊維は拳に触れた瞬間激しく灼けた。
「ギイイイイイイ!!!!!」
怪異は苦しそうに身を捩り、金切り声を上げる。しかし絶対にこの手は離さない。恐怖で気絶しそうになりながらも、手を更に奥に押し込む。
「上出来よ、ヘタレ退魔師。お陰で術式を思い出す時間が稼げたわ。」
怪異が身を捩って私を吹き飛ばす。小鳥の足元に転がると、彼女は札を用意し集中していた。その振る舞いは退魔師そのものだった。
「滅せよ、彷徨える魂……っ!」
そして札を怪異の顔に叩き付ける。肉塊のような身体をごぽごぽ、と泡立つように膨れ上がりやがて破裂した。
そしてすぐに襲い来る大きな地鳴り。天地がひっくり返るのではないか、と錯覚するくらいに大きく地面が揺れると今まで見えていた村の風景はみるみるうちに荒廃していった。
「……終わった、か。」
「ええ。然しこんな大物を仕留めたのに報酬を払う人間も居ないわ。さっさと帰って風呂でも浴びたいわ。」
けたけたと笑うと、小鳥は私の手を引いて立ち上がらせる。
「坂元、彼はもうとっくに死んでたのよ。事務所に来た時は既に姿を乗っ取られてたって訳。貴方の本名を知らないのも、地蔵に札を貼る時に自分が触らなかったのも……そして、事務所で塩入りのコーヒーに手をつけなかったのも。辻褄が合うわ。」
私くらいの高等な怪異になれば塩も美味しく頂けるんだけど、と冗談めかす。
「……退魔師の血を欲しがって、私を呼んだという訳か。」
「そうね。退魔師の血を吸えば今みたいに力は膨れ上がるもの。」
彼女はせめてもの弔いに、と坂元の墓標をその辺りの木片で作った。
日はもう傾き、夕焼けに照らされる廃墟は何処か静けさを取り戻したように思えた。
「あと、今回はよく頑張ったじゃない。あの瓶の中身、ただの水だったのに。思い込みの力って怖いわね。」
「……えっ?」
自らの拳をじっと見つめる。血は既に止まり、固まっていた。
「まあ何にせよ良いじゃない。貴方の除霊師としての力の目覚めかもしれないわ。……それと、日が沈む前に帰りましょ。もうバスも無いわよ。」
都合よく直行バスが出ていたのも怪異の仕業だったらしい。途端に足取りが重くなるように感じた。




