二幕 二人の追跡者 ~1~
二幕 二人の追跡者
旅には、障害がついて回るというが、一月あまりになるエセルの旅はまさに波乱続きだった。
目的地であるルドの故郷は、都市エークフェルスから南西に位置し、山一つ越えた先にある。アルハトス帝国属領アルディオという。
順調にいけば二月で届く距離だが、馬を失ったエセルは未だに中間地点にすら届いていなかった。
今はというと、降りしきる雨の中、ぬかるみにはまった馬車の車輪を動かそうと懸命になっている。
(エセル君って、見てて飽きないなぁ。あの時なんかさ、思い出すだけで十年間は笑える自信があるよ)
帆の張った荷台から聞こえてくるディーの声が、何を言っているのか瞬時に思い浮かび、エセルは忘れるためにより力む。
それは、馬を失った原因の出来事だった。
街道を順調に進んでいたら、突然悲鳴とともに女が目の前に飛び出してきたのだ。それも服を乱して。すぐに、いかにも柄の悪い三人の男がやってきた。察したエセルが撃退してやると、女はお礼にぜひ一泊してくれと言ってきた。陽も沈みかけていたので、世話になることにした。その夜、襲われたのだ。女に。エセルが。
一糸まとわぬ姿の女がいきなり真上にいたときの恐怖? 驚愕? といったら、とんでもないものだった。もちろんその場は一心不乱になって逃げた。馬のことを忘れ、さらに財布も奪われて。おそらく、一連の出来事は仕組まれていたのだろう。だから、戻っても馬は既にいないと思って諦めた。
それからは、いや、それからも散々な目に遭った。金を無くしたので、街道を行く商隊に雇ってもらい、小金を稼いだ。とはいえ、進路がちぐはぐだったりするので遠回りになった。だが、逃せば次にいつ稼げるか分からないので我慢した。ある程度稼げば、すぐに辞めて元の進路へ修正していく。こうして、今に至っているわけだ。
「お兄さん、もう少しだよ!」
「がんばって、おにいちゃん」
「ほら、動くよ、動く」
運命のいたずらとしかいえなかった。やっと乗せてもらえる馬車に出会えたというのに、御者以外は女子供ばかりで、力仕事は望めない。
乗客達のかけ声の通り、むくわれる兆しが見えてきた。車輪が嫌々ながらも動き出したのだ。一際高まった声援を耳にしたとき、エセルの足は泥につかまり、そのままうつ伏せに倒れた。
背中を打ち付ける雨が、強まったと思うのは気のせいだろうか。
◇◆◇◆◇
体調を崩さないという方が奇跡に近かい、旅程だった。決定打となったのは、二日前の雨だ。けれど、代わりに良いことがあった。それは、あの馬車の御者が親切だったということ。乗賃も、身内がやっているという宿にも無償で泊めてもらえたのだ。さらに、看病もしてもらい、涙が出るほど有り難かった。
(まだ寝てた方が良さそうだけど。大丈夫かい?)
額にのせてあった布を取り、エセルは寝台から起き上がった。
「平気平気。二日も寝込んでいられないって」
なんて強気に言うと、悔しいことに咳が出た。喉を鳴らして誤魔化してみると、今度は鼻水をすすることになった。
(おいおい、駄目駄目じゃないか)
「い、いいんだよ」
頬をぱちんと叩き、身支度を調える。といっても、外套を羽織り、ベルトに剣を帯びるだけ。それから、毎朝かかさずやっていることをする。
首にかけたペンダントを取り出し、額に押しつけて祈りを捧げた。
エセルが最も祈りを捧げる神は、戦の神ヴァルドアだ。人々は、その場その時によって、信仰する神が違う。言い方はぞんざいだが、選びたい放題なのだから。
今、エセルが祈るのならば、旅を導く神か、運を寄せる神か。どちらも、旅をしてから耳にしたが、もう名前を忘れてしまった。それに、祈りを届けるにはそれぞれの神が好む鉱物を身につけなければ効き目は弱いという。もっとも、そう易々と手に入れられるものではないので、普通の人はそれに近い色を持つ。
エセルが今手にしているひし形のペンダントは、戦の神ヴァルドアが好む色を、真ん中の窪みにはめ込んだものだ。
