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一幕 未来への旅 ~2~

 

 ◆◇◆◇◆


 瞼を下ろしてようが、日差しの明るさも、温かさも十分感じられた。

 耳には聞き慣れた街の騒音が届く。馬の蹄、石畳を軋ませる車輪の音、活気溢れる数多の声と息づかい。周囲には、生きていると実感できる音で満たされていた。

(あぁ、帰ってこれた)

 と思ってすぐ、エセルは妙な違和感を覚えた。

 慌てて瞼を押し上げると、見覚えのある街並みが広がっていた。

 茶褐色の屋根がいくつもひしめき合い、それらを囲む堅牢な城壁が遠目に確認できる。等間隔にある物見塔には、青と白の旗がはためいていた。

(都市エークフェルス)

 ルド傭兵隊の雇い主である都市の名だ。

 エセルがいるのは半円を描いたような階段を上がった高地だった。近場に眼を向けると、階下には帆を張った商店が蛇行するように連なっていた。

 エセルは首を傾げながら後ろを振り返った。

 キラキラと飛沫をあげる噴水があり、花壇と大きな木々が明るく賑わっていた。建物ばかりの市内にある憩いの場所だ。

 そこから北の道を辿れば、都市を見下ろすように建つ領主の城へ着く。東は貴族や富裕商人の地区へ。西には神殿と傭兵隊の宿舎がある。

(いつ、帰ってきたんだ? 確か、同盟都市シーメニアに招集がかかって)

 思い出しながら、エセルは自身の身体を見下ろして、ぎょっとした。

 血だらけだった。

 お気に入りの草色の外套はびりびりに切り裂かれ、泥や血で散々な有様だ。麻の上衣も似たようなものだが、素肌は洗ったばかりのように綺麗で傷一つない。腰から下は胴鎧に守られたまま。左の太股にべっとりとした血痕があるのに、痛みはない。

(死んだ、はずだ)

 ストンと落ちてきた答えに、エセルは納得した。ならば、今見ているのは冥王神ルゥトのご配慮だろうか。


「死ぬのが怖くなったんだ。だから、僕は別の生き方を選ぶ」


 突如耳に入ってきた声に、エセルの意識は根こそぎもっていかれた。

 噴水の方から颯爽と歩いてくる男がいた。

 陽光を独り占めにした金色の髪。筆をはしらせたような切れ長の瞳はどこまでもまっすぐ前を向いていた。高い鼻梁に柔らかそうな頬も、少し尖った顎と引き結ばれた唇も、男の美貌を完璧なまでに高めている。中性的な顔立ちながらも、引き締まった体躯をしており、足さばきもきびきびと凛々しい。麻シャツの上に太股まであるチュニックを重ね、さらにフードの付いた外套をつけていた。

 まぎれもなく、ユグノースだった。

 横をすれ違っていくユグノースに、エセルは放心状態から戻る。

(ユグー!)

 叫ぶのだが、ユグノースは全く聞こえていないようだ。

 どうしてっ! と叫びかけたとき、ふと、後ろが気になった。

 まさか、と思った。

 果たしてエセルの勘は当たっていた。

 噴水の前には、置き去りにされた影のように立ち竦む、エセルの姿があった。灰を塗り込めたような薄暗い髪を大ざっぱに後ろに束ねてある。二十歳になっても子供くさいといわれる幼稚な顔つき。低い鼻にややつり上がった空色の瞳に薄い眉毛。不機嫌そうに下がった唇は拗ねたように尖っている。

(動いてくれ)

 エセルは今、過去をみているのだろうか?

 だとしたら、切に願わずにはいられない。動いて後を追いかけろと。これが一時の夢だとしてもだ。

(頼む! 後を追ってくれ)

 エセルは置物と化した自分に縋りついた。肩に掴みかかるも、すり抜けて触れることができない。神に祈るように、エセルは自分を見つめた。すると、空色の瞳がぎょろっと動いた。

「動けるよ、エセル君」

 不敵に微笑みだした自分の顔を前に、エセルはぐんぐん瞳を丸く縮めた。

 置物だったエセルは大きく背伸びをして、空気を胸いっぱいに吸い込み出す。それから、唖然としたエセルに溜息を吐きつける。

「はーやれやれ。最初はいつも面倒なんだよ。ねぇ、エセル君、まだ気づかない? ここはね、過去なんだよ。君が戻りたいと強く願った過去だよ」

(は? か、過去?)

