花筏
目が醒めると、彼の姿はなかった。
ため息をついて、くしゃくしゃになった髪のまま、ベッドサイドのラックを見ると、愛用しているミネラルウォーターとメモが置いてあった。
今度こそ、もうやめようという、そういうメモだろうか。
始まりも曖昧だったから、終わりもこんな風になってしまうのだろうか。
嫌だ。
ポツリと呟いて、それでもそのメモを見ないわけには行かなくて、出来るだけ結果を遅くさせたくて、うっすらと目を細めてメモを読むと、買い物に行ってきます、と短く書いてあった。
なんだ。
違ったのかと情けなくベッドに座り込む。
じっとりとかいた汗をぬぐい、置いていってくれたミネラルウォーターを飲むと、軽くむせた。
我ながら落ち着きがない。
頭を左右に振ってふと床に目をやると、昨夜、彼が開けた窓から入ってきた桜の花びらが散らばっていた。
夢のようだったけど、夢ではなかった。
それは嬉しいこと?悲しいこと?
彼と会うと、言ってしまえば終わってしまう言葉だけがいつも頭をぐるぐると回る。
初めて抱かれてから今日に至るまで、どういうつもりで彼が自分を抱いているのかわからないし、知るのが怖い。
恋なのか。恋でなければなんなのか。
足の指で桜の花びらをたぐり寄せる。
彼が来るからと、気まぐれに塗った慣れない青いペディキュアが桜の色とは全然合わないな、とわたしは笑った。
作家としてデビューしたのは今から四年前。ハタチになったばかりの頃だった。
津田さんの雑誌に連載が決まって、彼がわたしの担当になったのは、2年前。こんな風になったのは半年前。
会うとどちらからともなく、こういうことになる。わたしも、彼も、その理由を言わない。
ただ、彼の、大きな骨ばった手に全てを絡み取られると、もう、理由なんてどうでもよくなる。
わたしの上で蠢く、罪悪感とそれでも先に進みたいと望む欲望に、総毛立つほど欲情する。
綺麗な顎の形、薄い唇、コケた頬。
そのときだけは、わたしにむけられている、そのときだけはわたしのもの。
「僕は貴女の言葉が好きなんです。」
その言葉にわたしは失望する。
だったら……だったら、
言葉を持たないわたしを、貴方は抱かないのだろうか。言葉を持たないわたしは、抱く価値がない女なのだろうか。
朝は苦手だ。
夜よりも、嫌なことがぐるぐると回る。
暗闇に隠れてなかったことにしていたものが、陽の光に照らされて、全て暴かれてしまうから。
親指で、桜の花びらをグリグリと潰すと、綺麗だった桃色が汚らしい茶色に変わった。
津田さん、そのまま帰ってしまったのだろうか。今日の約束もしていないのだから、帰ってしまっても仕方ないんだけど。
シャワーでも浴びて、仕事でもするしかないかとわたしはベッドからゆるゆると立ち上がった。
「あ、なんだ。起きてたんですか。」
立ち上がると同時に津田さんがドアを開けて帰ってきた。
「いま。いまです。」
今起きましたと目をパチクリする。
「もう、帰っちゃったのかと思いました。」
なんで、と津田さんは目尻にシワを寄せ、優しく笑い持っていたレジ袋の中身をわたしに見せた。
「なんか、食べられんの、あります?」
適当に買ってきたんですけど、という彼の買い物袋の中には、梅とおかかのおにぎりが一個ずつとわたしが好きなポテトチップスが入っていた。
「……朝から、ポテトチップス?」
「……いや、ほら、先生。好きでしょ?」
そうですけど、とわたしは笑った。
仕事はできるし対応は早いのに、そうやって、そういうちょっとだけ抜けているところだけは可愛くて。
あれ、なんか間違ったかなという横顔を見てわたしはまた思ってしまう。
ずるいなあ、また好きになる。
ふふっと笑って「おかかと梅、はんぶんこしましょうか。あとはお昼かな。」というと「もっとちゃんとしたもの、食べてください」と神妙な顔で言う。
「これ、買ってきたの、誰ですか?」
「……僕ですね」
そうです、と言って薄い唇に口付けた。
浅く、長い、触れた熱が欲を孕む口づけ。
朝だから、朝なのに。
言い訳を重ねて、名残惜しく口づけをやめると、複雑な顔をした津田さんがそこにはいて、ああ、だから朝は嫌だとわたしは思った。




