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五幕 ユグノースの剣

 五幕  ユグノースの剣


 縄を切ると、エセルは山中を走り続けた。

 今にもヴァンデが追いかけてきそうで気が気でなかったが、無事に朝を迎えることができた。

 途中までは山道を進んでいたが、明るくなってからは草木が蹂躙する傾斜を下っていた。草や木の根、石に足をとられて尻餅をつきながら滑ることは何度もあった。その度、エセルの顔に険しさが増していく。

 夜通し走り続ける中、エセルはディーにこれから起こることを聞かされた。

 ユグノースの命を狙っているのは、なんとルドの長兄だというのだ。

 属領となり、新たな執政者にはアルハトス貴族が立った。帝国は、民心を掌握するために慕われていたアルディオ一族を追放しなかった。補佐官としての地位を渡し、温情を見せたのだ。とはいえ、その屈辱に耐えられなかった当主、つまりルドの父は、自害した。後を継いだのが世襲制に習い長兄だった。知性が無く、誇りばかりが高い人物として評判は良くない。となれば、領地のために金を稼ぐルドに人気が集まるのは当然のこと。つまり、長兄にとってルドは自分を貶める邪魔な存在なのだ。

 けれど、ルドは長兄のことを信じたかったという。そこへ丁度、ユグノースが離隊したいことを告げてきたので、ならば一つ頼まれてくれないかと、提案したらしい。長兄の謀が事実かどうかを。代わりに衣食住を約束した。そして、ユグノースは手紙でありのままを報告した。だが、無事届いたかどうか確信できず、心配になり、再び戻ろうとする。その道中を、この山で襲われるというのだ。

 山に入る前に遭遇できれば文句ない。

(エセル君、大丈夫かい?)

 今もまた、尻餅をついてぐったりしている最中だった。時間を無駄にするなと思うのだが、つい空を見上げてユグノースの無事を祈らずにはいられなかった。こんなときはどの神に祈ればよいだろうか。

(ちょっと! しっかりしなよ)

 一番頼りになる、かもしれない世界の神ディンフェストがいるのだった。

 雲に負けそうなほどうっすらとした水色と、エセルをあざ笑うように見下ろす木々の緑が空を覆っていた。

 朝日は木漏れ日となって、幾筋の細い光をエセルに降り注いでいた。

 風が木の葉をもてあそぶと、ふいに光の筋は大きく広がる。訳も分からずその光景に胸を打たれた。

 普段、何とも思わない自然の織りなす光景に感謝したくなった。

 気は急いているというのに、なぜ干渉に浸れるのか。

「ディー、ディーは綺麗だな」

(なっ、なっ、何言ってるのさ! 疲れすぎて頭どうかなったんじゃないかい?)

 肩に飛び乗ってきたディーが、前足でエセルの頬をやんわりと触れてきた。

「かもしれない」

 さらりと肯定したエセルは、確かに全身腐ってやしないかと思うほど疲労困憊していた。

(さぁ、行くよ!)

 地面に飛び降りたディーは、ぷいっと顔を正面にむけて尻尾をピンピンにたたせて歩き出した。

「ん?」

 エセルは頬にかすかな痛みを感じ、そこへ手をもっていった。新たなひっかき傷が出来上がっている。

「……なんで?」

(女心ってもんが分かっちゃいないよね)

 ぶつぶつ文句が聞こえたエセルは、ぽかんと口をあける。

「女、だったのか。ディーは」

 抱き上げたりなで回したりしたことを思いだし、エセルは少々後ろめたい気分になった。

(そ、そうじゃなくて! 神族に性別はないって言っただろ! だいたい今の所を、男心ってもんが、なんて言ったらおかしいじゃないか。って、そんなのどーでもいいの)

 かすかに声をたてて笑ったエセルの鈍さは、冴え渡っていた。



 川を眼にして、エセルはとうとう足を止めた。

 空が暮れかけてきたことと、ディーの一言に背中を押されもした。

(目的を果たす前に倒れたら、そこでもう終了だよ)