(ねぇ、がっかりするかもしれないけど。それって、ヴァルドアが食べる紅玉じゃないよ)
額から離し、掌にのせて見つめていたエセルに、ディーが茶々を入れてきた。
「別にがっかりしない。そこは重要じゃないから」
なぜなら、ユグノースに貰ったものだからだ。母親の形見だったという貴重な装身具を、エセルにくれたのだ。代わりにエセルがあげたのは、父の形見のブレスレットだった。贈り合った時のことを思い出すと、胸がぎゅっとなる。
「ところで、神族って鉱物を食べる、のか?」
(食べるよ。あぁ、安心して? 色が近ければそれにも寄ってくるから。たまにね。気まぐれに。迷信くさいけど、以外と人間って的を射てるよねぇ。ちなみにねぇ、ヴァルドアが紅玉を好きになったのって、血の色だからだよ)
一拍遅れてから、エセルは全身に鳥肌を立たせた。
階下の食堂へ向かったエセルは、有り難く朝食を頂いた。
「たまには良いこともないとやってられないよな」
ディーに話しかけていると、献身的に看病をしてくれた宿屋の娘がやってきた。土色の髪を一つに束ねた、純朴そうな娘だ。十四、五歳ぐらいだろうか。
「体調はいかがです?」
「あぁ、おかげで助かった。ありがとう」
大きな瞳をさっと伏せて、娘は食器を片付けだした。
「ごちそうさま。すごくおいしかった」
つやつやなロールパンも、ポタージュスープも、脂ののった少し焦げたベーコンも美味しかった。絞りたてというミルクも体内を隅々まで潤してくれた。これで、体力がつき、もっと体調も良くなるだろう。
「あのさ、一つ訊きたいことがあるんだけど、いい?」
盆に全てのせ終えた娘は、きゅっと口元を引き締めて頷いた。
「俺くらいの背でさ、金色の髪をした二十歳ぐらいの男、この宿場町通らなかった?」
これまで進路は違えども手当たり次第、立ち寄った街や村で訊ねていたことだ。
空振りばかりだったが、元の進路に戻ったので何か掴めるかもしれない。
娘は、すぐに頭を振らなかった。それどころか、思い出そうと眉間に皺を寄せだす。
「見た、のか?」
早駆けしだす自身の心拍にますます煽られるようだった。
しかし、娘はこの問いには否定した。
拍子抜けしたエセルは、紛らわしい反応をしないでくれと文句を言いたくなった。
「でも」
でも?
「同じことを訊かれました。ボアースの人だと思います。白い髪と紅い眼だったので」
ぼんやいする頭の中へ、冷水がゆっくり注ぎ込まれていくような感覚だった。心音が一時消えたかと思えば、力強く打ち鳴りだす。
娘が恐怖に引きつる顔など眼に入らず、エセルは剥き出しの殺気を放った。
◇◆◇◆◇
新たな悩みの種を蒔かれて、もう一月が経過していた。
今は、残り少ない金を使って十日ぶりの温かなご飯にありついている。
殺風景な酒場にはエセル以外に三人ほどの客しかいない。夕暮れというのを抜きにしても、かなり陰気臭い。石床のあちこちに割れたままの器や、転がったままの酒樽が散らかっている。靴裏で床を擦れば埃が舞い上がりそうだ。
別に、それだから食事が進まないわけではなかった。腹が減っていれば何処だろうと食べられる。原因は、蒔かれた種が芽吹いているからだ。
エセルはぼんやりと食事を進めながら、鬱々と考え込んでいた。
これまで通り行く先々で訊ねると、やはりユグノースを捜すもう一人の影がはっきり確認できた。
白髪に同様の肌、血の色をした両目に、厳つい体躯、背中には大振りな剣。
ボアース人の特徴をそのまま例にあげたような正確さ。
ユグノースはボアース人に追われている? だとしたら、なぜ? ということになる。追われるほど憎まれるといえば、エセルにだって覚えはある。もしそうなら、相談されるはずだから、別の理由か? あぁ、考えたってさっぱり分からないが、エセルの前から姿を消したことと関係があるのだろうか。
(ねぇ、さっきからカリカリ食べてるだけで減ってないよ? ほら、あっちの鼻のデカイ男みたいにスープに浸して食べるんじゃないの?)