 意味も分からず口に出したエセルに、目の前のはエセルはにっこり微笑んで頷く。

「そうそう。さっきまでエセル君は戦場で死にかけていたよね?」

 エセルは息を飲み込んで、何度も頭を縦に振った。

「正確にはまだ死んでいないよ。まぁ、死にそうではあるけどさ。ふむ。訳が分からないって顔してるね。無理もないかぁ。けどさ、感謝して欲しいね。未来を変えられるチャンスをあげようっていうんだから」

 集中して耳を傾けているというのに、さっぱり理解できない。

「ユグノース君を追いかけたいんだろう? 知りたいんじゃないかい? どうして、君の元を去ったのか。君に、一体どんな隠し事をしていたのか」

 途端、エセルの瞳に鋭い光が宿った。

(あんたは一体何なんだ?)

 睨むエセルと、満足そうに微笑するエセルが数拍間、見つめ合う。

「私はディンフェストさ。エセル君たちが呼ぶところの神族の一人だよ」

 盛大に眼を瞬いてから、エセルは居心地悪く肩をそわつかせた。

 世界は多くの神々の加護を受けて息づいている。正確な数も分からないほどの神々に。エセルのような、学のない者が知っている神族は限られていた。

(ディンフェスト?)

 エセルの記憶には見あたらない。これが、元神官だったルドや読書が趣味のユグノースならば知っていただろう。

「あぁ、知らないんだよね。いいさ別に。それより後を追いかけないと」

 エセルは頭のてっぺんからじわじわと現状を受け入れ始めていた。つま先まで届くまでにまだ時間がかかりそうだ。

「あーもう! 理解できなくてもさ、現実なんだから。とにかく今は素直に受け入れて突っ走れよっ! 頭悪いんだから負担かけちゃいけないって」

 ぶつけられた言葉はエセルの頬を強かに打った。

 確かに、考え込んでもしょうがない。これはただの夢や幻かもしれない。だとしても、それが何だ? 望んでいたはずだ。過去に戻ってやり直したいと、切に。

「いい顔つきになってきたね」

 エセルは決然と頷いた。

 自分に対して言うようで気遅れするが、ディンフェストという名のエセルは眩しい笑顔をぱぁっと広げた。

「じゃぁ、まずは身体を返すよ。私は実体がないからさ、器に入らないと会話できないんだよ。あぁ嘆かわしい。ええと、その辺にいい器はないかなぁ?」

 おしゃべりなディンフェストは、手でひさしをつくって辺りを見渡した。

「よし、あの魚をくわえた猫にしよう。うんうん。あれなら付いて行くのにも丁度良さそうだ」

(付いていく?)

 何気なく口にしたことに、ディンフェストは眉をつり上げた。

「当然だろう? 誰が用意してあげた舞台だと思ってるんだい? せいぜい楽しませてもらわないと割に合わないよ。まったく」

(す、すまない)

「ま、いいさ。頭が悪くとも従順な人間は嫌いじゃないよ。さぁ、エセル君! 過去を変える旅に出ようじゃないか」

(あ、あぁ。よ、よろしく頼む)

 ぎこちなく返事をすると、ディンフェストの入ったエセルの身体がぐらりと傾いだ。手を伸ばした瞬間、エセルの五感はより鮮明によみがえっていった。



「エセルっ!」

 たった今、目が覚めたように、エセルは双眸を大きく広げた。

「その猫捕まえてくれ、エセル!」

 食材を詰めたかごを両手で抱えて走ってくるのは、エセルの顔見知りだった。行きつけの酒場で下働きをしている少年だ。

 エセルが呆然と立ち尽くしていると、胸に黒い影が飛び込んできた。咄嗟に抱きしめた腕の中には、舌でペロリと鼻をなめる黒猫がいた。

(おいおい、何をぼんやりしてるんだい? とっととユグノース君を追うんだよ)

 頭の中に響いてきた声と、耳に入ってくる猫の鳴声に、エセルは困惑する。

(私だって! さっそく忘れたとは言わせないよ? また最初から説明なんかしてられないって!)