 というもっともなお言葉に。

 掌で水をすくい上げると、手首の傷が悲鳴をあげた。

 わずかに顔をしかめるも、喉の渇きの方が重要だった。

 体内に染み渡った潤いは冷たくて、気持ちがいい。ついでに、いい加減臭くなった身体も洗いたいところだ。しかし、今そんな無防備なことはしていられない。

 エセルは川沿いに歩いて、死角になるような場所を探し始めた。その間、あちこちで拾った木の実や、残っていた干し肉を口に入れてかみ砕く。全く食欲は満たされないが、何も食べないよりはましだ。

「ねぇ、ディー。具体的なことは分からないのか? たとえば、ユグーがこの山に入るのは明日の朝だ、とか」

 エセルの先を歩くディーは、前を向いたまま答える。

(わたしが知っているのは、今の過去ではなく、あくまで現実にあった過去だからね。ここはあり得たかもしれない過去っていっただろ? だから、そんな細部までは分かりはしないよ。それに、わたしが見たのはユグノース君の人生だからね。でもわたしが今いるのは、エセル君の、だからね)

 顎に手を添えながら、エセルは黙して地面を踏みしめる。

(あぁ、よく分からないんだよね。わたしも説明しながらそう思っていたから)

「な、なんとなーくはわ」

(そうだっ!)

 少しばかり強がって言ってみたエセルを、ディーの声が遮った。

 何事かと見ていると、ディーはきょろきょろと空を見上げて何かを探しているようだった。つられてエセルも顔を上げるが、夕色に染まった空と相変わらずの木々の屋根ばかり。葉の茂った屋根に鳥がとまっている程度で、他にはとくに何もない。

(わたしが見てきてあげるよ。何で気づかなかったのかなー、わたしとしたことが不覚だ。 ちょっとこの身体大切に預かっていてよね、調べたらすぐ戻ってくるから)

 は?

 と訊ねる間もなく、ディーの身体に異変が起きた。

「ど、どど、どーしたんだ! ディーっ」

 ディーはぱったりと地面に四肢を投げ出して倒れていた。

 エセルは慌てて抱き上げるが、どこもかしこも動かない。

「ディー! あた、たたた」

 エセルの頭に、鋭い痛みが立て続けにはしった。

(ここだよ、何を泣きそうな顔をしてるんだい。まったく。私が死ぬわけないって言っただろ? そんなことになったら世界の破滅さ)

 頭を押さえて顔を上げたエセルは、目の前に小さな鳥がいるのに気づいた。

 薄茶色の鳥で、ややふくよかな体型をしている。小指の先よりも小さな瞳に、鋭利なくちばし。

 これか。これに突かれたのか。

(ちょっと、しっかりしてよ? 動物にならすぐに乗り移れるんだ)

 エセルは落ちかけていた猫の身体を両手で抱きかかえて、「なるほど」と強がってみた。

(鳥の姿ならびゅーんと行ってこられるからさ、ユグノース君が今どの辺りにいるか調べてきてあげるよ)

