うちゅうひこう
「ええ、と……それじゃ、あたしたち、行くね」
「ん、しょーがないよ、気にしないで。おみやげ、期待してるからねー?」
そうやっておどけて、笑顔で見送りはしたけども。
「──あーあ。今回も、留守番かぁ」
「またこういうことになっちゃったね」
私と彼と、ふたり。また今回もか、という感想が出てくる程度には、ふたりとも、こういう状況に慣れている。
ホテルのロビーで、自販機に千円札を飲み込ませた私。その隣、せめて気分だけでもと言った彼は、たしかシークヮーサーのジュースを選んでいたっけ。私は、少し迷って、結局いつもの缶コーヒーにした。がたん、と落ちてきた缶を取り出し、プルタブを引く。ぷしゅ、と気の抜ける音。
雨が、窓を叩く。朝方はガラス一面に叩きつけるかのようだったその音は、いまはぱたぱたと穏やかなものに変わりつつあった。
沖縄で過ごす修学旅行、二日め。本日は自由行動の日──と、旅のしおりではそのようになっている。だが、私たち二名はホテルで待機。なんだってこんなことになっているのか、というと。
彼は、初日の夜に過呼吸の発作を起こしたため。私は、行きの飛行機ときょうの明け方とで二回、ひどい頭痛に襲われたため。この激しい雨の中に送り出すことはできないと、沈痛な面持ちの先生方から言われてしまった。──またこうなっちゃったか。というのは、きっと一同の総意だと思う。そのくらいに、「いつものこと」なのだ。
そんなわけで私たちは今回も、ぐだぐだとふたりで駄弁っている。ホテルのロビーの一角、ふかふかのソファーに陣取って、徐々に弱まっていく雨模様を眺めながら。
「今朝も頭痛来たんだって? 大変だったって聞いたけど」
質問と一緒に、もはや恒例となった飴玉を差し出された。私はそれを受け取って、天井のシャンデリアに透かす。カフェオレ味のこのキャンディ、縞模様とか、ところどころの小さな渦巻きが、木星みたいなんだよね。そんなことを思いながら、ぽい、と口に放り込んだ。
「来たよ、頭痛。それも最近じゃ滅多にないようなレベルの、きっついの。ひさびさに、まったく身動き取れなくなった。やっぱり、気圧の変化がよくないのか……」
へたな薬よりよほどよく効く、これが、私の特効薬。わずかに残っていた鈍い痛みが、遠のいていくようだ。はー、とゆっくり長く息を吐いて、ちらりと彼に目をやって。
「で、そっちは? 慣れない環境がストレスになったのかな」
「たぶん、そうだと思う。いまはもう平気」
「なら、よかった」
ふっと会話が途切れた。顔を見合わせ、揃って口元を綻ばせる。いつものことだ。──ここまでは。
「……まあ、うん。おとなしくしてなさい、っていうのも、至極当然かつまっとうな意見ではあるんだけども」
うん?
からころ、飴玉を口の中で転がしつつ、彼の言葉に少し首を傾ける。と、彼はにっと笑みを浮かべた。悪戯を思いついた子供みたいに。
「せっかくの修学旅行、せっかくの沖縄。で、せっかくの自由行動の日。なのに、ホテルの中だけで過ごす、っていうのも、なんだよね」
ことん、と彼はジュースの紙パックをローテーブルに置く。その軽い音から察するに、中身はもう空のようだ。
「というわけなので。──ちょっと、抜け出してみない?」
「……え。怒られる、よ?」
「気づかれなければ平気じゃないかなぁ」
ぱちり、私はひとつ瞬いて。
「まさか、あなたがそんなこと言う日が来ようとは……!」
わざとらしくわなわな震える私に、彼もまたわざとらしくむくれた。それがおかしくて、けらけら笑い声を上げる。しばらくして双方落ち着いたところで、私は缶コーヒーを軽くたぷんと揺らした。ふむ、あと数口ぶんかな。残りを、一気に飲み干す。
「──いいよ、乗った。……いざってときは、一緒に怒られてあげる」
飴玉は、とうに溶けてなくなっていた。
雨具はきっちり整えて、あとは必要なものだけを小さな鞄に詰め込んで。私たちはふたり、雨中へと飛び出していく。