 腕の中で、黒猫が暴れ出した。

「ディンフェスト?」

(そうだよ! あ、それ長いからディーって呼んで)

 エセルは呆けていた口を引き結び、頷く。ディーをしっかり抱え直して、ようやく走り出した。

「お、おお? おおい! ちょっ、エセル」

 すっかり存在を忘れていた少年に、すれ違いざま、腕に絡みつかれた。

「その猫、親方の前に引っ立ててやらないと俺が怒られちまうよ。やっと、買えた魚だったのに。俺が余所見してたせいだって、殴られるぅ。余分の金はもらってねぇんだよ」

 いや、どちらにしろ怒られるだろ。

 という突っ込みを、エセルは声に出さず少年の手を退けようとした。が、なかなか手強い。

「悪いけど急いでいるんだ。それに、この猫は渡せない」

「なら! エセルの猫なら責任とれよ」

 救いを求める少年の瞳は一転し、エセルを非難してきた。

 相手は子供だ。それに今は、説教をしている場合じゃない。

 エセルは頭を掻きむしって、腰のベルトに吊してある財布から金を取り出した。少年の額に硬化を食い込ませて、今度こそ走りを再開させた。

「ったく、魚なんか盗むから」

 独白したエセルに、ディーが食いかかる。

(なにっ! ちょっと待て。それは、ひょっとしてこの私に言っているのかい? とんだ濡れ衣じゃないか! 冗談じゃないよ)

「あ、す、すまない。そんなつもりで言ったわけじゃないんだ」

 ディーの声はそのままエセルの頭を刺激するようだ。頭痛を止めるためにもさっさと謝るに限る。というか、そもそもエセルの言葉に深い含みはないのだが。

 腕の中から階段の上に飛び降りたディーは、エセルを一瞥してからぷいっと前を向いた。

「ディー?」

(怒ってないよ。む、むしろ……いや違う! エセル君、急ぐよ)

 駆けだしたディーに、エセルは慌てて付いていく。

 階段を駆け下りて、うんざりするほどの人でごった返した商店通りに飛び込む。視線は必死に金の色を求め、声はユグノースの名を呼び続けた。

 悪態をつかれようが、エセルは行き交う人にぶつかりながら進んだ。

「ユグー! ユグー!」

 エセルの声を聞いて、止まってくれるかもしれない。探そうとしてくれるかもしれない。

 行く手を遮る人々を、本気で蹴飛ばしたくなる。全ての人間がエセルとユグノースを会わせまいと結託しているようにさえ思う。

「ユグノ――スっ!」

 エセルは足を止めて、憎いほど穏やかな空に向かって吠えた。

「馬鹿野郎、なに吠えてやがる」

 強かに頭を叩かれたエセルは、「痛っ」と零す。

 頭を手で押さえて振り返ると、そこにはルド傭兵隊の連隊長であるラードがいた。面長の顔に無精髭の生えた顎、しまりのない口元に、眠たげに垂れた双眸。短く切りそろえられた茶の髪が、なけなしの清潔感を漂わしている。こう見えて元騎士だという。つまり、身分階層で分ければ貴族なのだ。

「げっ」

 と思わず出た声に、エセルはまた頭を殴られる。

「わ、悪いですけど急いでいるので」

 逃げだそうとしたエセルだったが、あっさり首を掴まれてしまう。

「まぁ、待てよ。今から行くんだが、どうだ? いつまでも女が怖いだなんて情けないこと言ってられんだろ」

 耳元で囁かれ、エセルはぞぞっと背筋を凍らせた。

「行くかっ! この女狂いっ、俺は今それどころじゃないんだっ」

 ラードを苦手とする原因は数えたら切りがないが、おそらくその筆頭がこれだった。エセルを娼館に連れて行こうとするのだ。実際連れて行かれたこともある。その度大暴れして逃げてくるのだ。それをまた、からかわれて余計にラードを楽しませる結果となる。

「抱いてみろよ、母ちゃんの面影なんか消し飛ぶぜ?」

 エセルが女を抱けないのは、目の前で母を辱められたことが原因だった。

 手痛い過去を踏み荒らすのはラードだけでなく、多くの仲間にもだ。情けない男だ、ガキだと散々笑われる。いちいち怒るのも疲れるので、いつしか聞き流せる大人になっていた。はずだったが。

「っふ、ふざけるな!」

 肘を思いっきりラードの腹に食い込ませてやった。

 予想外だったらしいラードは、声を詰まらせ、手の拘束を緩めた。

(エセル君、どうして君が掴まえられているんだい? 逆だろ)

 呆れ返ったディーの声に背中を叩かれて、エセルは走り出した。

 せわしく視線を巡らせても、ユグノースらしき姿はどこにも見当たらない。

「くそっ! どうしてこうなるんだよ」

 悪態をつきながらも、足を動かし続けた。

 肩の上にディーが飛び乗って器用に座った。

(落ち着きな。未来を変えようとしてるんだから、それなりに邪魔は入るものさ)

「なっ、そんな、痛った」

 ディーに頬をひっかかれた。

(当然だろう。運命の方はエセル君を死なせたがるし、邪魔したがるさ。それっくらいの障害を乗り越えなくてどうするんだい)

