なぜか降り立った山間の駅 そこに立っていたのはいかにも怪しい宿屋の女将であった。
旅がしたくて書きました
幽玄渓谷の夜 (その1)
十両編成の列車の窓に夕闇が迫る。一番後ろの車両に乗っていた珠理は、車窓の外に景色を見つめていると空の彼方をうっすらと火の固まりが、谷の方へ光ながら流れ星の様に落ちて行くのが見た。はっと息をのんで見つめた、それは渓谷に落ちる寸前に消えた。それは、遠くに見えたので、近くで見たなら一メートル以上は有るのではないかと思った。
ドアの端に立っていた珠理は、火の玉を見た人がいるか何気なさを装って横やその向かいに座っている人達を見回してみたが、誰も気づいてはいない様子だった。
隕石か?何だったのだろう。
初めてだ。
その時、車内にアナウンスが流れた。
「鳥尾~。次の停車駅は、鳥尾駅です。」
この駅で降りようとA思いたった。
夕暮れかかった、窓から見える風景に心魅かれたせいかもしれない。
降り立ったその場所は、古びた小さな駅舎で、初めて降りる場所だった。
山々に囲まれ、夕焼けがその上を染めていた。
ただ、シンと静まり返ったポツポツと家が並ぶ集落そしてそれを囲む山々があたりにそびえ立っていた。
何でこんな寂しい駅で降りてしまったのだろうか珠理は思った。
降り立ったその場所は、まだ初秋だというのに風が冷たかった。
誰もいない改札口を抜けると腕時計を見ると、六時を指していた。明日また、ファミレスで働かないといけないというのに、こんな時間に都心から離れたこんな場所に来てしまった。いつもの自分からは考えられない行動だと思った。
と、その時突然背後から声がした。
驚いて後ろを振り向くと、眼鏡を掛けて髪をひっつめに結わいた、薄い水色着物の上から割烹着を着た女の人が立っていた。見掛けから中年位に見えた。
いつの間に、いたのだろうか。
「もう遅いからこの辺は、危ないわよ。おばさん、天空屋っていう宿やっているの。良かったら天空屋に泊まっていらっしゃいな。」
「女将さんですか。」
「ええ。」
なぜか、女将さんは気取っていた。
こんな無人の駅に、なぜこんな人がいるのだろうか、こんな集落に宿なんて有る事も意外だ。それにこの人いつの間にか背後にいたのだろうか。降り立った時は誰もいなかったのに、珠理は、そう思いながら返事をした。
「いいえ、あの、大丈夫です。」
「ほら、もうすぐ日が暮れるわ。」
珠理の返事にはお構いなくそう言うと彼女は夕暮れの空の方を見遣った。つられてそちらの方を見ると稜線のオレンジ色と赤の混ざった空が広がっていた。
泊まるなんてそんなつもりはないよと珠理は思った。第一、宿代払えないし、再度断ろうとすると、彼女は悪戯っぽい瞳をして言った。
「大丈夫よ。それは後でいいの、心配しないで。」
それって、宿代の事?もしそうだとしたら、宿代無いって考えているってなんでわかったのか、珠理は恥ずかしくなってあたしってお金の無い雰囲気漂わせてるのかしら、慌てて自分の足元を見た。
靴を見るとその人の金銭状態がわかると聞いた事があるからだ。今日は、古びたフラットシューズだが、そのせいだろうか。
そんな風に頭の中で模索していると、なおも彼女は誘って来た。
「景色良いわよ。ほら、あの山の中腹に天空屋が有るのよ。」
そう言って、上の方を指差した。
指差す方に目をやると、辺りの山の中で一番高い山だった。気がつかなかった、あんな所にあんな高い山があったのだと思った。
ぼうと見ていると、女性はなおも続けた。
「温泉も湧き出ているのよ。」
温泉か、いいな。珠理の心浮き立つ様な気持ちになった。
「料理もね、美味しいし、それにワイン、ドイツワインなの。」
ドイツワインか・・・。飲んだ事ないな、どんな味かしら。
なんだか、気持ちが天空屋に傾いてくる珠理がいた。
「さあ、行きましょう。」
そんな思いを見透かす様に女将はそう言うと今までとは違った声のトーンで言った。
「あちらよ。天空屋に行くバスは。」