「どうしよ、ほんとに抜け出してきちゃったね!」
「やっぱり怒られるかなぁ」
「いまさらもう遅いじゃん!」
「それもそっか。うん、もう考えないことにする!」
雨風の音に負けないように、傘越しでも届くように。自然と声が大きくなる。
「で、どうする? なんか考えあるの?」
「どうしようか、考えてなかった。迷子になっても大変だよね」
「ちょっと!?」
「ごめん」
右も左もわからない、知らない街にぽつんとふたり。
短い議論の結果、とりあえず、標識にしたがって大きな通りを目指すことに。
「ふたりっきりの修学旅行だねー」
「ざーざー降りの雨の中、ではあるけどね」
「雨の中の旅行……あ、ああ! あはは、私たちだけ『うちゅうりょこう』だ! すごい、贅沢!」
「うちゅうりょこう? ……あ、『雨中旅行』で、『宇宙旅行』か。めざせ月面」
「月か、いいね! でも私は火星がいいかなー」
「どっちも行けばいいんじゃないかな、ふたりしかいないんだから」
「そっか、そだね。思いっきり欲張ろ、せっかくの旅なんだし!」
風に導かれるように、どちらからともなく走り出す。人のまばらな通りを、ふたりで駆け抜けていく。
クラスメイトと鉢合わせになったらどうするのか、なんて、もう頭になかった。強まり始めた雨と風とが、なにもかも洗い流して吹き飛ばすかのようだった。
──そうやって、どのくらい走っただろう。ふたりして息を切らせて、疲れきって、でもそれさえも笑えてくる。
呼吸と鼓動とをちょっと落ち着かせてから、道を折り返す。適当にお店の軒先を冷やかしつつ、まっすぐ伸びる大通りをゆっくりのんびり辿っていく。
紅型染と琉球ガラスに見とれ、その値札に目を丸くして、お店の人に笑われたり。途中のお店で、ちゅら玉のキーホルダーと星の砂を揃いで買ってみたり。
「こちら、月面から採取したサンプルです、なんて」
「まあ実際は海洋性堆積物、ようするに──」
「言わなくていい!」
「ごめんって」
また懲りずにひとしきり、呼吸が苦しくなるまでからから笑って。はあ、と息をつき、そっと小瓶とキーホルダーを鞄のポケットにしまって、顔を上げる。
目に入るのは、街の景色。電柱が鈍色の空へ伸びていて、車は水しぶきを上げながら走っていく。色とりどりの傘をさした人たちが行き交う。
その景色に、ふと、思う。
「……なーんか、さー」
「うん?」
「普通の街、だよね。意外と」
「だね。考えてみれば当然なんだけど」
そう、当然の話。ここは、私たちにとっては観光地で、非日常そのもの。けれど、ここに住む人たちにとっては、いつもの街の、いつもの風景なのだ。
それはもしかしたら、観光地だとはしゃぐ私たちの姿さえも含めて、なのかもしれない。そう、ぼーっと考えを巡らせたところで、あれ。なにか引っかかって、首をひねる。
「……前にもこんな話、しなかった、っけ?」
「ああ、そっか、もう一年か」
「一年? ──あ、去年の勉強合宿」
「そう。もう一年も前の話か」
「まだ一年だよ? それに、来年も一緒じゃん、クラスは持ち上がりなんだから」
彼は優しく微笑んで、──けれど。
ざあっ、とひときわ強く風が吹いた。なにか呟いた彼の声が、聞き取れない。いま、なんて言ったの。そう尋ねようとして、しかしそれは唐突に妨げられる。
ポケットに突っ込んであるスマートフォンが震えた。あ、と声を上げたのは、私が先か、彼が先か。
これってつまり。ようするに?
鋭い視線を感じて道の先に目をやれば、真っ赤な傘の下、満面の笑顔の担任が、かつかつと近づいてきていて。
あーあ。
私たちの修学旅行、二日めの日程は、これにて終了。
──ふたりのうちゅうひこうしは、こえをひそめてわらいあう。
小瓶のなかみは、月面の砂。
キーホルダーは、火星の氷。
次はどこまでいけるかな。
どこまでだって、いけるはず。
ふたりでならば、どこまでも。
奥附
2015年12月13日 第一稿完成
2015年12月17日 本ページを公開