ディーは、チュニックの結び目に入っている。気のない返事をしたエセルは、大きな溜息を吐く。
「あたっ」
ディーの頭が、エセルの顎をど突いた。
「な、何するんだ。舌噛んだじゃないか、痛ったいな」
(あのさ、何度も言ったけど、ユグノース君に会わなきゃなーんも解決しないんだから、それまで考えるのやめなよ。頭に負担かけちゃいけないって。ため息ばっかしてさ、うざいよ、うざい)
ディーに小うるさく叱られても、悩んでしまうのだからしょうがない。
頭を空っぽにして追い続ければいいと思うが、そんな器用なことはできないのだ。
エセルは小さく噛みちぎったパンを、スープにつけて、ディーの口元へ寄せた。頭をエセルの首にぶつけてきたが、ペロッと舐めてから仕方なさそうに食べた。
「ディーは、何の鉱物を食べるんだ?」
(私? 本当は青玉なんだけどね、人間達は勝手に蛋白とか……危ない危ないっ、あぁ良かった。エセル君が無知で)
エセルは言い返すことも出来ず、乾いた声で笑った。
「よぉ、兄ちゃん、ちーといいか?」
エセルの返事も待たず、親しげに話しかけてきた男はエセルの横に座った。
細面に鷲鼻が目立ち、顎には髭が生えていた。フード付きのケープを羽織り、太皮のベルトには小さな袋がずらりと吊してあった。
隣に並んで座ってもエセルが見下ろす格好となるので、かなり背の低い中年の男だ。席から持ってきた酒瓶を飲みながら陽気に訊ねてくる。
「ひょっとしてよ、腕に覚えがありゃしないか?」
エセルが怪訝な顔をすると、男は所々抜けた歯をにぃっと見せてきた。
「力を貸して欲しいんだよ。実は俺ゃよ、行商をやっとるもんなんだが、ここに来るまでに雇っていた護衛が使い物にならなくなっちまったんだ。次の町まで頼まれてくれんか? もちろん金は弾むからよ」
エセルはパンを噛み砕きながら男の話を頭の中で吟味する。
「方角は? 南か?」
男はエセルの手をもぎ取って、「あぁ」と頷いた。
「よろしく頼む」
「恩に着るぜ! そうだ、俺ゃはロデンだ。こんな寂れた村であんたみたいな若者見つけて運がいいぜ。きっとエルトゥーア神の導きだな」
運を呼ぶ神の名を思い出しながら、エセルも賛同した。
「俺はエセルだ。こっちも路銀が足りなくなっていて、助かったよ」
ロデンは豪快に笑い、そのまま大声で酒の追加を頼んだ。
「雇い主として、エセルのことを聞かせてもらおうか」
馴れ馴れしく肩を抱いてきたロデンは、普通に笑っているのだろうが、品のない笑顔に見えてしまう。
「あぁ、俺は三大都市に雇われているルド傭兵隊の隊員だ。今は訳あって離れているが」
ロデンは強かに卓を叩いて興奮する。
「ルド傭兵隊! そりゃいい! ルドっていえば、神に身を捧げた聖人みたいな男だって聞くぜ? 領民の為に神官やめて傭兵になったんだろ。そこらの荒くれ者とは違うよな。農民も騎士みたいになれるって聞くしよ。ルド傭兵隊は良心をもった騎士みたいな奴らばっかりなんだろ? そもそもよ、今回襲われたのもきっと傭兵を解雇されたような失業兵なんだぜ。大違いだよな」
噂は美化されているが、ルドの件は概ねあっているのでエセルは曖昧に微笑んだ。
「それにしても本当に助かったぜ。もう一人いるんだがよ、そいつちーっとも喋らねぇから息が詰まりそうなんだよ。それに訳ありっぽい感じだしなぁ。まぁ、腕は立つから文句言えねぇけど」
どうやらロデンは話し好きのようだ。我慢していた分よく喋っているのだろう。
「他にいたのか」
「あぁ、唯一の生き残りだ。無口な奴だがそいつのおかげでまぁ、俺と荷だけは助かった。今は向かいの宿で休んでいるんだ」
エセルはその人物に会うのが楽しみになった。
「そうだ。俺からも訊きたいことがあるんだが」
すっかり癖になったので、訊かずにはいられなかった。
ロデンは運ばれてきた酒をエセルのコップに注ぐ。
「いくつでも質問してくれ」
「実は人を捜しているんだ。金色の髪をした俺ぐらいの背の男と、俺と同じことを訊ねた大柄のボアース人だ。背中に大きな剣を帯びているらしい」
ロデンはみるみる眉間を寄せて意味ありげな態度を見せた。
「見覚えが、あるのか?」
胸を高鳴らせて慎重に問うと、ロデンは髭を撫でながら声を絞り出す。
「というか、向かいの宿にいるぜ」