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「……みや」
控えめに呼びかける声と、揺さぶられる感覚に眉をしかめる。
「……美弥、起きろ美弥」
少し強めに呼びかけられ、とろとろした眠気の向こうに感じる不機嫌な空気を感じた。
眠くて眠くて仕方なかったけれど、起きろ、起きろと呼びかけられる声になんとかして瞼をこじ開ける。
あのとき、涙を浮かべず声を上げずに〝泣いていた〟男の子――――幼さを残すふっくりした頬が消え、面影だけを残して眉をしかめた少年の顔が、こちらを覗き込んでいた。
「寝るならベッドに行けよ。布団、俺の使っていいから」
「……トキヤ、くん」
「こんなところで寝てると風邪ひくぞ」
さらさらした黒い髪が額にかかる。不機嫌そうにしているが、その綺麗な顔立ちは損なわれていなかった。黒い目が細まってこちらを見下ろし、いまだに手がゆさゆさと私の肩を揺らしている。
……きれいな、少年になったんだと思う。
あの時から整った顔立ちだったから、成長期になり幼さが抜けてすっかり男っぽくなった。背もいつのまにか追い抜かされていたものだ。
「……美弥、寝ぼけてるのか?」
いささか心配そうな声色に変わる。そのあたりで、私はようやく覚醒しようとしていた。
「……だいじょうぶ」
「立てるか? ほら、眠いならベッドに行けよ」
「……んー、いいよ。帰るから」
目をこすり、残る眠気を振り払って体を起こす。
つけっぱなしのテレビはニュースを流している。時刻は夜の八時ちょっと過ぎ。煌々とつく電気と、体からずり落ちる薄い毛布。それから、ソファの横にしゃがみこむ幼馴染の姿。
すっかり転寝をしてしまったらしい。少しだけ横になるはずだったけど、失敗したかも。
「帰るって……外暗いぞ」
トキヤくんはそのままの姿勢で、今度はこちらを見上げて眉をしかめた。どちらかといえば無表情と、それからこういう表情をすることが多いから、そのうち眉間にしわが寄ったまま戻らなくなるんじゃないかと思っている。
「この時間ならいつものことだよ。お皿も洗い終わってるし、ご飯もセットしといたからもうやることないし。ごめんね、ちょっと寝ちゃった。心配しなくていいよ」
「疲れてるんじゃないか?」
「んー、そうかも。あともう少ししたら受験だもんね。緊張してるのかな」
「……でも、なんか顔色悪い」
トキヤくんは立ち上がると、体を起こした私の隣に腰かけてきた。そのまま心配そうに頬に伸ばされる手を、わずか身をよじって躱す。
「……美弥?」
「だ、大丈夫だよトキヤくん。えぇと、ちょっと夢みちゃって」
「夢?」
「あ、うん、ちょっとヤな夢だった。だからかもしれない、でも心配ないよ」
「美弥」
「大丈夫だって。……ごめん、私もう帰るね。和成さんによろしく」
振り切るように立ち上がり、そのまま部屋の隅にある自分のカバンと、コート立てにかけてあるマフラーに向かっていく。首に巻きつけていると、トキヤくんも追いついてきた。
そのまま横にかかっている黒のジャケットを羽織る彼を見ると、頭一つ分上にある端正な顔がこちらを見下ろして一言。
「送るよ」
「え、いいよ、すぐじゃんウチまで」
「それでも。いつものことだろ」
……拒否権はないみたい。
さっと踵を返して玄関に歩いていくトキヤくんの背中を見送り、こっそりため息をついた。
徒歩で約三分。スープの冷めない距離、まさにそのままの場所にあるのが私の家。ちなみに二階建て一軒家。
日がとっぷり暮れた秋の暗い夜。街灯の明かりはないけれど、正真正銘の住宅街だから女子中学生が出歩く分にはそこまで心配することもないだろうと思っている。
それでもトキヤくんはしっかり家の前まで送ってくれて、家に上がらず踵を返した。また明日、と挨拶を交わして。
トキヤくんの家はアパートの一階だ。角部屋で二人暮らし用の2LK。
このお互いの行き交いは、夢で見たあの時期から続いている。もう十年になるのかな。
「あら、おかえり。今日はちょっと遅かったのね」