 ひりひりする頬をさすって、エセルは渋々頷いた。気を取り直して、誰かにユグノースを見ていないか尋ねてみることにした。

「そこのお兄ちゃん、新鮮な野菜どうだい?」

 威勢のよい女の声に、エセルは駆け寄った。

 ざるや樽にこんもり盛った野菜が地べたに並べられていた。布巾を頭に巻いた壮年の女は客だと思い、黄ばんだ歯を出して笑いかける。

「なぁ、金色の髪をした俺くらいの背の男、見なかったか?」

 あからさまに嫌そうな顔をみせながら、こんなことを言ってくる。

「野菜と交換なら、教えてあげてもいいさ」

 顔を引きつらせながら、エセルは財布に手を回した。

(エセル君、後ろ後ろ!)

「ちょっ、あんた後ろ!」

 ディーと女が同時に警告を発した。

 は? と顔を後ろへ向けようとした瞬間、エセルの身体に衝撃が襲った。そのまま野菜の山へ顔面から叩き付けられた。

「ち、ちっくしょう」

 真上から憤怒の声が聞こえてきた。エセルを下敷きにしていることなど気にした様子もない。エセルの身体からふっと重量が消えると、女が手を貸して起こしてくれた。

「だ、大丈夫かい? お兄ちゃん」

 エセルの大きな瞳は、狩りをする獣のように細まっていく。

 額から鼻筋をとって口の中に入ってきた汁は、甘いトマトの味がした。頬に出来たばかりのひっかき傷は、じゃがいもに撫でられ土が塗り込まれている。

(エ、エセル君? 大丈夫かい?)

 ディーは寸前でエセルから飛び降りて、巻き込まれなかったのだろう。

 ふつふつと怒りがたまっていく中、耳には騒々しい喧嘩の状況が入ってきた。

「おい、後で金はやるからな」

 エセルは両手でじゃがいもを引っ掴むと立ち上がり、喧嘩のただ中へ猛然と向かって行った。


 

(何をやってるんだい君は)

 ディーの溜息を、エセルは甘んじて受け止める。

 エセルは椅子に身体の自由を奪われていた。いや、正確には、緊張して動けないだけである。実は、今いる場所は娼館だったりする。

 乱闘に参加して勝利をおさめた直後、エセルは再びラードに捕まってしまっていた。

「ルドに報告しちゃおっかなー。悲しがるだろうなぁルド。俺たちは市内の治安も守らなきゃいけない立場なのによぉ、またまたお偉いさんにルドが叱られちまうかもなぁ」

 というネチネチとした正論に、エセルはつい足を止めてしまった。無理にでも突破すればよかったと思うが、ラードに対し、実力行使などできるはずもないのだ。

「大丈夫? 可愛らしい顔が台無しよねぇ。でも、喧嘩を止めるだなんてカッコイイわぁ」

 間延びした女の声に、エセルはますます身を硬めた。

 水を含ませた布で汚れた顔と傷口を洗われる間、眼のやり場に窮した。

 波打つ黒髪を細い腰まで垂らした女は、薄着の長衣を着ているとはいえ裸同然だった。俯くたびに、胸元が露になりエセルは大慌てで眼を閉じる。また、室内に漂う空気が神経を痺れさせた。薄暗い部屋に香が焚かれ、独特な臭いが立ちこめている。薄い壁の両隣からは、女の嬌声がくぐもって聞こえてきた。

 ラードはすっかりくつろいだ格好で、寝台に身体を横たえていた。

 睨みつけてやりたいが、眼を開ける度に女が視界に入ってきた。わざとじゃないだろうか。

「ねぇ君、女を知らないって? お姉さんが教えてあげようか」

 繊細な指で、エセルの頬から首筋までをすーっと撫でてきた。

「ひ! やや、やっぱり! 手当とか必要ないっ、い、急いでいるんだ」

 黒髪の女を押しのけて、エセルはつかつかと窓へ向かった。まだ明るいというのに閉められたカーテンを開け放ち、窓枠に片足をかける。

「おいおい、ここは三階だぜ? 死にてぇのかよ」

 くっくっと笑うラードがいかにも愉快そうで腹立たしい。

「やっだぁ、待ってよエセル君」

 腰に女が抱きついてきて、エセルの混乱は加速する。

「い、いい加減にしてくれ! 俺はユグーを捜さなきゃならないんだ」

 叫びながら、窓を開けて身を乗り出した。

(ば、馬鹿、エセル君! 自ら死のうとしてどうする!)