その人は十メートル位に離れた場所を指差した。
女将さんの差した方を見ると旅館で送迎に使われる小型のバスがあった。
えーい、行っちゃえと、珠理は、意を決した。どうせ行く当てが無くバスに乗ったのだから。
「さあ、こちらよ。」
そう言いながら女の人はバスに向った。珠理もついて行った。
後ろの空いたドアから乗った。
前から二列目の古びたシートに座ると、鞄の中から携帯電話を探した。電源が消えている。
消した覚えは無いのだけれど、と、思いながらつけようとしたのだが電源がつかない、壊れたか?何度やってもだめだ。困り果てて車内から外を見回すと鬱蒼とした木々が生える細い山道をその中年の女性の運転で登って行く。あまりにくねくねしすぎてもう、どこをこう行ったのかわからない。霧も出て来た。
携帯は、やはり何度やってもつかない。
あいかわらずでだんだん不安な気持ちが押し寄せてきた。
霧の中をバスは、なぜか淀み無く進んで行く。
いかにも旅館らしい風情の館が送迎バスの中から目に入った。門には宿の名前天空屋と書いてある。
中年の女の人は、運転席から出て来ると珠理に向かって手招きした。
「さあ、着きましたよ、どうぞ。」
「はあ。」
小さな声でそう言ってからため息をつきながらバスから降りた。
館の周りは鬱蒼とした林に囲まれている
その人は入り口から入って珠理に声を掛けて来た。
「さあ、どうぞ。」
それって、泊まれっていう事かな、あたしの持って来たお金で足りるかしら。古びているから安いかな。
いや、老舗っぽいな、確か何千円しか持ってない。
そんな事を不安に思いながら言われるまま正面玄関に足を踏み入れてしまった。
と、中年の女の人は、先ほどまでの感じとは違うかしこまった表情で
「わたしは、ここの女将をしています。」
と、礼儀正しく頭を下げた。
「これに履き替えて下さいね。」
女将さんは、室内履きをこちらに差し出した。
言われるままに履くと、女将さんは帳面をこちらに見せた
「ここに、名前と住所を記入してね。」
それを見てまた、宿代の事が気になった。
「持ち合わせが。」
珠理は、口ごもった。
「大丈夫、帰ってからでも払ってもらえれば。夜も、遅いからいいの。叔母さんの所はそんな人が多いのよ。」
「でも・・・。」
本当に良いのだろうか珠理が迷っていると違う女の人側に立っていた。
「女将さんが言っているのだからいいのですよ。」
その声の方を見た。何時の間にいたのだろうか、白地に小さい花の模様がいくつも書かれた着物を着て髪を後ろに一つに束ねた年若い女の人だった。仲居さんなのだと珠理は思った。
彼女はなおも透き通った声で続けた。
「部屋まで御案内します。」
「はあ。」
珠理は、迷いながらもその人の後に続いた。その人からは、何か花の良い香りが微かに漂っている。
と、階段が入り口の斜め前方にあり、その階段の上から男の視線を感じた。
見上げると眼鏡をかけた痩せた二十代後半位の男が、加世に向かって睨みつけている。
何なのよ。この人、珠理は怖くなったが男はぷいっと二階の奥へ消えた。
仲居さんは階段を上りだした。ミシミシと音がする。
「あの、この旅館は、いつ頃建てられたのですか。」
「百年程前です。」
「ええ、そんなに古いのですか。」
民家など近くに無いこの渓谷に、なぜここは、成り立っているのだろうと思った。
案内された部屋は、和室で引き戸の横には百合という表札があった。
「浴衣は、ここにあります。」
開き戸の扉を開けるとそこには、確かに白地に花模様の浴衣があった。
「食事は、八時から大広間です。浴場は、フロントへ行った階段とは反対方向の階段を降りて右へ曲がってすぐのところです。」
随分遅い夕食だな。テレビの横の時計に六時半を指している時計の両方の針を見遣った。
その時、携帯の電源がつかなくなった事を珠理は思いだした。
それで、部屋から去りかけた仲居さんに、問いかけた。
「あの、電話ありますか。」
「はい、フロントにあります。」