「う、うん」

 小鳥になったディーは、意気揚々と羽を動かして空へ消えていった。

 どんどん薄暗くなる空を見上げたまま、エセルは立ち尽くしていた。

「ちょっと、寂しいな」

 なんて口にだすと、エセルは自分の声で我に返った。

 猫を大切そうに抱いたまま、やっぱり歩き続けようと決めた。



 意識が途切れそうになる頻度が多くなっていた。

 幹に寄りかかって少し休みながら、エセルはひたすら歩く。ユグノースとの距離をはやく縮めたい一心だった。

 朝になってもディーは戻ってこない。気になっているが、きっとディーはそうんなエセルを笑うだろうと、胸に抱いた猫を見下ろして思った。

 そのとき、下の方から人の声が聞こえてきた。

 エセルはぎくりと身を強張らせてから、慎重に足を運んだ。今いる場所は山道から外れている。このまま下れば、道に出るのだから、きっとそこからだ。

 うんざりするほど山林には道を阻まれたが、今は身体を隠す壁として役立つ。

「おい、金髪の男を見なかったか? もしくはフードを目深にかぶったような奴だ」

 木の葉が擦れる音と、ささやかな鳥の声しか辺りにはないので、男の声はよく耳に入ってきた。その内容に、エセルは胸を騒がせる。

「そうか。ならいい」

 数人分の足音が、忙しなく駆け出していった。

 エセルはそっと顔だけを動かして下の様子を覗いた。

 狭い道をいっぱいにした幌馬車があった。御者には太った男が一人いる。

「おい兄さん、悪い奴らはあっち行ったぜ」

 空を見ながら、男はそんなことを言った。

 エセルが眉をひそめていると、荷台から人が飛び降りた。フードを被っているが、それが誰なのか、エセルには分かった。

「助かったよ」

 ほら、声だってあいつのだ。

 歩き方も、立ち姿も、エセルは知っている。

 ――ユグノース!

 エセルは叫びそうな口を手で押さえつけた。

 今名前を呼べば、行ったばかりの追っ手が戻ってくるかもしれない。

 それを危惧するだけの冷静さが自分にあることに驚いた。

「なぁに、貰えるもんさえ貰えりゃ商人ってのは何でもするもんさ」

「ありがたい」

 ユグノースは男に金を渡しているようだった。

 金の勘定をし終えると、男は鞭打って馬を走らせた。それを見送ってから、ユグノースは踵を返して追っ手が走っていった方向を見やった。それから再び身体の向きを変えた。エセルのいる方へ。

 え! えぇ?

 エセルは咄嗟に身体を沈めてうずくまる。自分の行動は困惑の極みだった。

「見つけたぞっ!」

 突然飛び込んできた怒声に、エセルはハッと顔を上げた。

「おい! てめぇ、よくも!」

 上から聞こえてくる声がヴァンデのものだと気づいたエセルは、こちらへ駆け下りてくる姿を眼にして意識を失いそうになった。

 逃げなければと腰を浮かすのだが、こんなときに目眩に襲われる。

 情けなくて涙が出そうだ。

 ヴァンデは、怒号を響かせながら迫ってきた。が、不自然に声が途切れた。

「ユ、ユグノース!」

 すぐ背後から枝を踏み折った音とともに、息を吸い込む気配が伝わった。

「ヴァ、ヴァンデ? 貴様こんなところまでお……エセルっ!」

 腰を浮かしかけたままのエセルは、空を仰ぐようにユグノースを見つめた。フードを慌てて取り払ったユグノースは、鋭い瞳をこれ以上ないぐらい大きく広げる。太陽の髪は相変わらず眩しい。否、ユグノースの存在自体がエセルには眩しいんだ。