「お、おいおい! しゃれにならんぞ阿呆が」

 女とラードによって、エセルは床に転がされた。もう泣き出したいほど情けない。

「ったく。おい、このお子様にホットミルクでも持ってきてやれ」

「はぁい」

 くすくす笑いながら、女は部屋から出て行った。

「そうだよっ、俺はお子様だ」

 エセルが開けた窓から、わずかな光が差し込んでいた。クモの巣のかかった天井に、ゆらゆら上がっていく埃を眼を凝らして見つめた。何でもいい。気を紛らわしたかった。

 床を軋ませながらラードがどすっと寝台に腰を下ろす音がした。

「ったく。だから、ユグーに捨てられんだよ」

 エセルは弾けるように飛び起きた。

「何か、知っているのか?」

 耳の穴に小指を突っ込みながら、ラードはいかにも面倒そうに言った。

「三ヶ月前の、ほら、おまえが肩に怪我したクニークルスで戦があったろ」

 ルド傭兵隊の雇い主は、エークフェルス、シーメニア、クニークルスの三つの同盟都市だ。大陸でも名高い商業三都市は、絶えず戦火にさらされていた。

 エセルら傭兵の役割は、都市間を繋ぐ行路の確保と都市の防衛だ。三都市の戦争対策委員からの指令で、三つの都市を行き来する。

「その後だな、ルドに相談があるってしょっちゅう来てたのを知ってる。で、辞めたがってるってのをルドから聞いて、俺が知ってる。そんくらいだな」 

 エセルは床を這いつくばるようにして、ラードの足元に寄った。

「ど、どうして? 三ヶ月前のクニークルスで何か、あったか?」

「だから、おまえが怪我したじゃねぇか」

「そんなことで辞める訳ないじゃないか!」

 確かに大袈裟なぐらい心配されたが、これまでだって散々怪我はしてきている。だったら他に何か理由がある? 記憶を遡らせようとしたとき、ふと気になることを思い出した。

「そ、そういえば、ユグーの動きがちょっと鈍くなかったか?」

 それが気になって、エセルはユグノースの援護に回ろうとして怪我を負ったのだ。

「おまえが原因だ」

 きっぱりと言い切ったラードの言葉は、エセルの顔面を殴った。

「と、俺は思う」

「は?」

 ラードは不安げに眉を寄せたエセルの額を人差し指で弾いた。

「ガキ」

 悪態をつこうと口を開くと、今度は両頬を思いっきり引っ張られた。

「なにするんらろ」

 エセルは頬をさすりながら恨みがましくラードを睨め付ける。すると、にわかにラードの表情が変わっていった。嘲笑する影を一切消して、不気味なくらい真面目な顔つきをしていた。

「おまえにユグノースのことが受け止められるか」

 エセルに問うというより、ラード自身に確認するような響きだった。

「でなきゃ、あいつを捜してやるな」

 これはエセルの脳に直接ぶつかってきた。

「な、何だよそれ。俺にユグーの何が受け止められないっていうんだよ」

 胃がムカムカする。

 まるでエセルよりラードの方がユグノースを理解しているみたいに感じられたのだ。

「だいたいあんたなんかより、俺の方がユグーとは仲いいんだからな」

 エセルは子供のようなことを口走っていた。

「でも俺はエセルの知らないユグノースを知ってるぜ」

 言い返したいのに声が出ず、エセルは口をぱくぱくさせた。

 悔しさで顔が火照ってたのを見られたくなくて俯いた。

「なぁ、おまえにとってユグノースってただの親友か?」

 また訳の分からないことを。

「ただのって何だよ。それ以外に何があるっていうんだ」

 エセルは床に眼を落としたまま言い放った。

 エセルにとって、ユグノースは命を懸けるに値する友だ。それを、ただの、などと無価値のごとく言われるなど許せない。

「いなくなっちまった家族と、どっちを捨てられる?」

 な。

 また触れられたくない家族の話題をひょっこり持ち出してくる。さらにユグノースと並ばせて競わせようとするなんて。

「最低だ、あんた」

「果たしてどっちが、だろうなぁ」

 エセルの恨み言を一蹴するような軽やかな口調だった。

 殴りかかりたい衝動を眼差しに変えて、ラードを見上げる。が、実に気持ちよさそうな欠伸をされて肩すかしを食らった。

「ま、これ以上俺の口からは言えないから。ルドのとこ行ってみろ。アイツ知ってるぜ、ユグノースの居場所。教えてもらえたら、だがな」

 行き場を失った憤りを持てあまし、エセルは黙り込んで考える。

 その間に、ラードは背中を向けて寝っ転がってしまう。手を払って追い払う仕草までしてくる。

 床にべったり座り込んでいたエセルの膝に、ディーが爪を立ててきた。

(ちょっと、いつまでこんなところにいるんだい?)