そう言ってその人は軽く頭を下げて部屋を出て行った。
なんか雰囲気の有る人だなと珠理は思った。
窓の方に 珠理は歩み寄った。
木枠の窓を開けると、右手の方に竹藪が茂っている。上空には白い月が輝いていた。
フロントの受付には、下に電話をして来ようと思った。降りて行くと、もうすでに三十代前後位の女の人が受話器を置いた所だった。
小銭が落ちる音がした。それをその人は掴み取ると俯きかげんに早足でこちらの階段の下で珠理が降りるのを待ってくれた。珠理は、軽く会釈をした。その人も返した。
「あの、あたし、携帯、つかないんで電話しに来たのですけど。あなたもですか?」
思わず珠理は、聞いてみた。
「ええ。」
その人は俯き加減にそう一言だけ小さい声で答えると階段を上って行った。
なんか、覇気の無い人だな、珠理は思いながら受話器を取り自宅の番号を押すと呼び出し音、数回で母が出た。
「あら、どうしたの。公衆電話から。」
自宅は番号を表示する電話なので、わかったのだ。
「そう、あのね、今日、留美ちゃんの家に泊まるから。」
留美ちゃんとは、今は会わなくなった友達だ、珠理は嘘をついた。
「あら留美ちゃんの家に。」
母は、疑ってはいないようだ。
「うん、あしたそのまま仕事行くからね、じゃあね。」
電話を、珠理は切った。母は簡単に騙される、それだけに軽く罪悪感を感じたけれど安堵感で深いため息をついた。
こんなわけもわからない宿に泊まっているなんて言えるわけない。
あの仲居さん、温泉って言っていたけれど、こんな場所にそれが湧き出る事に驚いた。
それにしても知らない人と広間で食事なんて緊張する、階段の所で自分を睨みつけた男の人も一緒なのだろうか。
座布団に頭を乗せて珠理は仰向けに横たわった。
アルバイトをしているファミレスのムエットは明日も出勤日だ。どうしようか、いいや、
あんなの、ムエットなんて考えるのも嫌になるなあ、深いため息をつき立ち上がると木の窓枠の窓を開けた。
ここは高い山の上に建っているのは間違いなかった。遠くまで見下ろせる真っ暗な向こうに明かりが点々と見える。
ため息をつきながら、振り返って部屋を見回した。
なんていうことだ、テレビが無い。携帯がつかないばかりか、テレビもか・・・。
しんとして侘しいなあ、珠理は、大きなため息をついた。
しかたない温泉でも入ろうかと思った。
備え付けの洋服箪笥の扉を開けて裁たんで有る浴衣に着替えた。
部屋を出て左右を見た。仲居さんが、フロントに繋がる階段とは反対側の階段を降りるのだと言っていたなあ、珠理は、誰もいない、古びた廊下をその方向に珠理は歩いた。
踏み出す度にみしみしと音がする。
横幅の有る中年の女の人が濡れた髪を束ねて浴衣を着て入れ違いに出て来た。その人は珠理に向って軽く挨拶をした。
湯気が立ち込める内湯と露天風呂に分かれているらしかった。外から中の露天風呂が見える。木が微かに揺れているのが見える。
お湯は、足を入れた時は熱かったが、体全体が浸かってしまうと体がその温度に慣れた。
何て気持ちが良いのだろう。家のお風呂とは違うなと幸せな気持ちになった。
いやいや、まったりしている場合かと思ったが、もくもくと立ち上がる湯気を見ていると、色々な不安が薄らいでいくのを感じた。
だが、そんな気分もぶち壊す思いが襲って来た。明日、帰ったとしてファミレスのムエットのバイトの時間に間にあうのだろうかという不安だ。明日は朝十時からだけれど、ここから出勤するには、ものすごく早く起きなきゃなならない。
ああ、バイト先の事を思いだしてしまった、とたんに憂鬱な気分になった。あんな所、行きたくないと珠理は思った。
意地悪で嫌味な女、先輩川野と、威張っている店長伊吹、それでも少し前は、ムエットにも希望が有った。珠理が勤める前から居た二歳上の北村君、優しく接してくれた。けれど、突然冷たくなった。能面の様に彼の表情が消えた。けれど、なせ冷たくなったかわからない。
