半影:アキ×ハルナ
「あれ、ハルナ、まだ来てないんだ?」
ちょっと仕事が延びてしまって駆け込むようにいつもの居酒屋のドアを開けたのに、客の中に探す相手はいなくて少し拍子抜けする。
「らっしゃい。そういや、まだだね」
答えた大将も、今気が付いた、とばかりに店の中を見渡した。
「ハルナちゃん、おとなしいからねぇ。アキちゃんいないと、いても気付かないんだよね」
「それって、あたしがうるさいってこと?」
「そうとも言うかなぁ」
明るく笑う大将は、付き合いが長いだけに遠慮がない。
この店には、ほとんど毎晩のように訪れる。カウンターに十席ほどで、場所もものすごく判りにくいところにあるから来るのは常連くらい。メニューが豊富で飽きないし、何より、彼女との待ち合わせに丁度いいからだ。
彼女――ハルナ。
ハルナは高校が同じだった。でも、知り合ってすぐに引っ越してしまって、それっきり。完全に音信不通になった彼女と、偶々、本当に偶々、仕事先で再会した。
高校生の時のハルナはとてつもない美少女だった。
二十歳をいくつか超えた今でも、やっぱり、美少女だ。少女という年齢ではないかもしれないけれど、美女というより、美少女。
それなのに、大将が言ったようにとても自己主張が少なくて、いるのかいないのか判らないくらい物静かだ。一緒にいても、しゃべるのは専らあたし。彼女は静かに微笑んで、どんな話にも頷いてくれる。
「で、どうする? ハルナちゃん、待つ?」
正直、来るかどうかは判らない。
別に、約束しているわけじゃないから。
彼女はメールも電話も嫌いで、携帯はどうしても必要な仕事絡みでしか使わないのだ。何度か誘いをかけてみたけれど、そこは頑として譲らない。
あたしはチラリと時計に目を走らせて。
「んー、もうちょっとだけ待ってみる。冷酒だけちょうだい」
「食べずに飲むの? ま、アキちゃんなら大丈夫か」
また、大将がハハと笑う。そんな彼に、どうせあたしはうわばみだし、とか答えながら。
席に座って見るともなしにテレビに目を遣ると、嫌なニュースをやっていた。
アナウンサーが淡々と語っているのは、中学生の、自殺。
ただ、中学二年生の女の子が、学校の屋上から飛び下りましたっていう、ただ、それだけ。理由も何もなし。
すぐに別の話題に切り替わったけれども、それはあたしの頭の中に居座った。
「ああいうの見るとさぁ、自分があのくらいの時って、ちゃんとやれてたかなって思っちゃう」
冷酒を差し出してくれた大将にぼそりと言うと、彼はキョトンと目を丸くした。
「え?」
「子どもの頃ってさぁ、色々見逃してたんじゃないのかなぁってさ」
「そりゃ、そうでしょ。コドモなんて、自分のことで精一杯だし。いや、それはオトナも同じか。見落としてることなんて、ゴロゴロあるよ、きっと」
「そういうの、気にならない?」
「気にはなるけど、仕方ないよ。僕ら、神様じゃないんだし」
「ふぅん」
確かにそうかもしれないけどやっぱり納得はいかない。
ふと思い出すのは、ハルナとの出会いだ。
高校二年生の、学校の屋上。
あの時あたしは、屋上で、予鈴が鳴ってもぼうっとしていたハルナに声をかけた。
彼女はまるで夢から醒めたようにいくつか瞬きをして、ふんわりと笑った。それがあんまり綺麗だったから、いつまでも、頭の中から褪せなかった――今でも、鮮明に残ってる。
それから毎日昼休みに同じ場所で会うようになって、一週間で彼女はふいといなくなった。
いなくなるなんて、一言もなくて。
本当に突然、いなくなったのだ。
あたしは、怒り半分、悲しみ半分、だった。忘れようと思ったけれど、どうしても、頭の片隅から、彼女が消えなかった。
働き始めて三年目。
取引先に出向いたあたしを見た途端、ふわっと微笑んだ女の子がいて。
ハルナ、だった。
相変わらずの美少女で。
あの子があんまり嬉しそうに笑うから、突然いなくなったことなんて、あたしの中からも消え失せてしまった。
それからほとんど毎晩、この店で会うようになって。
――未だに、どうしてあの時突然いなくなったのか、訊いていない。
どうしてだろう……たぶん、あの頃には気付かなかったことに、気付いてしまったからだと思う。
ハルナには、何か傷がある。身体にではなく、心に。
あの子は、前触れなく触れるとビクッとする。それは、あたしに対してでさえ、そう。
いつだってニコニコしているのに、いつだって、何かに怯えている。
携帯を極端に嫌がるのも、きっと、同じ理由。
昔は気付かなかった。
もしかしたら、離れてしまった後に、ついた傷かもしれない。
でも、もしかしたら、もうすでにあの頃についていたものなのかもしれない。
だから、ハルナはあの時いなくなったのかもしれない。
あたしが、助けてあげられなかったから。
「――こういうのを見るとさ、身近な人に何かあったとしてもあたしも気付いていなかったりするのかなぁ、とか」
「難しいこと考えるねぇ」
トンと大将がおつまみを置いてくれた時、扉が開かれその上に付けられた鈴がチリンと鳴った。