 ハッとしたエセルは、ディーを抱きかかえて立ち上がる。

「よく考えとけよ」

 扉を潜るとき、ラードの声が背中に刺さった。



 エセルは駆け足で再び噴水広場に戻り、宿舎へ続く西の道を進んでいた。周囲に注意を向けるのを怠らないのは、ユグノースを見つけられるかも、という淡い期待があるからだ。

(無駄だと思うよ)

 自分の足につまずきそうになったエセルは、肩に乗ったディーを一睨みする。

「あのさ、少し気になっていたんだけど。ひょっとしてディーは知ってるのか? その、ユグーが俺から離れた訳とか」

 そそそっと身体を反らしたディーは、そっぽを向いた。

(知るわけ、ないだろ。嫌だね、すぐそーやって神族なら何でも知ってるみたいに思われるの。いじめだよ、いじめ。いいかい? 私はエセル君の舞台を見物するただの客さ。客が先読みしてどーするのさ、いや、未来を知るわけないだろ)

 よく回る舌で隠し事を誤魔化そうとしているように思えた。尻尾で頬を叩いてくるのも怪しい。くすぐったいだけで痛くないが、頭はやっぱり痛かった。

「ご、ごめん」

(分かればいいけどね。あまり調子にのらないことだよ? 私の気持ち一つで、過去からあの死にかけてた現実に戻せるんだから)

 ぞっとさせる脅しに、エセルはもう一度謝った。

(あ、ねぇ、あれって神殿だろう? 私たちを祀っているっていう)

 ディーは短い黒い足を、斜め上に掲げた。

「あぁ。えと、でもここの神殿が祀っているのは商才の神ティダレンと戦の神ヴァルドアだよ」

 高い煉瓦の壁に囲まれているので、狭い路地を通っているエセルには神殿の頭ぐらいしか見えない。どこもかしこも大理石で出来た荘厳な神殿は、数え切れない柱が、山のように連なる屋根を支えている。

 背景を彩る空の青さに、純白の建物は身震いするほどよく映える。

 ここへ来始めた頃のエセルは、気づけば神殿を見上げ、時間を忘れて眺めていたものだ。

(あぁそう。で、ルドって人がいる所はまだなの?)

 思い出に浸りかけてたエセルを、険のこもったディーの声が呼び戻す。

「あ、あぁ、あと少しだ」

 神殿を見上げたままのディーが、いじけているような気がした。そういえば、ディーは何を司り、加護する神なのだろうか。訊いてみたいが、それは後にしようと決めた。今はユグノースの居場所を知るルドの元へ。と思いつつ、エセルはこの不思議な黒猫と今という現実を受け入れていることに苦笑した。

 神殿の裏手には数千を超える傭兵の居住区が広がっている。簡素な石造りの四角い建物が背中合わせに連なり、増築する度に太陽の恩恵は遠のく。ただでさえ神殿の影に隠れているというのに、だ。ゆえに洗濯物は常に湿っぽい。陽が最も当るのは練兵場の隅ぐらいだ。それぞれの隊で洗濯を任される雑兵たちは、競うように場所を確保する。

 三都市は、小規模な隊を好んで多く雇い入れている。ルド傭兵隊は総勢五十名ほどなので、かなり小さい。世の中には数千を抱える傭兵軍団もいるが、雇い主を裏切って執政者に成り代わろうとする怖れがあった。事実、そういった元傭兵隊長という領主があちこちに存在している。

 個別の隊を雇った方が、結託する可能性は低いというわけだ。

(ねぇ、普段って何してるの? 外で訓練してる人間もいたけど、ほらそこ、酔いつぶれて寝っ転がってる奴がいるじゃないか。むさ苦しいし、早く外出たい)

「冬は戦がないからさ、皆、羽を伸ばしているんだ。訓練は個々の裁量だけど、その分、戦で働きが悪かったら給金に響くんだ」

 頭にしがみついたディーに答えてから、エセルは曖昧に笑う。

 確かに、宿舎内は汗臭いし、かび臭い。扉の前で脱いで捨てた衣類や、血で汚れた布が放ってある。これはつまり、洗っとけ、片付けておけという無言の命令だ。エセルはそれらを跨いだり蹴ったりして最上階のルドの部屋へひたすら向かった。

