忠誠:ジャニス×フィオレンティーナ
私が初めてあの方とお逢いしたのは、十歳の誕生日を迎えてから幾日も経っていないある秋の日のことだった。
我が家は代々王家につかえる騎士の家系で、娘である私の前に伸びている道の先にもそれが待っていた。けれど、文武共に秀で、弱い十四ですでに将来を嘱望されている兄に比べて、私は全く知恵も力も足りず、己の至らなさ加減に落ち込むばかりの日々だった。そんなふうだったから、私は物心ついた頃から劣等感に苛まれ、父の前に立つのも、兄の隣に立つのも、苦痛でならなかったのだ。
あの日も、十歳の節目で王族の方々にご挨拶に伺ったのだけれども、主役であるはずの私そっちのけで惜しみなく兄に浴びせられる称賛の声に居た堪れなくなって、こっそりと父と兄の傍を離れて中庭へと逃げ込んだのだ。
噴水のある池の縁に腰を下ろし、揺れる水面に映る歪んだ自分の顔に向けてため息をこぼす。
「どうしてなのかな」
その一言は、誰も聞く者などいないと思って吐き出したものだ。
だが。
「何が?」
澄んだ声が凛と響いて、私は思わず飛び上がった。
「ッ!?」
振り向いた私の視界に、白い姿が入り込む。
白――レースがふんだんにあしらわれた純白のドレスに銀に近い淡い金髪。転げ落ちそうなほど大きな瞳は晴れ渡る空よりも明るい青色だ。
小柄で華奢な肢体は年端もいかない少女のものだ。けれど、真っ直ぐに伸びた背筋から溢れる気品は、彼女を『子ども』だとは思わせない。
「あなたは――」
私は咄嗟に立ち上がり、シャンと背筋をただした。
この少女は、今までも遠くから何度もお姿を拝見し、今日初めて、間近でお会いし、お声をかけていただいた――王女フィオレンティーナさまその方だ。
「何が『どうして』なの?」
言葉を失っていた私の頭が正気を取り戻す前に、フィオレンティーナさまが再び問いかけてこられた。
とにかく、何か答えなければ。
「あ、あの――えっと……」
しどろもどろに口ごもる私に、フィオレンティーナさまは妖精を思わせる軽やかな足取りで歩み寄ってくる。そうして、頭一つ分ほど低いところから、小首をかしげて私を見つめてこられた。その様は胸が苦しくなるほど可愛らしくて、妙にどぎまぎしてしまう。
「あなた、ファリス家のジャニスでしょう?」
サラリとそう言われ、私は思わず目をしばたたかせた。兄の影のような、いや、影ほどの存在感すらない私のことを認識してくれる人はあまりいない。
「え、あ、私のことをご存じなのですか?」
そんな間抜けな言葉を返すと、フィオレンティーナさまはムッと頬を膨らませた。
「もちろんよ。さっき会ったばかりだもの」
フィオレンティーナさまは少し怒ったようにおっしゃったけれど、何かに気付いたようにふと眉をひそめる。
「あなた……泣いてるの?」
「え? あ、これは」
「誰かに意地悪をされたの?」
「いえ、そんなことは――」
意地悪するほどの意識すら、私は人から向けられたためしがない。
「じゃあ、何が悲しいの?」
滑らかな眉間に微かなしわが寄ったけれども、そんなふうにしても、フィオレンティーナさまの可憐な愛らしさが損なわれることはなかった。
多分、この方は、私がお答えするまで諦めやしないだろう。
たとえそれが、締まらない愚痴のような代物だとしても。
観念して、私は重い口を開く。
「……私は、不出来な娘なのです。それが、情けなくて」
「不出来?」
「はい。兄はとても優秀な騎士なのです。それに比べて私は……」
言いながら情けなくなってうつむいた私に、心底訝しげな声が投げかけられる。
「どうして人と比べるの?」
「え?」
跳ねるように顔を上げた瞬間、まじまじ私を見つめているフィオレンティーナさまと、バチリと目が合ってしまった。
フィオレンティーナさまは薔薇の花びらのような唇を軽く尖らせる。
「あなたはあなたでしょう。どうして他の人と比べる必要があるの?」
「だって、それは……兄は姿も良いし、賢いし、何でもできて……」
「あなただって可愛らしいわ。知識が足りないのならばこれから覚えればいいし、できないことがあるなら鍛錬を積めばいい」
あまりに事も無げにそう言われ、私は呆気に取られてしまった。
