支配:フィオレンティーナ×ジャニス
ジャニス・ファリスに初めて逢ったのは、わたくしが七つ、彼女が十の時のことだった。
父親のファリス卿に促されてわたくしの前に立ったジャニスは、よく通る声で高らかに名乗り、美しい所作で一礼をした。
凛々しい彼女に少しばかり見惚れ、父王から「彼女もいずれ騎士になる」と教えられて、早くそうなればいいのにと思った。すでに騎士見習いとして王宮で見かけることがあった彼女の兄よりも、ジャニスの方が、わたくしの胸を落ち着かなくさせたのだ。
型通りの謁見が終わり、やがてくだけた雰囲気で皆が和気藹々と話し出す。その輪の中心にいるのは、ファリス卿とジャニスの兄だ。
わたくしもジャニスとお話ししようと彼女の姿を探したけれど、ファリス卿の隣にはいない。グルリと見渡して見つけたのは、こそこそと逃げ出すように部屋を出ようとしている背中だった。
彼女はわたくしとお話したくないのかしら。
そんな面白くない気分で、ジャニスを追って庭へ出る。
ジャニスはどんどん先に行ってしまって、わたくしもドレスの裾を持ち上げ懸命に足を動かしたのに、ようやく彼女に追いついたのは、中庭の中央に設えられた噴水の前だった。
うつむいているジャニスに声を掛けようとしたところで小さな呟き声が耳に届き、足を止める。
「どうしてなのかな」
その声は、謁見の時の堂々とした彼女とは打って変わってか細く頼りないもので。
「何が?」
気付けばそう問いかけていた。
パッと振り返ったジャニスはわたくしを見るなり飛び上がり、目を丸くする。直立不動の彼女に、もう一度、同じ問いを投げる。
「何が『どうして』なの?」
それにも答えてくれずにオロオロしているジャニスに歯痒く思いながら、歩み寄った。と、彼女の顔が良く見える距離まで近づいたところで、眉根を寄せる。
「あなた……泣いているの?」
濃い焦げ茶の瞳は、微かだけれども、確かに潤んでいる。それを見た瞬間、わたくしの胸にキュッと締め付けられるような痛みが走った。あんなに凛々しかったジャニスが見せる頼りない表情に、困惑とは違う、ザワザワと落ち着かない何かを覚える。
「誰かに意地悪されたの?」
もしもそうなら、その者を罰してやらないと。
そう心に決めたわたくしの前で、けれど、ジャニスは大きくかぶりを振った。
「じゃあ、何が悲しいの?」
問いを重ねたわたくしに、ジャニスは困ったような顔をしている。それでも辛抱強く返事を待っていると、ようやく彼女は口を開いた。
躊躇いがちにジャニスがわたくしに曝け出してくれたのは、劣等感というもので。
彼女の言葉の端々、表情の一つ一つから、今まで他の者にそれを見せたことがないということが、伝わってきた。
――誰も知らないジャニスを、わたくしだけが知っている。
その事実に、わたくしの胸は不思議なほどに高鳴った。
そして、そんな彼女を独り占めしたかったから、わたくしの――わたくしだけの騎士になるように、命じたのだ。
あれから、十年。
あの日中庭でわたくしに涙を見せたジャニス・ファリスは、もういない。
ひたむきな眼差しをわたくしに注ぎながら、日々鍛錬に鍛錬を重ね、いつの間にか、彼女はわたくしを守るに充分な力を手に入れてしまった。
初めて逢った時の虚勢に過ぎなかった凛とした佇まいは、今ではちょっとやそっとでは揺らがない、真にジャニス・ファリスのものとなっていた。
それは全てわたくしの為だと解かっていても、時々、少し寂しいような詰まらないような気がして、無性に彼女を困らせてみたくなってしまう。
だから、つい先ほど、父王に呼び出されて告げられたことを、打ち明ける。
「わたくしにね、お隣の国との縁談が持ち上がっているそうよ」
お茶を口元に運びながらサラリと告げると、ジャニスが手にしたカップがカチリと鳴った。横目で窺った彼女は澄ました顔をしているけれど、こげ茶の瞳には微かな動揺が見て取れる。
自ずと、頬が緩んだ。
――きっと彼女は「おめでとう」と言うわ。
そんなわたくしの予想通りに、ジャニスはその一言を口にする。微かに、目を伏せて。
口元に浮かんでしまいそうになる笑みを噛み殺しながら、わたくしはもう少しだけ彼女を困らせてみる。
「でも、あなたと離れるのは寂しいわ」
そう囁いてみせると、サッとジャニスの手が伸びてきた。
ジャニスがわたくしに触れることは滅多にない。足元が悪い時に支える為とか、そのくらいだ。
けれど今は、ただ座ってお茶をしているだけのわたくしの手に、彼女の手が重ねられていた。
手のひらを返して指を絡めたら、ジャニスはどうするのかしら。
そんな考えが頭をよぎり、すぐに面には出さない苦笑でそれを打ち消す。
わたくしがピクリとでも指を動かした瞬間、彼女は手を引いてしまうに違いない。
それが判りきっているから、ジャニスの手の温もりを感じながら、それを愛おしく思いながら、その想いは胸の奥底に押し込める。
けれど、さりげなさを装ったかわたくしから、彼女は何かを感じ取ったのかもしれない。
「ご安心ください。私もご一緒しますから」
わたくしの目を真っ直ぐに見つめ、ジャニスが言った。
「本当?」
「はい」
深く頷くジャニスに、少しばかりズレた気遣いを微笑ましく思いながらわたくしは笑みを返す。
その笑みは確かに心の底から浮かべたものだったけれども、ほんのわずかに揺蕩う罪悪感めいたものを消しきれずにいた。
わたくしは、忠誠という名の鎖でジャニスを縛り付けている。彼女がわたくしの傍に在るのは、それ故だ。わたくしの方からこの手を放さなければ、きっと、彼女はいつまででもわたくしの傍にいてくれるのだろう。
裏を返せば、わたくしが手を放さなければ、ジャニスはわたくしから離れられないということ。
それは、良く解かっている。
けれど。
――けれど、わたくしは、あなたを手放せない。
わたくしはジャニスを独り占めできるのに、わたくしがいる限り、彼女は望む相手を手に入れることができないのだ。
――わたくしは、ズルい。
いつか、必ず、わたくしは夫を迎える。
それは王族として避けることができない『義務』だ。
その時が訪れても、わたくしの中の彼女の住処は決して変わらない。変えられない。
――わたくしは、わがままだわ。
ジャニスの幸せよりも、自分自身の幸せを優先させてしまう。
自分の中で彼女が一番大きな存在だとしても、彼女にとって自分が一番大きな存在だということには、ならないのに。
ジャニスは、ジャニスにとって大事な人を、見つけるべきなのに。
――わたくしは、それを許せない。
なんて狭量な主なのだろう。
胸の内で苦笑すると、まるでそれを感じ取ったかのように手の上から温もりが遠ざかった。
「失礼しました」
他人行儀なその一言が、ツキリと胸に刺さる。
――ごめんね、ジャニス。あなたを手放してあげられなくて。
冷めていく手の甲の温かさを惜しみながら、わたくしは声に出さずにそう囁いた。
何か思いついたらまた書くかもしれません。
完全に、予定は未定、ですが。