四幕 過去の夢
四幕 過去の夢
エセルは夢の中で、ユグノースとの再会を果たしていた。
けれど、夢は切なさと愛しさをこんこんと降り積もらせるだけ。
生きているのが不思議なくらい、胸は苦しい。
この苦しみを、ユグノースはずっと胸の内に飼い続けていたのだ。
ならば、今度は自分が負うべき痛みだと思った。
◇◆◇◆◇
「エセル」
泣きそうなユグノースの声で、エセルは重たい瞼を押し上げた。
肩に怪我を負ったエセルよりも、苦痛に顔を歪ませたユグノースがいた。
ここは都市クニークルスの救護所だった。
施療師に治療をされていたときは、辺りはまだ明るく、人の気配で溢れていた。地べたにシーツを敷いただけの場所に、負傷した兵士がずらりと並び、隙間なく埋め尽くされた。しかし、今は違う。呻き声一つ上げなくなった遺体は、袋詰めにされて次々と運ばれ、閑散としていた。なのに、遠くでは祝杯をあげる賑やかな音が聞こえてくる。
中央で焚かれた炎が、ユグノースに落とさなくていい影を寄こす。
「エセル、ごめんな、本当にごめん」
「しつこい。責められてるみたいで逆に辛い」
ユグノースは、視線をエセルから反らした。まるで、「そうだ、責めている」と訴えているように。
「そんなことより、俺はユグーのが心配だ。どうしたんだよ、今日は。いつものユグーじゃなかった。身体の調子でも悪かったのか?」
今日のユグノースは明らかにおかしかった。
剣を握りたての素人のように、動きが萎縮していた。
そんなユグノースに狙いを定めて敵が向かっていったのを、エセルは眼にした。大いに戦慄し、肩を突かれようがユグノースの元へ駆けつけた。そこら中に転がっていた槍を夢中になって投げ飛ばすと、三本目で敵の胴を射ることに成功した。そこで我に返ったユグノースは、目前の敵を一刀で切り伏せたのだった。
「少し、疲れているだけだよ」
ようやく浮かべた笑顔は今にも剥がれ落ちてしまいそうだ。
「ならこんな所いずに、さっさと宿営に戻って寝ろよ」
「ここにいる」
エセルは呆れ返ってため息をついた。
「あのさ、もしかして容体が悪化するとか考えてる? もうさ、大丈夫だから。絶対に。だから、休んでくれよ。ユグーが死にそうな顔して傍にいると、俺だって休めない」
ユグノースは黙り込んでしまった。
言い過ぎただろうかと不安に思ったとき、ユグノースは首からペンダントを外していた。エセルに覆い被さるように身を伏せてきた。手を回し、エセルの首にペンダントをかける。
「え? くれるのか? 確か、母さんの形見って」
「エセルに貰って欲しい。持っていて、欲しい」
縋るように見つめてくるユグノースの金の瞳からは、今にも光の粒が降ってきそうだった。その瞳に囚われたように、エセルは瞬きも呼吸も忘れた。
「駄目だろうか?」
「だ、駄目、じゃ、ない、けど……あ! なら、こ、これを」
鼓動が速まる不自然さにエセルは戸惑いながら、互いの顔の間に無事な右手を割り入れた。手首には、母が父のためにつくったブレスレットがあった。夜空を丸めたような濃紺色の石を繋げただけのもの。これが、父の形見であることを、ユグノースは知っている。
「そんな大切なものは受け取れないよ」
エセルの手をそっと掴んだユグノースは、自分の額にコツンと当てる。
ユグノースはこうしてよく、母が子に与えるような温もりをくれた。
心地よく思う自分が恥ずかしく、エセルはつい子供扱いするなと文句を言う。けど、今は言えない。言いたくない。
「だったら俺だって受け取れない」
「……それは困る」
「なら」
と、互いに笑みをかみ殺した。
◇◆◇◆◇
季節は春へ移ろい、怠けたような風が漂っていた。
ヴァンデに拘束されて一月あまりが経った。
エセルはおとなしく手首を縛られたまま歩いている。ディーはエセルの肩に乗ってこれから目指す山を見ているようだ。