「エ、エセル、エセル! どうしてこんなところに! それに、傷だらけじゃないかっ、どうして!」

 まるで自分が傷つけられたような顔をするユグノース。

 見ているこっちが辛いからやめて欲しい。

 エセルは差し出されたユグノースの手に縋って抱きついた。もっとも、片手は猫を支えているので完全な抱擁ではない。

 肩に顎を置いて、エセルは短くこう言った。

「会いたかった」

 ユグノースの身体が強張った。

 他にも色々言ってやりたいことはあるが、今はどういうわけか思い出せない。

「お、驚いた」

 ユグノースは恐る恐るエセルの背中に手を添えた。

「絶対、怒っていると」

「怒ってる。怒ってるから、追いかけてきたんだ」

 エセルは身体を離して、ユグノースを睨みつけた。

 当惑するユグノースは、エセルから眼が放せられないでいた。

 エセルは涙が零れだしそうな衝動を押し殺すために、唇を思いっきり噛む。

 けれど、我慢をするほどに顔中熱が集まって、恥ずかしさが増すばかり。

「エセル、ごめん」

 ユグノースの手がエセルの頬に触れた。途端、あっさり零れだした涙がユグノースの手を濡らしていく。

「あ、謝るなっ」

 ユグノースの手を振り払って、エセルは自分で涙を始末した。その間も、ユグノースの視線を感じて恥ずかしくてどうかなりそうだ。

「おまえらやっぱりそーいう仲じゃねぇか」

 ヴァンデの憮然とした声で、再会に浸っていた二人は目覚める。

「ヴァンデ! 貴様エセルに何をしたっ」

 エセルを背中で庇ったユグノースは、殺気立たせた声をヴァンデへ叩き付けた。手は、しっかりと剣の柄に添えてある。

 ヴァンデは顔を背けた。

「何もしてないから生きてんだろーが」

「そ、そうだ。ユグー俺は何ともない」

 今にも斬りかかりそうなユグノースの腕をエセルは引っ張った。

 ディーから既に、ヴァンデがユグノースを捜しに来た理由を聞いていた。だから、二人を戦わせたくなはかった。

 ユグノースは腕に置かれた手を掴むと、エセルを叱りつけた。

「何を言ってるんだ! 何ともないって有様じゃないだろ! 手だって、こんなっ」

 エセルは絶句した。

 これほど激怒したユグノースは滅多に見ない。温厚で、エセルよりも大人で、冗談をよく口にする。そんな普段のユグノースからは想像も出来ない表情だった。けれど、紅光りする金の瞳はひどく悲しげだ。

「で、でも」

 唇を震わせて、エセルは抗おうとする。

「仲間、だろ」

 今度はユグノースが言葉を失う番だった。

 エセルとの思いがけない再会が、ユグノースの冷静さを奪い取っていたのだろう。今更ながら、最大の失念に気づいたようだ。

 いきり立っていた顔からみるみる表情が剥がれ落ちていく。

 またすぐどこかへ消えてしまいそうで、エセルは慌てて言いつのる。

「いいんだ! ユグーいいんだ、気にしなくていい。本当だ。聞いてくれ、俺はもう、家族のことは踏ん切りがついていたんだ。でも、戦う意味がなくなれば俺の居場所がなくなると思って、だから、ずっと復讐心を利用していたんだ。ユグーの傍にずっといたかったから。もちろん、家族を殺した奴らは憎い。憎いけど、俺もすっかり憎まれて当然なほど人を斬ってきた……だから! だ、から、そんな顔しないでくれ」