それからの珠理にはこの世のすべてが空虚に感じられた。駅までのにぎやかな通りも、誰もあたしの事なんか気にする人はいないんだと思った。街には沢山の人がいるのにこんなに空しいなんて、ファミレス、ムエットから巨大ターミナル海浜駅前を歩く大勢の人々は、珠理をよけいに寂しくさせた。こんなに人が歩いているのに自分には誰もいない、
気にかけてくれる人はいない、それは、当たり前なんだけれど、こんなに沢山の人がいるのに、私の事は誰も知らないし気にもとめないのだということに空虚感を感じた。
遠い所へ行きたくなった。それで、家には帰らず山間線に乗ったのだ。
何処に行くつもりなのかもわからなかった、ただ、抜け出したかった、あの場所から。
それなのに今はこの場所で温泉なんかに浸かっている事が奇妙な気がした。
浴衣を着て廊下を歩き仲居さんに教わった広間に着いた。
部屋に案内してくれた仲居さんが端の席を案内してくれた。もうお客さんは座っていてもくもくと食べていた。
山菜と小型鍋に、豚肉も入っていてとても美味しかった。後は部屋に戻るだけ。加世は、重くなった体を持ち上げた。
部屋に戻ると、テレビも無いので何もする事ができなかった。
珠理はまた、ため息を吐いた。
と、ドアからトントンと音がした。
「はい。」
綺麗な仲居さんが、引き戸を開けて入って来た。
「花火をやるのですけどやりませんか。」
珠理は少し迷って答えた。
「わたしは、いいです。」
「そんな事言わずにどうぞ。」
進める仲居さんの声にとっさにこの宿の支払いの事を珠理は思い出した。引け目があるし行かなければまずいかなと思ってしまい返事をした。
「じゃあ、行きます。」
「良かったです。じゃあ、一緒に行きましょう。」
そう言って珠理を待っている様なので、慌てて部屋を出た。
外に出ると、数人の人達が集まっていた。
と、ここに連れて来られた女将から手持ちの花火を渡された。子供の頃以来だ、懐かしいと珠理は思った。
「花火か。」
耳元で声が聞こえた。
年の頃は同じ位だろうか。お風呂場で会った女の人とは違う人の様だった。さらさらとした髪は肩より十センチ程長い。
「あなた、名前は?」
突然、彼女は聞いて来た。
「珠理です。」
「あたし加世。」
すると宿の女将さんは、打ち上げ花火に火を着けた。
「さあ、離れて危ないわよ。」
皆いっせいに女将さんの周りから離れた。
花火は、シューと音をたてながら噴水の様に上に上がった。
そしてあっという間に小さくなった。
「あははは。」
なぜか加世が笑った。
何が可笑しいのかわからないけど、つられて珠理と周りの数人が笑った。
「ねえ、珠理ちゃんは仕事何?」
「え、あ、ムエット。」
「えっ?」
「あ、ファミレス。」
「えっ、ムエットってファミレスなんだ。」
軽く頷いた。
「うん、マイナーなの。」
「加世・・ちゃんは?」
「営業の事務。」
「へーなんかカッコいい。」
「そんな事無いよ。上司、いつも怒鳴ってるの。」
「怖いね。」
「うん、あした、どうしよう、会社間に合うかな。連絡しようにもさ、携帯が、つながらないのよ。」
「あたしも。」
加世も同じなのだとわかって珠理は驚いた。
「やっぱり、ここ電波悪いのかな、けど電源自体も入らないんだよね。」
いらいらした口調で言うとため息をついた。と、また違うため息が背後から聞えその後に男の声がした。
「人生なんてこの花火と同じだ。」
驚いて振り向くと珠理より少し背の高い若い男が、自分たちより一メートル程離れた所に花火もせずに立っていた。珠理は、呆然と彼を見た。
「明日は、土曜日、そしてすぐ日曜日。あっという間に出勤日。」
吐き捨てる様に行った。
「そうね、確かに。」
独り言の様に言う彼に加世はそう返したが目が笑っているのを見逃さなかった。
彼は、はっとした様に加世を見て気まずそうに「どうも・・。」と挨拶した。
「大変なんだ。仕事は何?」
加世は、気さくに声をかけた。
「営業。」
男は暗く答えた。
「ふーん、営業か。まあ、君もこれでもやってさ。」
