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父の肖像

作者: 雨宮吾子

 そこは広い視界に海が横たわり、松の木が寄り添う思い出の場所だった。

 この縁側へ来たのは何年ぶりだろう。最後に来たのはあの事件が起こる前年だったから、もう十年も前のことになる。あの頃は父もまだ元気だった。

 幼い頃から足を運んでいたから却って正体が知れなかったが、元々は曽祖父の使っていた離れで、家族揃って帰省したときにはここを利用した。父は離れで過ごすことを好んでいたようだが、母は母屋で祖父母の手伝いをしていたから、親離れのしない俺はよくそちらの方へ渡って行った。離れはどうにも居心地が悪かったのだ。

 父はよく食べ、よく飲み、そしてよく荒れる人だった。俺や母を殴ることはなかったが、どこか他所で喧嘩をしてきたり、障子を破ったり硝子を割ったりするので、母はいつも憔悴していたように思う。それでも普段は朗らかな人だったし、仕事熱心で家計を支える大黒柱だったから、俺も母も父のことが嫌いではなかった。

 父は東北の農家の次男坊で、職を求めて上京したところで母と知り合ったらしい。母は気丈な人だった。父方の祖父母とは必ずしも上手くいっていないようだったし、長男夫婦にも疎まれていたようだ。それでも辛い顔一つせず家業を手伝っていた。その頃の冷害による凶作は著しかった。




 家族で帰省したとき、父はいつも離れで過ごす、そう言った。離れで過ごすとき、父は何やらキナ臭い論調の雑誌や淫靡な雑誌を読みふけっていて、母屋の方に行くことはなかった。雑誌を読むか、縁側で日向ぼっこをするか。東北の夏は夏になりきれない、日向ぼっこをするのにちょうど良いのだと父は言っていた。父はそうして、日暮し縁側で過ごすこともあった。

 それならどうして、わざわざ帰省などするのかと考えたりするものだが、父は夕方になるとよく出かけた。それだけが、と言い切ることはできないが、それが帰省する目的の一つのようだった。俺は何度か父の後を追ってみたが、いつも途中で見失ってしまった。俺に尾行の才能がなかったのか、父の出し抜くのが巧かったのか。

 そうして母屋に戻る頃には辺りが暗くなっていて、母が寂しげな表情をしていたのを思い出す。その頃の俺は男女の機微など知る由もなかったが、その涙の一滴で真理の一端に触れたように思う。俺はその一度だけの涙を見て、とても嫌な気持ちがしたのを覚えている。

 嫌なことといえば、離れには二つの肖像が飾っていた。一つは、恐らくは曽祖父のもの。もう一つは、もっと尊い御方のもの。最初、俺は曽祖父の肖像をそれと知らずに片づけてしまおうとした。どうしてその二つを並べてあるのか、理解が出来なかったからだ。それを見つけた父は、あるいはそれっきりだったかもしれないが、俺を強く叱ったものだ。先祖を敬うようにと叱る父は、酒に溺れて怒号を上げる姿とはまた違う、とても理性的な怒り方をするので、却って恐怖を覚えたものだ。

 そんな父との一番の思い出は、やはり帰省したときの出来事である。父は気紛れに俺を近所の池に誘い、泳ぎを教えてくれたのだ。元から泳ぎの苦手だった俺は、父の慣れない指導で幾分か上達し、今では大きな艦船に乗って仕事をするようになった。私は父のことを、ほとんど好きだった。雑誌を読みふける父、縁側で日向ぼっこをする父、俺を叱る父。俺にとってその背中は、巌のように乗り越えることの出来ない壁であった。例えそれが、いかなる血によって汚れていたとしても。




 母は後妻だと、大病を患った父は言った。病弱な妻を地元に残して上京した父は、やがて女と緑児を連れて帰郷した。妻は発狂した末に吐血し、そのまま衰弱死してしまった。そして当然のように、東京から連れ帰ったお前の母親が後妻に納まったのだ。

 そう語る父の瞳は濁っていた。いや、母の表情さえ暗くひっそりとしていた。俺が両親の元を離れる前の晩のことだった。

 責められるべきは父だっただろう。しかし、祖父母も長男夫婦も、揃って母を非難した。

 俺はそれを聞きたくはなかった。それでも、聞かせてくれて良かったと思った。俺は母の苦悩の本当をようやく知ることができたのだから。もう会えなくなるかもしれない両親のことを、ようやく理解することができたのだから。




 縁側に座る。夏の日差しよりも、蝉時雨が肌に突き刺さる。もう夕方だ。ヒグラシがどこかで鳴いている。ほろりと、俺も涙を流した。

 この夏が終われば、きっと穏やかな夏が来るだろうか。争いのない、穏やかな海を湛える世界が、きっと存在し得るだろうか。ちらりと、肖像を見やる。父の肖像は、やはり厳然としていた。

 いつの間にか握りしめていた手からぽろりと、硬貨が落ちる。一枚、二枚。三枚まで数えたところで、俺は数えるのをやめた。数えてしまう前に、硬貨が六枚あるのを理解したから。

 夏の空は赫々と燃えていて、大地には陽炎が立っている。俺が好きなのは、やはり海だ。海は雄大で、死者と生者も分け隔てない。何故なら、海はいずれ、人が還っていくところだから。父も母も俺も、そこへ還っていくのだから。

 今、大海はやはり赫々としている。その燃え上がる赤の中心に、真っ二つに割れた鉄くずが沈んでいく。俺は行くのだ、あの海の彼方へ。

この作品は熟雛様の「【作品募集】お題掲示板~三題囃で書きましょう~」より、


『蝉時雨』

『縁側で日向ぼっこ』

『一人称・語り手男・1000文字以上』


以上のお題に従って執筆したものです。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 拝読しました。 文学とは何か、と聞かれた時に、わたしは『人のことだ』と答えます。 人のこと、と言えば個人の人生を語るとか心の訴えを描くとかそういうことが思い浮かぶかも知れません。ですがわ…
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