 エセルの声を聞きながら、ユグノースはどんどん悲壮な面持ちになっていった。

 こんな顔をさせたくなくて、思いつく限りの言葉を紡いだ。

 傷つけたくなんかないのに、エセルはただユグノースを痛めつけているように思えた。居たたまれなくなって、堪えていたはずの涙をぼろぼろ落としてしまった。

「ユグー、俺を見捨ててくれるな」

 母親に縋るような……違うな。愛する人に、だ。恋人に置いていくなと願う気持ちで、エセルは口にしていた。

 呆れられてしまうだろうか。

 エセルは袖で顔を拭って、せめて声だけは出さないようにした。

 落とした視界に、ユグノースの足が見えた。こんなにも近くにいるのに、距離は広がってしまったのだろうか。

 反応も示さないユグノースの顔を覗くのが、怖い。

「……おい。痴話喧嘩してる場合じゃなさそうだぞ」

 遠慮気味なヴァンデの声で、少し頭が冷えた。すると、いきなり五感が冴え渡ったように、不穏な気配を感じ取った。

 数人分の足音と息づかいが辺りを囲んでいた。

「いたな。見つけたぞ」

 低い男の声に追従するように品のない笑い声が続く。

 エセルは警鐘の鳴る空気に溶け込むように、意識を研ぎ澄ませた。

 下から三人、左右にも二人ずつ。

「商人の言葉なんか信用できないからな」

「俺の勘は大当たりだったわけだ」

「金の髪はいい値にばけるらしいぜ」

「他のは?」

「好きなように、だろ」

 ずいぶんとお喋りな奴らだ。

 エセルは視線を走らせながら、観察した。

 どこにでもいそうな旅装姿の男たちだった。ただし、目つきが悪いのと、手に刃物を光らせ残忍に笑う様はそこらにはいない。

「おい、何しでかしたんだ?」

 男たちといい勝負の余裕な口調で、ヴァンデが訊ねる。

 ユグノースは黙ったまま剣を抜き放った。

 ここでエセルは剣がないことに遅れながら気づいて、あたふたし出す。

「ヴァンデ、頼みがある」

「何だと?」

「エセルを連れて逃げてくれ」

 すぐさま反論しようと口を開いたエセルだったが、振り向いてきたユグノースに射竦められた。

「エセル、ルド隊長を暗殺せしめようとする動きがある。犯人はルド隊長の実兄だ。報せてほしい」

 エセルはゆっくり頭を振った。声が出ないのは、ルドに対して罪悪感があるからだ。

「断る」

 エセルの心を代弁するようなきっぱりした声は、ヴァンデのものだった。背中から大剣を引き抜くと、皮肉った笑みを浮かべた。

「貴様が死んだらここまで来た意味がない。それに、これは恩を売る好機だろ? おまえもそうだろ」

 ヴァンデが腰に帯びてあったナイフをエセルに投げて寄こした。

 エセルは口をぽかんと開けつつも、しっかり受け取る。

「ヴァンデ!」

「文句は後だっ」

 そう言い放つと、ヴァンデは迫りつつあった男に斬りかかっていった。

 エセルも猫を地面に置いて、適当に石を掴んで下方へ向かう。

「エセル!」

「俺も文句は後で」

 後があればいいが、と内心でエセルは思う。

 ユグノースを助けるためにここまで来たが、実際は足手まといになりそうな体力しか残っていない。こういう所が、頭が足りないのだろう。けど、いいんだ。盾になってでもユグノースを救うつもりだから。

 そして、現実に戻っても世界に命が繋ぎ止められていることを祈ろう。

 ディーとこのまま別れることが気がかりではあるが、ディーが世界そのものだから実際に別れはしないはずだ。そう信じよう。

 エセルは四肢に力を込めて、敵に向かって跳躍した。

 顔を狙って石を投げつけ、そのままナイフを突き立てて飛び込む。しかし、長剣にあっさり弾かれた。

「おいおい、そんなもんでやるつもりかよ」

 髭に覆われた口元から、鋭利な八重歯がちらついた。

 エセルは距離を保って身構える。他にも左右からじりじり迫る気配があった。その内の左後方から、剣を打ち鳴らす音が上がった。

「エセル! 無理はしないでくれっ」

 ユグノースの声を背中に浴びて、エセルは正面の敵に走り込んだ。

 眼前に振り下ろしてきた剣先を避けて、敵の横側へすり抜けながらナイフを太股へ投げつけた。

 敵が悲鳴を上げながらも、体勢を崩していたエセルを蹴り飛ばしてきた。

 エセルの身体はゆるやかな斜面を滑り落ちていく。蹴られた腹部だけでなく、背中や頭にも衝撃が止むことなく続いた。幹に背中を打ち付けて止まったエセルが立ち上がろうとした、そのとき、敵の影がエセルを覆った。

 大きく剣を振り上げるのを眼にした瞬間、エセルは敵の足に飛びついて横転させた。素早く組み伏せて、抗う敵の胸へ肘を叩き付けた。動きが鈍った隙に、男の腰にある短剣を引き抜く。その流れのまま勢いよく男の顔に剣を突き立てた。