今はなだらかな丘陵が広がる街道を進んでいる。草を食む羊の群れが転々とあった。雲は、競うように長く伸び、澄んだ青空を背景に、尖った山々が午後の残滓を受けて柔らかに光る。その山を越えれば、ルドの故郷、アルディオ領だ。既に、アルハトス帝国領に入っている。ヴァンデに自由を奪われている点を除けば、平穏な道のりだった。治安警備の巡回兵が徘徊しているためだろう。ルドの領地を乗っ取ったのは許せないが、旅人や商隊、農民にとっては暮らしやすくなったかもしれない。もっとも、税はその分重いだろう。ひたすら働くしかない奴隷だ。
「嘘なんかついてないだろうな?」
先導するヴァンデは、後頭部を向けたままぶっきらぼうに訊いてきた。
「ついてない。ユグーはアルディオ領に向かってるはずだ」
言い方が気に入らなかったのか、縄を引っ張られて転びそうになった。
「ふん。なんだって急に喋り出したんだ」
「ユグーに会いたいから」
冷やかすような口笛が返ってきた。
何だよ。
と口から出そうになったが、引っ込めた。
覚醒したともいえるあの夜から、エセルは逃げだそうかとも考えていた。けれど、ユグノースの命を脅かしかねないヴァンデから眼を離すのはよくない気がした。
拘束されたばかりの頃は、ヴァンデのことを観察する余裕はなかったが、今は違う。蹴られたり殴られたりするが、話しかけていく内に、少しずつヴァンデのことが理解できるようになってきた。
乱暴はするものの、エセルを気遣っている所もあった。ユグノースを釣る餌に対する配慮でしかないだろうが。
考えてみれば始め、無理矢理にでもユグノースの行き先をエセルの口から聞き出せば良かったのだ。いずれ話し出すと思ったかもしれない。まさか自らエセルに衝撃的なことを言っておきながら、労っていたというのだろうか。
やっていることがいちいち矛盾しているのだ。思い出せば、川に顔を突っ込まれたのは飲め、ということだったのだろう。野宿ばかりしているが、たまには寝台のある宿をとり、食事もさせる。
とはいえ、警戒心を解くわけではない。手首の皮がめくれるほど、縛られてはいるし、まだヴァンデがユグノースを追い回す理由を知らないのだから。
やはり、同胞の復讐、だろうか。
ヴァンデがユグノースと同じ、ボアース七部族のルメリオ族だとは聞いた。ただ、関係が何なのかはいまいち分からない。年齢的には上だろう、たとえば兄とか? それとも、友達だった、とか?
エセルは身体の内側まで除く勢いで、ヴァンデの後ろ姿を見つめていた。そして、幾度目かになる質問を投げた。
「なぁ、どうしてユグノースを捜しに来たんだ?」
返ってくるのは毎度、「ふん」と鼻で笑うだけのもの。
「ふん。まぁ、宣誓の血を贈られたおまえには完全に関係がないともいえんな」
いずれ別の返事が来ると信じていたが、一歩どころか半歩しか進めない答えだ。
「だがな、言っておく。そんなもの贈られたって、結婚など認められない。それは、いずれアイツの子を産む女が受け取るものだ。おまえが持ってたら、そこで血は途絶える」
エセルはほんの一瞬、頭が空っぽになった。あちこち穴が空いて、澄んだ空気がするする通り抜けた気がした。
どうしよう。
直接暴力を振るわれた分けでもないのに、やけに身体中が痛い。
駄目だ、いけない。これ以上探るな。
エセルは以前の自分ならば、と想像した。
「結婚? 何言ってるんだ? 男同士ができるわけないだろ、気持ち悪い」
ヴァンデは足を止めて、振り向いてきた。
糸のような細目が、エセルを捕獲してくる。
「そういう仲じゃないのか?」
「……は? そういう?」
途端ヴァンデは、白けたような顔をして歩きを再開させた。首をひねりながら何か呟いている。
エセルは視線を、雄大な自然に向けた。
ちっぽけな悩みだと言い聞かせるに値する景色だった。だいたい、以前なら怒鳴る場面だ。
自分はどうなってしまったのか。
ユグノースを想うと辛い、心が痛い。なのに、救われるような温かさも伴う。顔が、なぜか火照ったように熱くもなる。その頬を隠すように、ディーが頭を擦りつけてきた。
(どうしたんだい? 娘のように頬を赤らめてさ)
「そ、そんなんじゃない」
エセルは努めて小声で言った。ニャアニャア鳴く猫と喋っていると、ヴァンデが不審というか不憫そうに見てくるのだ。