 そしてようやく目的の扉を前に、息を整えた。拳で扉を叩くとすぐに返事が聞こえた。

 勢いよく扉を開けて、エセルは「隊長!」と叫ぶ、はずだった。出来なかったのは、エセルと気づいた途端、ルドが眉を曇らせたからだ。

 暖炉があることを除けば、どこも同じつくりなのにルドの部屋には明るさがある。両壁の書棚に並ぶ色とりどりの背表紙のせいか。大きな机にある銀の燭台のせいか。隅の寝台を被るシーツがやけに白く見える。

「また喧嘩だね?」

 書棚を背にしたルドは、机に広げていたものを伏せながら言った。

 扉に手をかけて硬まっていたエセルは、あたふたと服の汚れや頬の傷を消えるはずもないのに袖で擦る。

「つまらない怪我をしては駄目だ」

「は、はい。すみません」

(しゅんとしてる場合かい?)

 ディーに尻を叩かれたように、エセルはルドの傍へ駆け寄った。

「それより、ユグーのことを教えてください」

 ルドはエセルよりも深い青空の瞳を机上に落とした。机には、書きかけの手紙があった。おそらく故郷にいる妹に宛てたものだろう。

 ルドの領地は今もっとも勢いのある、アルハトス帝国の属領となっていた。元は公国だったアルハトスは勢力を伸ばすに従い、自国を帝国と呼ぶようになったのだ。

 ルドが傭兵になったのは、帝国に復讐するためだろうか。知っているのはおそらくラードぐらいなのだろう。けれど、一つ知っていることは、稼いだ金を領地に送っているということだ。それで、ルドを英雄のように崇めている領民は多いという。

「別れの挨拶をされたかい?」

 背筋を伸ばしたラードを真似て、エセルも姿勢を正す。

「どうしてなのか知りたい。教えてください。ラード……連隊長も何か知っているようだったけど、教えてくれませんし。隊長なら知ってるって。どこへ行ったかも」

 ルドは四十代間近とは思えない青年のような顔を暗く沈ませた。口元を隠すように手を顎に添える。聞き取れないほどの声でたぶん、ラードを毒づいた。

「悪いねエセル。口止めをされている。どうか頼む。今はユグノースの意思を尊重してやってくれ。落ち着いたら必ず会わせてやるから。な?」

 知っている。

 以前はこの言葉で食い下がったのだ。街中を狂ったように駆け回ったエセルは、ルドのこの発言で気力を最後の一滴まで搾り取られた。今でもあの時の恐怖はまざまざとよみがえる。やはり、ここは過去だ。ならばこそ、同じ轍を踏むわけにはいかない。

「嫌です! 会える保障はどこにもない。俺は、次のシーメニア戦で死ぬんだから!」

(ば、馬鹿)

 頭から肩に移動していたディーのことを忘れていたように、エセルは自身の失言にも気づかない。

「縁起の悪いことを言うんじゃない。エセルはユグノースがいなければ息もできないのかい?」

 めずらしく冗談を口にする割に、ルドの眼差しは悲しげだ。

「ラードみたいなことを、言うんですね」

「うつったかな」

 口元をゆるめたルドに、エセルは絶えず視線を注ぐ。

 エセルはルドのことを心から慕っている。父のようにといっても過言ではない。ユグノースと同じく、この人の為でも死ねるとさえ思っている。

 エセルだけではない。傭兵隊の仲間は誰もがルドに惚れている。神官だったという肩書きも効いているが、穏和で人当たりのよい性格と、痩身な見た目に反して豪快かつ精錬された剣技に心酔させられるのだ。

 人は噂する。ルド傭兵隊に入れば騎士のようになれると。まぎれもなくその忠誠心はそこらの傭兵とは違う。もちろん第一は金というのが本心だとしてもだ。しかし今は、そんなこと吹っ飛ばしてでもユグノースの行方を聞き出さなければ。

「困ったね。エセルと初めて会った時を思い出すよ」

 ばつの悪い思いをし、エセルは顔をしかめる。

「お願いですっ、このままだと俺は隊長も、ユグーのことだって恨みます。死ぬ直前まで、恨んでやるんだ」

 何という陳腐な台詞か。なのに、心が痛くてしょうがなかった。

「それは、とても辛いが……覚悟の上だよ。ユグノースは。だから私も同じだ」

「そ、そんな覚悟、俺は一生できない」

「許せ」

 その一言で、完結を告げられた気がした。

 不憫そうにエセルを見つめてから、ルドは冷たく顔を背ける。 

 エセルは支えられなくなったように膝をがくんとおとし、床へ両手をつけた。ふと、ラードの問いかけが頭に響いた。

「ラードに言われた。家族と、ユグノースだったら、どちらを捨てられるかって」

 息をのむ気配があった。

 エセルは懺悔するようにルドを見上げた。

 ルドは、エセルを秤にかけるような注意深い眼を寄こしてきた。

 手応えのある反応に、エセルはひどい悪戯にしか思えない質問が重要なことであると思い知る。

 一体、何だというのか。どちらも比べようがないほど大切じゃないか。並べるものじゃないのに。

 いつまでも死んだ家族に固執する自分は異常だとでもいうのか?