きっと、間抜けな顔をしていたに違いない。
そんな私に向かって、フィオレンティーナさまはふわりと微笑んだ。可憐な花が咲いたようなその笑みにぼうっとなった私の耳に、とんでもないお言葉が飛び込んでくる。
「あなた、わたくしに仕えなさい」
「えっ!?」
「あなたも騎士になるのでしょう? だったら、わたくしの騎士になりなさい」
「でも、私などが……」
反射的にそう口走った瞬間、すっと伸びてきた細い人差し指が、私の唇を抑える。
「その言い方、きらいだわ」
「?」
「私『など』って。自分のことは、一番、自分自身が信じてあげなければいけないのよ」
フィオレンティーナさまは、胸を張ってそうおっしゃった。そうして、満面に輝かんばかりの笑みを咲かせられる。
「でも、あなたはそうできないみたいだから、当分の間は、あなたに代わってわたくしがあなたのことを信じてあげる。あなたはきっと立派な騎士になるわ。だから、わたくしの騎士におなりなさい」
自身に満ち溢れた声での宣言に、その時、私は頷くことすらできなかった。
それから話はトントン拍子で進んでいき、私は七日後にはフィオレンティーナさまのお傍にひざまずいていたのだ。
あれから、十年の月日が流れ。
フィオレンティーナさまは十七歳となった。
「ジャニス」
と、私を呼ばれるときに浮かぶ可憐な笑みは、幼い頃からずっと変わらない。
この方が与えてくれた信頼に、私は応えることができているのだろうか。
それは、判らない。
だが、懸命に努力はした。
始めの数年間は、私を信じてくださったフィオレンティーナさまに報いるために、だったけれども、いつしか、ただただあの方をお守りする力を手に入れたくて、そうするようになっていた。
今、王宮内の騎士の中で私を打ち負かすことができる者は五人といない。
しかし、まだ足りない――そう思う。
何人からもフィオレンティーナさまをお守りするためには、まだまだ、力を手に入れなければならないのだ。
そう、決意を新たにする日々の中。
「わたくしにね、お隣の国との縁談が持ち上がっているそうよ」
お茶の席で、お庭の薔薇がきれいに咲いたわね、というときと同じ口調で、フィオレンティーナさまはそうおっしゃった。
カチャンとカップの音を立ててしまった私をチラリとご覧になって、フィオレンティーナさまは小さく吐息をこぼされた。
「正式に決まるまでは、あと一年か二年はかかるのでしょうけど」
カップを手にしたままでは砕いてしまいそうな気がして、私はそれをそっとソーサーに戻す。
「おめでたいことです」
胸の内とは裏腹に言葉少なにそう答えた私に、フィオレンティーナさまは軽く首をかしげて微笑まれた。
「あなたは祝福してくださる?」
――もちろん、そんなことはできやしない。
けれど、その台詞は呑み込んで、私は頷く。
「もちろんです」
「ありがとう、ジャニス」
フィオレンティーナさまは嬉しそうに顔を綻ばせながらそうおっしゃった。そうして、微かに眉根を寄せる。
「でも、あなたと離れるのは、寂しいわ」
ほんのりと顔を曇らせたフィオレンティーナさまに、私はこらえきれずに手を伸ばす。卓の上に置かれた繊手に剣だこのできた私の手をそっとのせ、告げる。
「ご安心ください。私もご一緒しますから」
「本当?」
「はい」
今度は嘘偽りなく頷くと、フィオレンティーナさまはパッとお顔を輝かせた。
「うれしいわ」
お声を弾ませるフィオレンティーナさまに、ついつい、私の頬も緩む。
フィオレンティーナさまには、この花のような笑顔だけを浮かべていて欲しい。
たとえ伴侶を迎えられたとしても、それをお守りするのは、私の役目だ。それは、誰にも譲れない。
この身この心の全ては、フィオレンティーナさまの為に在るのだ。
これから先、フィオレンティーナさまのお命がある限り、ずっと。
「ジャニス?」
名を呼ばれ、私はフィオレンティーナさまの手に重ねたままだった手に力が入ってしまっていたことに気が付く。危うく、もろい卵のようなこの方の手を握り潰してしまうところだった。
「失礼しました」
謝罪を呟き、そっと引いたその手を膝の上で握り込んだ。
――手のひらに残る温もりを、逃さぬように。