「それより、ディーこそ近頃おかしいじゃないか。どうしたんだ?」
ロデンのようにとは言えないが、ディーも喋る方だった。なのに、口数が減っていた。 何か考え事をしているのか、遠くを眺めていることが多い。
そういえば、ロデンには酷いことをした。荷を守る護衛に、荷を破壊されるなど、とんだ笑い話だ。あの後どうなったかは知らないが、恐ろしくなって逃げたのだろう。無事に着けただろうか。と、心配する権利もないと気づく。
(ちょっと、色々と反省をしつつ、これからどうしようか悩んでいるんだよ)
「ディーが反省? よく、分からないけどさ、早く解決してくれよ。前みたいにディーのお喋りに付き合いたい」
(……え)
「それにさ、聞きたいことがあるんだ」
エセルはディーのクリッとした、月色の瞳にまじまじと見つめられた。
(な、何だろうなぁ、聞きたいことって)
逃げるようにエセルの肩から飛び降りたディーは、せわしなく四肢を動かして歩き出した。
◇◆◇◆◇
月の欠片が木の葉の隙間から窺えた。
昼を過ぎた頃、山に入り、陽が沈むまで山道を進んだ。所々に野宿した焚き火のあとがあり、その内の一つに今は腰を落ち着けていた。
二人で手分けしてかき集めた枯枝に火打ち石で火を熾し、向かい合って座った。自分の面倒は自分で見ろと、保存食を持たされていた。細かく刻んだ干し肉を、少しばかり口に放り込んで終わりとする。腹は空いていたが、最低限で押さえようとするのは、習慣かもしれない。
金に余裕があり、都市で過ごしていれば、必要のないこと。兵役を免除される代わりに、都市民は税を払って傭兵の衣食住の、食と住の部分を保障しているのだから。もっとも、酒や主食のパンや肉には後で給金から差し引かれる。
ヴァンデに殺されるとはもう危ぶんでいない。しかし、野宿が続き、いつどうなるかも分からない現状だから予防するに限る。
そのヴァンデは、幹に背中を預け、腕を組んでうつらうつらしていた。かなり、警戒心はゆるくなっている。変な男だと、エセルは肩を竦めた。
手首の縄は解かれていた。火の番をしろということである。代わりに、腹部に回された縄で背中をべったり幹にくっつけられている。
寝息さえ聞こえてきたヴァンデを、エセルは恨めしげに見ていた。
「コイツってさ、ユグーの子供の頃のこと、知ってるんだよな」
ふと、そんなことを思った。
「どんなだったんだろうな」
エセルの知らないユグノース。それをヴァンデ、ラード、ルドは知っている。
「一番だと思っていたのにな」
こんな滑稽なことがあるだろうか。世界に取り残されたような気分だ。
思えば、ユグノースは自分のことをあまり語らなかった。エセルにとって、重要なのは、同じ境遇だったということ。それさえ分かっていれば、どこの出身で、家族構成はどんなだったなど、些末なことだった。語りたくなければ語らなければいい。全てを知らないと、気が済まない訳じゃないのだから。
否?
綺麗事かもしれない。他人の口からユグノースのことを聞かされるのは、エセルにとって屈辱に似た感覚をもたらした。今は、知りたい、知り尽くしたいとも思う。だが待て。傷口をえぐるような真似はしたくない。苦痛に歪む顔はさせられない。させたくない。むしろ、忘れさせる存在でありたい。
(違うよ、エセル君。一番だからこそ、だよ)
ディーは、炎の灯りを背中に浴びて、エセルの投げ出した足元にいた。お行儀よく座ってる様は、気のせいか緊張して見えた。
「励ましてくれるんだ」
(べ、別に? 事実だし。だって、ユグノース君がエセル君を想う気持ちは半端じゃないんだから。私を感心さえさせたし……だから、エセル君に気づかせたくてちょっかいをかけて)
ディーは言いながら、頭をだらんと下げてしまう。
「どうした? らしくないな」
エセルは手を伸ばして、ディーを招き寄せるように指を動かした。
(やめてくれる? こう見えても猫じゃないんだから)
「と、言われても」
顔を反らしながらも、ディーはとぼとぼ歩いてきた。指先に鼻面を押しつけてから、頭を掌に預ける。
(ねぇ、今言ったことで、何かひっかからなかった?)