 恐怖に引きつった男は意識を失う寸前だった。

 エセルは男の耳すれすれに突き立てていた短剣を引き抜き、立ち上がる。男の手から長剣を奪い取ると、すぐに次の敵が怒号と共に向かってきた。

 エセルの息は既に上がっていた。無我夢中で動いていたが、一度切れた線はどっとエセルの身体に疲労を思い出させる。

 それでも何とか、打ち込んできた敵と刃を交えた。

 蛇を思わせる厭な目つきをした男は、エセルをひたと見据えながら素早く剣を繰り出してくる。

 エセルはそれを防御するだけで手一杯だった。

「エセル!」

 ユグノースの声で、遠のきかけた意識を取り戻す。だが、眼前の敵を睨みつけるも、エセルの動きは鈍いままだった。

 蛇の目が愉快そうに細まり、忌々しい。

 男は舌で唇をなめ回すと、今までにない剣圧を打ち下ろしてきた。がくんとエセルの膝が折れて、地面に崩れ落ちそうになった。刹那、頭突きをくらった。

 エセルは呻きながら足を折った。頭を押さえようとした手をぐいっと引っ張られて、地面に仰向けにさせられた。間髪入れずに、右の掌にすさまじい痛みが奔った。

 自分の口から上がった無様な悲鳴の向こう側から、ユグノースの叫び声がエセルの耳に届く。

「これで逃げられねぇよなぁ?」

 エセルは右の手に剣が突き刺さっているのを恨めしく見つめ、歯を食いしばる。そのエセルの顎を強引に正面に向かせて、男は口の端を上げた。

「痛みに鈍い? いいことだね。うん。顔もそこそこだし、奴隷商人に売ればいい値がつきそうだ」

 エセルは無事な方の手を思いっきり振り上げたが、易々と掴まってしまう。

「こっちも縫い付けておこうか?」

 くつくつ笑う男の声が、不自然に途切れた。

 エセルが眼を見張っていると、男の口から血が流れ落ちた。胸から剣先が生えていたのに気づいたときには、エセルの身体から男は消えていた。

 開けた視界に、ユグノースの顔が飛び込んできた。

「エセル! 大丈夫か!」

「あ、あぁ。す、すまない。結局、こんな足手まといになって」

「つまらないことを言うな」

 ユグノースは歯がみしながらエセルの手から剣を引き抜いた。

 我慢できず、悲鳴を上げてしまったエセルは急いで無事な手を口へ持っていった。別の痛みで掌の痛覚を反らしたかった。ところが、ユグノースにその手を掴まれた。

「痛みを反らしたいのなら僕の手を噛め」

 荒い呼吸を繰り返すエセルの口にユグノースが人差し指を押しつけてきた。舌先に、ユグノースの指が触れた。

 思いがけない行動に、エセルは一瞬痛みを忘れる。

 見下ろしてくるユグノースの表情は真剣そのものだ。

「でで、出来るわけないだろ」

 ユグノースの手を掴んで放すと、エセルは上半身を起こした。

「追っ手は?」

「あとはヴァンデが片付けてくれるよ」

 ヴァンデのことなど気にしてない風に答えると、ユグノースは外套を剣で切り裂いた。さらに細長くすると、エセルの右手をとって巻き始める。

「後でしっかりやるから、今は我慢してくれ」

 短く返事をすると、エセルは様々な感情に胸が押し潰されそうになった。

 恥ずかしい。嬉しい。情けない。愛しい。

 だが、それらの感情を踏みつけるほど、エセルの意識はかすみ始めた。

 必死に止めるために、器用なユグノースの手を見つめた。どくどく溢れる血が、布を真っ赤に染めていく。そこに、光の粒がはらはらと落ちるのを眼にした。光の粒は、すぐさま赤く染め変えられてしまう。

「ユ、ユグー?」

「血が、止まらない」

 光の粒は、さらにエセルの真っ赤な掌に落ちた。

「ずっと、後悔していた」

 エセルの手を胸に寄せて、ユグノースは悲痛な声を出した。

「あんな、あんな別れ方しなければよかったと。決意を固めての行動だったのに、すぐに後悔して、でも、引き返すことができなかった。こんな、エセルをこんな風に傷つけることになるなんて」

 声を引きつらせながら、ユグノースは告白を続ける。

「母さんを殺したのも、故郷を連れ出してくれた叔父も、僕のせいで死んでしまった。そうさせたのは、同族だ、父だと、ひたすら憎むことで自分を保ってきた。僕と心を同じくするエセルを仲間だと思った。けれど、同時に裏切っているんだと分かっていた」