そう言って、加世は、線香花火を彼に差し出した。
「あたし、加世。彼女は、えっと珠理ちゃんだよね。」
「う、うん。」
「え、名前?じゃあ俺、和田瑠。」
「和田瑠君かあ。」
新たに線香花火に火をつけながら加世は言う。
「君、君づけで呼ばれたの子供の頃以来だ。」
ただ、じっとパチパチと四方八方に火の粉が飛ぶ線香花火を見ながら彼は言った。
ふと、空を見ると星が、雲間から覗いている。珠理達の方から三メートル離れた所にも、この宿の人達であろうか、暗くて読めないが少し腰の曲がった女の人や男の人の声が何かの談笑が聞こえて来る。白い月が雲の間からまた見えて来た。
手持ち花火を五本やった。周りの皆もそれ位やっただろうか。子供の頃やったなあ。
何時の間にか夢中になっていた。煙であたりが煙っている。
その時だった。女将が満面の笑顔で言った。
「さて、そろそろ花火は終わりにしましょうか。」
まだ、未練の残る花火に、水の入ったバケツに、まだ、小さく火がついているそれを入れた。ジュと音がして水の中に消えた。
「皆さんお休みなさい。ゆっくりお眠り下さい。」
仲居の文子さんが優しげな声を皆に掛けた。
「じゃあ、明日ね。」
加世が、言った。
皆、ぞろぞろと玄関に向かった。
階段を上ろうとすると、加世がまた、声を掛けて来た。
「あたし、こっちね。じゃあね。」
そっけなくそう言うと、真っ直ぐ廊下を歩いて行った。
加世の部屋は一階なんだ。
そう思いながら珠理も階段を上って行き、すみれと書いた部屋に戻った。その中には、すでに布団が敷いてあった。
それにぺたっと座るとため息をついた。
ムエットには、明日連絡を入れよう。熱が有るとでも言おうか。
窓の外に目をやると暗くてあまり見えないが、うっすらと竹やぶが見える。
風がそよそよと吹いている。
目が冴えて眠くなりそうも無い。
布団の隣の片隅に置かれた歯ブラシセットと、フェイスタオルと一緒に置かれているものを掴むと廊下に出た。
きっと外に洗面所は有るのだろう、なにせ部屋の中には無いのだから。
歩いていたら、欠伸が出て来た。
廊下には木枠の窓がずっと続いていて、内側には、部屋のドアが続いている。夜中なので、窓の風景を見ながら、なるべく音を立てない様に足を忍ばせて歩いたが、それでも室内用の草履は、音がする。
十五メートル程歩くと突き当たったので右に折れると洗面所はそこにあった。
歯を磨いていると、何処からか男の泣き声が聞こえて来た。
「ん?」
と、思って慌てて口を濯いで辺りを見回しながら耳を澄ますともう聞えない。
気のせいかと思いまた歩きだしたら、また、聞こえて来た。今度は先程より声が大きかった。
長い廊下が続いていて部屋が左に続いている。
その部屋のどこからか聞こえて来る。
一番近い部屋のドアに聞き耳を立ててみる。ドアの横には、ユリと書いてある。
泣き声が大きく聞こえる。この部屋からだ。珠理は、ほっとく事が出来ず、ドアをノックした。
「大丈夫ですか。」
返事は無い。
もう一度ノックをすると、いきなり引き戸が開いた。
若い男の人だ。
そして、泣きはらしたのか目が真っ赤だ。
その時、珠理は気づいた。この男子は、階段から睨んでいた奴だという事に。
それなら、係わり合いを持ちたく無いと思った珠理は、退散しようと思ったが奴は珠理を呼び止めた。
「ここは、竜宮城?」
「は?」
やばい、珠理は思った。完全にいっちゃっている。
「ふ、そうかも。じゃあ、もう寝るので。」
そう言ってきびすを返すと最初は早足でそれから走って自分の部屋に戻った。
部屋の鍵を掛けると、はーと息を吐いた。
「もう何よ。なんであの人泣いてたのよ。」
目が真っ赤だったな、
あたしだって、泣きたいよ。明日、ムエットに連絡しなきゃ。
携帯を鞄の中から出したが、やはりうんともすんともいわない。
テレビも無いので、寝るしかなかった。
もう、退屈だ。
シーンして、こりゃあ、江戸の世だと珠理は思った。
つづく
読んでいただいてありがとうございました