「え? ええと、恥ずかしいことを言うなぁ、とか」
(あ、あぁそう。ま、いいや、とりあえずエセル君の聞きたいことってのから始めようか)
エセルの手から離れて、ディーは再び大人しく座った。
「あのさ、今、過去に戻ってきてるんだよな? このまま進むと、あの死にかけてた現実は無くなるのか?」
(エセル君……、君、案外馬鹿じゃないんだね。過去にいることを忘れていたぐらいだから、何も理解できてないと思ってたよ)
「し、仕方ないだろ。馬鹿だからすぐ忘れるんだよ。それに、あのときはディーが死んじゃうかと思ったし」
拗ねたように言うエセルを、ディーはぴくりとも動かず見上げていた。
(やっぱり馬鹿じゃないか。だって私は神族なんだよ? 初めに言っただろ。私には実体がないって。もし何かあっても、死ぬのはこの猫だよ)
「何だか納得いかないな。どっちも可哀想だ」
猫も、ディーも。
(君ってさ、基本、優しくて泣き虫だよね。無理に強がっちゃってさ。人を斬ったときなんか、毛布に潜って声を殺して泣くだろ。なのに、慣れたふりをしてさ)
まるで見てきたみたいに言う。
「何年も前の話だろ、それ」
確かに、喜んで戦場に出ているわけではない。しかし、現実問題そんな甘いことは言ってられなかった。慣れるしかないのだ。
無垢なままで生き抜ける奴などいない。恐れていては、嘲弄されるのがおちだ。振り向いても誰もいない場所にはいたくない。
(誉めているんだよ? 私は儚くて愚かな人間が好きだもの)
素直に感謝できない台詞だ。
げんなりしたエセルは、前からずっと気にしていたことを口にする。
「あのさ、ディーって一体何の神なんだ?」
尖った耳をぴんと張って、ディーは立ち上がった。その場で一回転してから、エセルに背中を向けて座り込む。
(エセル君、この世界にはね、大きく分けて五つの島があるんだ。その内の一つが、ヴァリア―ムとボアースさ。この世に太陽が一つしかないように、私達神族も君らにとって唯一の存在さ。つまりだね、世界には太陽神ヴューは一人しかいないのに、君らは五つの島それぞれにいると思っているんだよ)
エセルは呻りながら、眉間に人差し指を乗せる。
「ええと、太陽神ヴューが五人いると思い込んでるってこと?」
(そうそう。さらにだよ、君らはいもしない神を創造してどんどん増やしていくんだ。勝手に名前までね。だからだよ、神族の数が増えていくのは)
どうやら責められているようだが、渋面をつくるエセルにはさっぱり意味が分からなかった。
(そんなんだから、名前がちぐはぐだったり、宿ってもいない神を信仰したりする。例えば、もともと虹になんか神はいなかった。あれはただ、アティアとヴューが気まぐれに起こす現象の一つにすぎないんだ)
虹、というと空にかかる七色の橋。
実際眼にしたこともないので、嘘みたいな話としか頭に入ってなかった。
「ディーは虹の神なのか?」
後ろ姿のまま、ディーはふるふる頭を振った。
(完全には否定できないんだけどね。というのも、別の島ではそう呼ばれているから。私は、本当は、この星そのもの)
まっすぐ空を見上げたディーに誘われ、エセルもそれに習う。
木の葉に遮られて狭まった夜空には、チラチラと光の粉が散っていた。
「星? って、あの星?」
(違う。夜空を彩る星は、別の世界の輝きでしかない。うん、でも、そうだね。ある意味そうともいえるかな。エセル君、聞き流して構わないけど、このね、ずーっと空を越えた先には宇宙という広大な闇が果てなく広がっているんだ。そこには私のように様々な世界を抱えた星が存在しているはず……そこには、私と同じ存在がいるだろうか?)
ふいに風がざわめいた。思わず顔を伏せたとき、一心に空を見つめるディーに眼を奪われた。
問いかける形で終わったが、別にエセルに答えを求めている訳ではないのだろう。たぶん、空の向こうに、だと思えた。
うちゅう。
そんな単語はもちろん耳にしたこともないし、夢物語を語られているような気がした。けれど、嘘だとは思わない。なぜなら、ディーが。
「寂しい、のか?」
これだけは、確実にエセルの胸に届いた。
(そんなことはない。ないよ。こうして好き勝手なことをして、結構楽しくやっているし。まぁ、本来の姿を忘れられているのは少し残念だけど)
ディーは空から正面の焚き火に顔を向けていた。小さな背中が泣いているように見えるのは気のせいだろうか。
(あとね、私は他の神族たちと違って世代交代ができないんだよね)
「せ、世代交代? 神族って、その、世襲制なのか?」
まるで人間と変わらないではないか。
エセルは心底仰天して眼を瞬く。
(言っておくけど、私達には身体がないから性別もない。君らにあるのは生殖のためだよ。ならどうやってっていうとだね、神族は自分の後継者を探す目的で、人間の暮らしに入り込むんだ。例えば、私のように動物に入ったりね。人間に入ることも可能だけど、少々条件がある)