 エセルは弱々しく頭を振って否定した。

「でも、エセルといるのが心地よくて……もし、君に嫌われたらと思うと恐ろしくて、いつばれるんじゃないかと怯えていた。僕は臆病なんだ。話す勇気も、隠し続ける強固な意志もなかった」

 ユグノースを安心させる特別な言葉はないのだろうか。

 エセルは消え入りそうな意識の欠片を集めて考えるのだが、思いつかない。

「……三ヶ月前。クニークルスで、アイツを。父を、見かけたんだ。アイツは、僕に気づいたようだった……笑っていたんだ。嬉しそうに。誇らしげに。僕は、身体が動かせなくなった」

 ユグノースは降らせ続ける涙を隠すように、手で顔を覆った。

「あの、ほんの一瞬の邂逅で、これまで育ててきた憎しみを疑ってしまったんだ! 意味が、あったのかと。僕のせいで非業の死を遂げた人を想えば許されないことだ。なのに、なのに! 考えれば考えるほど、アイツの顔が頭から離れない! 地面に倒れる寸前まで、ずっと僕を見つめていた赤い瞳が、忘れられないんだっ」

 エセルは、ユグノースの濡れた声を聞いてる内に妙なひっかかりを覚えた。冷や水を浴びたように頭が冴える。

「ちょ、ちょっと待ってくれ。ま、さか、ユグーの父さんって」

 エセルの身体が細かく震えだした。

 気づいたユグノースは顔を上げて、必死に頭を振った。

「違う。僕が殺したんだ」

 やっぱり。

 肩を犠牲にして駆けつけた、あの時の敵が、ユグノースの父親だった。

「お願いだから、そんなつもりで言ったんじゃない。分かってくれ。僕にとって、エセルはかけがえのない存在だ。エセルを守るためなら僕は相手が誰であろうが、躊躇なく殺せる」

