白:ミサ×リナ
タタタタっと、軽い足音が階段を登ってくる。
ベッドに寄りかかって本を読んでいた私の心臓は、その足音だけで、少し速まってしまう。
バタンと勢いよく開く扉。
「今度こそ、ホンモノだと思うの!」
部屋に入って来るなり私の前に両手を突いて身を乗り出してきたリナは、前置きも何もなくそう言った。
それは、彼女の決まり文句みたいなものだ。何も目新しいものではない。
「あ、そう」
読んでいた文庫から目も上げずにそう答えると、紙面に小さな手が二つ、割り込んでくる。小さな子どもの手を『紅葉のような』と表現するけれど、リナのはまさにそれだ。小さくて、ふくふくとしていて、関節のところに小さなえくぼができる。
目の前に出されると、持ち上げて齧ってみたくなる。
ウズウズする舌を奥歯で噛みながらリナの手を見つめていると、今度は彼女の顔が目の前に突き出された。
前髪が触れ合う。
ふわりと、甘い香り。
そうしたつもりが無くても私の胸は勝手に膨らんで、こっそりとその香りを吸い込んでしまう。
短い一言だけしか返さなかった私に、リナが怒るのは想定内。
「もう、マジメに聴いてよ!」
躍起になって私の注意を引こうとするのが、可愛い。
「聴いてるよ」
リナの声は、全部。
「ホンモノの恋、なんでしょ? 何度目だっけ?」
「ミサのいじわる」
元からふっくらしたリナの頬が、更にムッと膨らんだ。大福のようなその感触を思い出しながら、私は思わずため息をついた。
「リナには毎年ヴァレンタインになると『ホンモノ』が現れるじゃない」
「だって、いつも、今度こそはって思うんだもん」
唇を尖らせて、リナは目を逸らした。
リナとは幼稚園の頃からの付き合いで、毎日一緒に過ごしてかれこれもう十二年になる。つまりヴァレンタインは十二回巡ってきていたということだ。
リナに『ホンモノ』の恋が訪れるのも、十二回目。
私と出会った時から、リナの将来の夢は『王子さまとの結婚』だった。
まあ、さすがにこの年になったらガチの王子さまではなくなったけれど、それでも、毎年毎年、リナの『王子さま』――つまり『運命の人』探しは繰り返されている。
そんなリナの『運命の時』はヴァレンタインで、毎年その日に彼女は『ホンモノ』に告白する。
ホントに、毎年毎年。
――その度に私がどんな思いになるのかなんて、気付きもしないで。
客観的に見て、リナは可愛い。
ツインテールにするとクルクルと自然に巻くくせっ毛に、少し目じりの下がった大きな目。小さな唇はグロスを塗っているわけでもないのに綺麗な桜色をしている。
これぞ女の子、という感じ。
だから男どもは、当然差し出されたリナのチョコを受け取る。
けれど、蜜月はいつも三カ月と続かない。
それは、最初から予想された結末。リナが求めているのは『王子さま』であって、ひと月もしないうちにキスをしようとしたりする『ケダモノ』ではないのだから。
リナがヴァレンタインにチョコを渡して長く付き合いが続いているのは、たった一人だけ。彼女が初めてそうした相手――私、だけだった。
私はまだ五歳だったけれど、その時のことは鮮明に覚えている。
『わたしのおうじさまになってくれる?』
出逢って初めての、二月。もじもじしながらリナがチョコを差し出してきた。丸い頬をほんのり赤くして。
公園で、とても寒かったのに、そんなの全然気にならなかった。
私がリナの『王子様』なら、リナは私の『お姫様』だった。
地上で一番可愛い存在。
無邪気にギュッと抱きつかれると、私の中には何か温かいものが詰め込まれたような、何だかジタバタしたくなるような感じになるのだ。
もちろん、私は彼女のチョコを受け取った。
その時のリナの笑顔は、真冬に咲いた花のようで。
彼女のその笑顔を消さない為なら、私は何でもする――何でもできると思った。今も、そう思っている。
そうして、私はリナの『おうじさま』になったのだけれど、それは三日間だけのことだった。三日後、リナは「女の子は『おうじさま』にはなれないのだ」と教えられてしまったから。
「わたしだって、別にキスがイヤとかじゃないんだよ?」
拗ねたようなリナのその声で、私はハッと現在に引き戻される。
「でも、なんか違うんだよねぇ。男子って、離れて見てるとキレイなのに。近くに寄ると、ひげが生えてたりするし、唇カサカサしてたりするし」
言いながら、リナはコロンと私の膝の上に頭を転がせた。
「やっぱり、ファーストキスは大事にしたいし。この人だ! っていう人じゃないとね」
「ふぅん……」
そんな男がいるもんか、と心の中で呟きながら、私は文庫を持ち上げて生返事をする。
リナは、空いた私のウェストにギュッとしがみついてきた。
柔らかくて、温かい腕で。
「あぁあ……わたしの『おうじさま』、どこにいるんだろ……」
私のおなかを、彼女の声がくすぐる。
本を目の前に開いていても、中身は全然頭に入ってこなかった。
本なんか放り投げて、抱き締め返してしまいたい。
そうしない為に、手の中の本を握り締める。
殆ど拷問。けれども、叶うことならずっとこのままでいたい。
と、巻き付いていたリナの腕から力が抜けて、代わりにフッと私の膝にかかる重みが増す。
本から目を離して下に向ければ、私の膝の上には少しだけ横を向いたリナの寝顔があった。
いつものことだ。
リナは、私の前では寛ぎきった仔猫のようだから。
「バカなリナ」
私の前で、こんなふうに無防備な姿をさらすなんて。
リナはファーストキスを大事にとっておいているつもりだろうけど、そんなもの、とっくの昔に失われてる。
私は頭を下げて、そっと彼女のそれに唇を重ねた。
軽く触れるだけを、二度、三度。
そうして、ほんの少し開かれた合わせ目を、舌の先で辿った。
もっと深く触れたいけれど、できない。
リナを――私を『友達』だと信じているリナを、失いたくないから。
私のこの想いを知れば、きっと彼女は離れていってしまうから。
頬に感じる温かな吐息。
鼻腔をくすぐる甘い香り。
『友達』でいることは、苦しい。
こんなに苦しいのにリナの傍にいる私は、マゾなのかもしれない。
けれど、どんなに苦しくても、傍にいられる方がいい。
『友達』であれば、私は、誰よりもリナの近くにいられるのだから。傍にいて、こうやって無防備な姿を見られて、いつでも触れられる。
じゃれてくるリナに応えるふりをして、抱き締めることができる。
『友達』のままでいれば、たとえ彼氏ができても、私はリナの『特別』でいられる。
――私のこんな黒い想いに気付かないなんて。
「……バカな、リナ」
囁いて、最後にもう一度、私は彼女の唇をついばんだ。