「え、ちょっと待ってくれ。人間が、神族になれるのか?」
(うーん。まぁ、そう捉えてくれていいよ。私からいわせてもらえれば、私以外はどちらも一緒さ。神族と人間の違いは、肉体があるのとないのとで、持てる力が違うってだけのことだからね)
ディーが喋ると大した話じゃないように思えてしまうが、すごい事を淡々と言っている。とても神族と人間が一緒などと、くくれるものではないが、エセルは次の疑問を上げる。
「どうしてディーだけはできない?」
ディーは顔だけを振り向かせてきた。
(私は世界そのものだからね、交代なんかしたら一度滅びるよ? 星が生まれ変わることは出来ない。ちんぷんかんぷんだろうけど、例えばあの月、記憶する限りでは二十八個目の月だったりする。交代期間は、まぁそれぞれに託してある。一千年間だったり、わずか三百年で交代するのもあった。あくまで他の神族は私という世界の中で存在しているからさ)
「ディー」
エセルは精一杯腕を伸ばして、ディーを抱き上げた。そのまま胸に寄せて、空気を抱きしめるように優しく包み込んだ。
(な、なんだいなんだい)
「分からないけど、こうしたい気分なんだ」
ディーは居心地悪そうに身じろぎしてから、エセルの頬に寄りかかった。
「俺、今、この星を抱きしめているってこと?」
(……ふん。随分としゃれた言い回しをするじゃないか。エセル君のくせに)
枝が爆ぜる音に、エセルは炎の勢いが弱まっていることに気づいた。ディーを支えながら、新たな枝を放った。
(エセル君、誤魔化してることがある)
聞き返そうと口を開いたとき、エセルの腕からディーは飛び出てしまった。目で追うと、ディーはエセルを縛り付ける縄を噛み切ろうとし始めた。
(もう無理。白状する。私はね、暇つぶしによく人間の死に際にみるっていう走馬燈を一緒に覗くんだよね。ほら、ざざーっと過去の記憶を漁り出すだろう? それをね、どんな人生を駆け抜けてきたのか拝見させてもらう。一種の演劇さ、舞台だよ)
一心不乱になって縄を切ろうとするディーから、聞こえてくる言葉とは思えなかった。エセルは今、はじめて神という崇高な存在を感じ入ったのかもしれない。
「そ、そうなんだ。それで、俺の走馬燈ってのに……ん? ちょっと待て。じゃぁ、今俺がいるのは? ここは過去じゃないのか? で、でもこんな過去は経験してないから思い出しようもない」
(気づいた?)
悪戯が発覚したかのような調子で聞いてくる。
(実は、私が覗いたのはエセル君じゃなくて、彼の、ユグノース君の方なんだ)
「ユグーの方?」
頭の中は想像もしたくない結論をエセルに叩き付けようとしている。
たどり着きたくない、その答えには!
「なら、なら。ここは? 過去じゃないのか?」
(ごめん。君を必死にさせようと嘘をついた。ここは、過去ではあるけど、あり得たはずの過去を追体験できる、私が用意した夢の世界だと思ってくれた方がいい。だから、エセル君が死にかけてた戦場での現実は消えたりしない)
「ま、待って、くれ」
夢の世界などと言われても、縛られていた手首はじくじくするし、腹だって空いている。殴られた頬も痛ければ口の中だって切れたまま。肌には夜風がしみるし、心臓の鼓動だって感じる。生きていると実感できるものばかりじゃないか。
(私はね、ユグノース君の過去を見て、エセル君に興味をもった。そしたらどうだい? 君まで死にそうになってるじゃないか。全く別の場所で、互いを想い合う君らに相応しい未来を呼び込めないものかと思ってね)
どんどん、ディーの言葉がエセルの身体に染みこんでいく。
ペンダントを握りしめたエセルは、面識のないユグノースの母に祈った。
ユグノースを守ってくれ、と。
(ユグノース君を救うことが出来れば、未来を変える可能性は高まる)
ようやく千切ることができたディーは、すぐに二本目にとりかかった。
(エセル君、考えても仕方ないときは?)
突っ走ればいい。
あぁ、そうだ。
エセルはディーと出会ったときのことを思い出した。
夢や幻だろうが構わないと思ったことを。
「わかった」
(よし!)
ディーが黒い前足をエセルに伸ばしてきた。エセルもそれに従って、握手をした。
(ほら、君も手伝ってよ。まずはここから抜けだそう。このままじゃ身動きとれないからさ。あ、この男はユグノース君を殺しにきた訳じゃないからほかっておいていいよ)
じゃぁ何しに来たのかと疑問に思ったが、今はそれどころではない。
とはいえ、エセルは剣を無くしたまま。目前の火を運べるほどの近距離でもない。頼りになりそうな石は見当たらないし。
(いいものがあるじゃないか)
ハッとなって顔を下へ向けると、ユグノースのペンダントが話しかけるようにぶら下がっていた。