 エセルは胸が涙でいっぱいになって、呼吸さえできなかった。

 そんなことを言わせたいんじゃない。

 そんな、悲しいことを俺なんかのために言ってくれるな。

 俺にとってもユグノースはかけがえのない存在だ。

 だけど。

 後悔してるじゃないか、ユグー。

 憎んでいたはずの父を、手にかけたことも。

 罪悪感を覚える自分も許せなくて。

 エセルは、ユグノースが抱えた深淵な闇に光の筋を差し込めたらと、切に願った。

「……ユグー、俺は」

 と言いかけて、エセルはユグノースの肩越しに信じられないものを見た。

 先ほどエセルが失神させた髭面の男が短剣を携えて猛然と向かってきていた。片足を引きずっているのに驚くほどすぐ傍まで迫ってきた。

 エセルの表情に気づいたユグノースは、顔を振り向かせた。その瞬間、エセルはユグノースに飛びかかって押し倒した。

「エセルっ?」

 頭上で、幹を突き刺すくぐもった音が聞こえた。

 下敷きとなったエセルの右手から、全身隅々まで激痛が伝播していく。

 エセルは、ユグノースを下敷きにしたまま起き上がれなかった。

「エセル、エセル!」

 ユグノースがもがきながら必死に名を呼び続ける。

 答えようと肘を立てたとき、エセルの首が締め付けられた。そのまま勢いよく身体を持ち上げられる。

 髭の男はエセルを立たせようとしたが、それが叶いそうもないので後ろへ乱暴に引きずった。

 エセルは膝立ちのまま引っ張られ、顔を真上へ向かせられていた。

 鼻息荒くした髭の男がぞっとする笑みを寄こしてきた。

「とどめを刺さなかったてめぇを呪えや」

 唾を浴びせられ、エセルはぎゅっと眼を閉じた。

「その汚い手をどけろ」

 地を這うようなユグノースの声に、エセルはおろした瞼から涙を流した。

「んなこと言える立場かよ。コイツを助けたかったら言うとおりにしてもらうぜ?」

 ユグノースを見ることも叶わず、エセルはただ喘ぐように空気を貪った。

「てめぇの剣で、てめぇの首を切りな」

 笑みを押し殺すような声で、ユグノースに自殺を命じた。

 がむしゃらにもがきだしたエセルの耳朶に、ひんやりとしたものがあてがわれた。

「さっきのお返しだぜ?」

「やめてくれっ!」

 切り落とされると思ったエセルは顔を精一杯反らした。が、予想された痛みは思わぬ箇所を貫いた。

 左の太股だった。 

 確かに、男にとってお返しといえば太股だったのだ。

 エセルの沈み込む身体を、男は首を引っ張ることで支えた。

「貴様の言うとおりにする! するから、エセルを離してくれっ」

 よしてくれ。

 頼むから、そんなことしないでくれ。

 空気を吸い込むだけしかできず、エセルは言葉を伝える手段を絶たれた。

 これではユグノースを殺しにわざわざ来たみたいじゃないか。

 男はエセルの顎を引っ掴んで、ユグノースを見えるようにした。

 ユグノースはうっすら笑みを浮かべてエセルを見つめた。それから瞼をゆっくりおろして顎を上げる。剣を水平に構えると、迷いなく首へ持っていく。

(エセル君っ)

「な、なんだ、この猫」

 突如、首の拘束が解かれた。

 エセルは満身創痍の身体に鞭打って動き出した。

 たった、五歩程度の距離なのに遠すぎる。

 間に合ってくれ!

 エセルは命を燃やしつくすように最後の力を振り絞った。ユグノースに体当たりしながら、剣を身体をつかって奪い取ってやった。

 ユグノースを抱きしめるように、強く。

 腕に、胸に、首に、顔に、頭に、溶岩を流し込んだような灼熱が走り抜けていった。

「エセル、エセルっ」

(エセル君、エセル君!)

 ユグノースとディーの声だ。

 ひんやりとした大地に頬を預けたエセルは、億劫そうに瞼を開けた。最後の瞬間まで、見ておきたい人がいるから。

 血で汚れた刀身が目の前にあった。

 刀身は、エセルの顔を鏡のように映していた。

 顎から頭部にかけて斜めに赤い道ができていた。とろりと瞳に流れ込んだ血は、涙と一緒に地面へ向かっていく。

「仇はとってやったからな」

 少し息切れしたヴァンデの声だ。

(エセル君、遅くなってごめんね。こんなことになってるなんて……)

 黒猫の姿で帰ってきたディーが、エセルの瞼を労るようにペロペロなめる。

 ディー、これで終わるんだな。

(あぁ……そうだね。そうだよ)

 楽しかった、ありがとうな。

(こちらこそ)

 ディー、未来は変えられそう?

(……努力するよ)

 何それ。

(次に目が覚めてから意味を考えるといい)

 訳わかんないよ。でも、うん。頼む。

 エセルは口の端を上げた。

 そのとき、誰かに手を持ち上げられ、剣がエセルの身体から離れていった。

「エセル。なんて、ことを、してくれたんだっ」

 剣を地面へ叩き付ける音がした。

「ひどい! 僕が殺したも同然じゃないか! 冗談じゃないっ、どうしていつもいつも、大切な人を殺さなきゃならないんだっ! 嫌だ、こんなの! 傷つけたくなくて離れたっていうのに、結局僕のすることは裏目に出るんだ。僕は、神にとことん嫌われている! どうして、なぜ俺を生かす?」

「ち、がう。ユグー、違う」

 すくなくとも、ディンフェストという神はユグノースを愛している。

 だからこそ、エセルは今ここにいるのだから。それに。

「俺はユグーが、大好きだ」

 それじゃ駄目か? 

 と言葉が続かず、エセルは最後に、ユグノースの顔を眼にした。

 涙で潤んだ金の瞳は責めているように見えた。

「知ってる、そんなこと。僕だって一緒の気持ちだから……でも」

 ユグノースの手を額に感じて、エセルは穏やかに意識を手放していった。

 でも?

 何と言おうとしたのか気になったが、聞き返すことは永遠に不可能となってしまった。



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