リビングに入ると、母が笑顔で迎えてくれた。それから私が手に持つ空の鍋を受け取ってくれる。この鍋はトキヤくんの家まで運んだものだ。今日の夕ご飯。
すでにトキヤくんと食べてきていることを知っているお母さんは、にこにこと笑いながら首を傾げる。
「どうだった?」
「美味しかったって。あ、今度肉じゃが食べたいって言ってたから作ろうと思う」
「あら、いいわね。ちょうど隣の奥さんからじゃがいも頂いたの、明日作ろうかしら。二人の様子はどうだった?」
「変わらないよ。今日は和成さんいなかったけど」
「そうなの。そういえば最近大きなプロジェクトにとりかかるって言ってたものね。トキヤくんひとりで大丈夫かしら?」
「大丈夫でしょ、子どもじゃないんだし」
「まだ子どもでしょ。十五歳のくせに」
くすくす笑いながら、母親は鍋を片づけにキッチンへ向かった。それと同時に、
「あ。姉さん、おかえり」
リビングのドアから部屋着に着替えた我が弟が顔を出す。母に似た穏やかな顔立ちの彼は風呂上りらしく、タオルを首にかけてわずかに頬が上気していた。私と似ていないこげ茶の髪と、同色の優しい瞳。いつもしているメガネはない。
「お風呂あいたけどどうする?」
「美弥、先入っちゃいなさい」
「はーい」
キッチンから聞こえてくる声に返事をして、階段を上がって行った。自分の部屋に荷物を置くため。
お父さんはまだ帰ってないらしいけど、いつものことだ。
弟の弥白が入った後だから、お風呂場は暖かかった。手早く服を脱いで湯船につかり、ふー、と一息。
冷えた指先、足先が暖まっていく。まだ本格的な冬にならないとはいえ、外はそれなりに寒かった。手足を揉みほぐしながら、ぼんやりと転寝に見た夢のことを思い出す。
ずいぶん懐かしい夢を見た。
通夜から十年たっても、トキヤくんとの関係は続いていた。むしろ以前よりも親密さを持って。
独身で、しかも驚くことにあの若さで会社を立ち上げたばかりだったという当時の和成さんが、突然子どもを引き取ることになった。言うほど簡単なことではなかったはずだ。
それを見通したらしい私の父が、式の後に和成さんへ声をかけたらしい。
『よければ、手伝いをさせてくれないか?』
それは悪意や下心ではなく、純粋な善意からだと父は言っていた。後から聞いた話、母にも相談せず自分一人で決め、勢いのまま話しかけたらしい。
説明を求められた父は母の前で小さくなったが、母は笑ったという。
『貴方が言わなかったら、私が言っていたわ』
聞けば、あともう少し和成さんが発言するのが遅かったら、母が同じようなことを言おうと思っていたのだと。
和成さんは最初、信用できなかったらしい。
けれど父と母の粘り強い説得、それ以降もなにかと気にかけてくれる行動に、少しずつ警戒を解いていったんだと後で話してくれた。
当時の和成さんは結婚もしていない、仕事が忙しくて彼女の一人もいない身分、子育てのいろはも分からない。そんな時、すでに子どもがいる母からのアドバイスは、とても役に立ったのだという。
和成さんが仕事で忙しい時はトキヤくんのことを母が見ていた。
そのうち和成さんが私たちの近所に引っ越しをしてきて、以来私とトキヤくん、それに弥白を交えて、私たちは家族のように一緒に過ごしてきた。
中学生になった今でもそのつながりは続いている。夕飯のおすそ分けもそうだし、時折うちへ食事に呼んで一緒に食卓を囲む。
そのうち私は家事を覚え、トキヤくんの家にお邪魔してたまった洗濯物や掃除、簡単な料理などもするようになった。
和成さんはそんな私を見つけてたまに言う。懐かしそうに、嬉しそうに、申し訳なさそうに目を細めて。
「……美弥ちゃんたち橘家がなかったら、オレたち叶野家は今みたいになってなかったと思う。ほんとに、美弥ちゃんたちには感謝してもし足りないね」
そうして、私の頭を撫でる。
その言葉に、私は心の中で反論した。
――――大丈夫。私たち橘家はきっと、どんな場合でも助けていた。
――――それは、私が居なくてもそうだったから。
だって、それはゲームの中でそういう〝設定〟だったから。