日向:ハルナ×アキ
扉を、そっと押し開ける。
上に鈴が付いているのは知っているから、もしも彼女がいなかったら素知らぬふりをして帰れるように、それを鳴らさないように、そっと。
でも、わたしは失敗して、チリンと小さな音が鳴る。
店内にはBGMがないから、決して大きくないその音でも、中にいる人たちに来客を知らせてしまった。
視線が来るかも。
そう思うだけで、身が竦む。
けれど。
「ハルナ!」
明るい声がわたしの名前を呼んだとたん、スゥッと呪縛が解けた。ぎこちなかった足の動きもスムーズになって、いそいそと、アキのもとへ向かう。
「ごめんね、アキ。待たせちゃった?」
「いやぁ、あたしもさっき来たとこなんだ。十五分くらい前かな」
これは多分、本当のこと。
アキは変に気を遣ってごまかしたりはしないから。待ったなら待ったと言うし、怒ったなら怒ったと言う。いつでも、裏表がない人。
わたしがアキの隣、カウンターの一番奥の席に座ると、店主さんがウーロン茶を出してくれた。アキはその日によって注文を変えるけれど、わたしはいつも同じ。
走ってきたから喉が渇いていて、さっそく半分くらい飲んでしまった。
「お疲れ」
グラスを置いてホゥと息をついたわたしにそう言うと、アキは指先でわたしの頬の辺りに触れた。
ぎくりと固まってしまったわたしに、アキはニコッと笑う。途端、硬直は解けて、代わりに心臓がトクンと鳴った。
「髪食ってたよ」
「ありがと」
うつむいて、ぼそぼそとお礼を言った。多分、顔が赤い。
何度見ても、アキが笑うとわたしの胸の中はパッと明るくなるような心持ちになる。
わたしは、アキの、翳りのない笑顔が好き。翳りがなくて、屈託がなくて、明るくて、本当に、「笑ってる」っていう、笑顔。
アキを見ていると、確かに幸せはあるのだと思える。
この世界は平凡で、平和で、決して悪いものではない、薄汚いばかりのものではないのだと、信じさせてくれる。
その笑顔で、アキはとても大事で当たり前のそんな事実を、わたしに教えてくれた。
そっと横を見ると目が合った瞬間笑い返されて、わたしも思わず頬が緩んでしまう。
アキとは高校の時に初めて逢って――すぐに離れてしまった。また出逢えたのは、今から半年くらい前のこと。
わたしの職場に来たアキを一目見て、すぐに彼女だと判った。あんまり嬉しくて思わず笑ってしまったから、きっと、アキは変な女だと思ったに違いない。
でも、周りのことなんて、今がどういう状況かなんて頭の中から飛んでいってしまうほど、嬉しかった。アキとは、もう二度と逢えないだろうと思っていたから。
――逢えるわけがないと、思っていたから。
初めてアキと言葉を交わしたのは、高校二年生の時。
その時、アキはわたしを救ってくれた。
高校の校舎の屋上で、昼休みが終わって、誰もいなくなったら柵を超えて飛び下りようとしていたわたしに、声をかけてくれた。予鈴が鳴って、誰もがわたしのことなんて視界の片隅にも引っかけずに校舎の中に戻っていっていたのに、アキだけが、目を留めてくれた。
そうして、「遅れるよ」という、とても平凡極まりない一言で、わたしをこの世界に留めてくれた。
アキはきっと気付いていないけれど、そう、あの時、わたしは、死ぬつもりだった。
母が亡くなってから夜ごと訪れるようになった義父の手から逃れるために、そうするしかないと思っていたから。
昼の光の下では『非の打ちどころのない父親』――それが、夜中を過ぎれば醜悪極まりない怪物に変わってわたしを貪った。
ヒトの声が嫌で、ヒトの目が嫌で、ヒトの温度が嫌で。
どんなに明るく、親切そうで親し気にしても、中身は全く違う化け物なのではないか――誰を見ても、そんなふうに思えてしまった。
毎日毎日、小さな物音、小さな気配にもビクついて、心の底から疲れてしまった。
だから、もう終わりにしようと思った。
迷って、ためらって、留まって、でもついにそう決めた時。
アキと出逢って、わたしの中で何かが変わった。
アキと言葉を交わし、屈託のない笑顔を向けられるうち、わたしが今いる場所の方が異常なのだと――もっと正しく明るい、幸せに満ちた場所があるのだということを、気付かされた。
そうして、アキが属しているその世界で、生きていきたいと思った。
その為に、逃げるのではなく、ちゃんと、戦おうと思えるようになった。
わたしは児童相談所へ行き、全てを話し、義父の他に扶養者となる人はいなかったから、その日のうちに遠く離れた場所の施設に保護された。しばらくして、義父は逮捕されたのだと聞かされて。
きっかけは、アキの「遅れるよ」の一言。
その何の変哲もない一言でわたしはこの世界に留まって、アキの笑顔で、この世界で生きていこうと決意した。
アキは、わたしを救ってくれた人。誰よりも、大事な――そして愛おしい人。
遠く離れていても彼女の笑顔はいつでもわたしの心にあって、たとえ遠く離れていても、彼女は同じ空の下にいるのだからと頑張れた。
「ハルナ?」
トンと肩を叩くように名前を呼ばれて、わたしは過去から戻される。
目が合うと、アキはいつものようにパッと笑った――ひまわりの花のように、明るく、大きく。
「眠い?」
彼女が訊いてきたのはそれで、わたしは思わずキョトンとしてしまう。そして、くすりと笑った。
「眠くないよ……お腹はすいたけど」
「そ? じゃ、早く頼もうよ」
そう言った次の瞬間には、アキは店主さんに今日のお勧めはとかなんとか尋ねてる。
「――なら、それでいいかな。ハルナも、同じでいい?」
訊かれて、わたしは何一つ聞いていなかったけれど、頷いた。
「いいよ、それで」
わたしの返事に、アキはまた笑う。
「楽しみだよねぇ。どんなだろ」
うきうきとした彼女に微笑み返しながら、思う。
いつか、アキに全てを話せる時が来るかもしれない。
いつか、そうしたいと思う。
わたしがあの時どれだけアキに救われたか。
わたしにとって、アキがどれだけ大事な存在なのか。
いつか、伝えたいと思う。
でも、今はまだ、できない。
汚泥に塗れたわたしを、アキが嫌悪するとは思っていない。アキが蔑むとしたら、義父と義父が為したことであって、わたしにその矛先が向くことは、絶対に、ない。
それは判ってる。
でも、わたしがわたしの過去を話すことで、きっとアキの笑顔は曇ってしまうから。
今のわたしには、それが耐えられない。今のわたしには、わたしを照らしてくれる瑕疵のない彼女の笑顔が必要だから。
――いつの日か、わたしもアキと同じように屈託なく笑える日が来たら。
その時は、全てを打ち明けよう。
そして、一緒に泣いてもらおう。今まで流すことができなかった涙の分まで、きれいに洗い流そう。
抱き締めあって、お互いの温もりを感じ合いながら。
今度は、その心地良さを、教えて欲しい。
「へい、お待ち!」
軽快な声と共に、わたしとアキの間に店主さん自信の創作料理がトンと置かれる。
「うぅわ、美味しそ!」
この世の幸せとばかりに目を輝かせて、アキがお箸を取った。
「さ、食べよ」
そう言ったときにはもう、彼女のお箸の先は魚の身を突いていて。
アキらしいなぁ、と思わず笑みをこぼしてしまった。