 エセルはもやもやする頭を掻きむしろうとして、間違ってディーの頭をひっかいてしまう。素早い報復を受けて、手をさする羽目になる。あぁもう。

「その猫……さっきから気になっていたけど、どうしたの?」

 話を反らせれたくなかったが、エセルも鬱々とした悩みから抜け出したくなった。

「え、えっと、これは」

 ディーに視線を投げると、肩から飛び降りて机に上ってしまった。

「エセル、宿舎で動物を飼うつもりかい?」

 ルドから妙な空気を感じ取った。

「私は動物の中でも猫がすこぶる嫌いでね」

 ルドは頬杖をついて、口をぽかんとさせたエセルを冷たく見下ろしてきた。初耳だったが、本気で言ってるようだ。なのに、ディーは机の上に寝っ転がったりして暴れまくりだす。紙やペンがエセルの足元まで飛んできた。絶対わざとだ。

「ちょ、ディー」

 立ち上がり、ディーに手を伸ばそうとした時だった。

「今日を限りでエセルを解雇する」

 すくりと立ち上がったルドは、エセルに背中を向けて本を探し始めた。

「……は? え? ちょ、ちょっと待って下さい」

 廊下側の書棚に歩き出したルドは、一冊本を取り出して開きだす。

 向けられた背中が、声なき圧力を向けてくる。

「隊長、ま、待ってください。ここを追い出されたら、俺」

 行くところがない。家族も、家も、故郷すらない。

「許して欲しい?」

 見えないはずなのに、エセルが頷くとルドは声を上げた。

「なら、その答えをユグノースに伝えて来なさい」

 驚きに声を失わせていると、ルドはさらに続ける。

「そして、出来れば二人で帰ってきて欲しい。ここはもう、家だろう?」

 今度は感極まって、喉を詰まらせた。

 本を閉じて、振り返ったルドは困り果てた笑みを浮かべていた。

「ありがとう、ございます」

「しかし参ったな。口止めされているのにユグノースの行き先を教えるのはなぁ。気が進まない」

 えぇ? 今更それはない。

「そ、そんなこと言わないで教えてください。捜しようがないです」

 今はその真面目さが憎いぞ。

「あ、そうだ」

 ルドは机に寄って、今は大人しく座っているディーへ封筒をくわえさせた。

「あくまで、口は開けてないから。ユグノースから私を責めないように言い含めるんだよ?」

 エセルはあぁ、とやっと納得した。封筒に書かれた地名に、ユグノースは向かっているということ。つまり、ルドの故郷だ。

 字は元々読めなかったが、少しぐらいならここで学んだので、地名ぐらいは問題ない。分からなければ、誰かに尋ねればいいのだし。

「にしても、猫に助けられた展開だったな。賢いね。ディー、だって?」

 得意そうに封筒を持ち上げたディーを、エセルは抱き上げた。

「はい。本当はディンフェストっていうんですけど」

「ディンフェスト? あぁ、へぇ、なるほど」

 ん? 

 エセルは気にかかっていたことを、思い出した。

「あの、ディンフェストって何の神なんですか?」

(あ――! いいから! いいからさ! さっさと先行こうって)

 けたたましいディーと猫の声で、ルドの返事はもちろん聞き取れなかった。

 二度訊ねようとは思えなくなって、エセルは去ろうと扉へ向かう。

「祈っているよ。そうだな、ディンフェストに祈ろう。エセルとユグノースが本当に会えるように。上手くいくように」

 ますます気になってしまったが、それよりも気掛かりなことを思い出した。

「あ、そうだ、隊長、夜の警備固めた方がいいと思います」

「どうしてだい?」

 眼を丸めたルドに、エセルはハッとした。近いうちにルドが襲われるのを知っているなんて、説明しても信じてもらえるはずがない。

「あ、えと、噂? そう、噂でちょっと耳に入って! それだけです、気をつけてください、絶対に」

 言い捨てて、声を上げかけたルドを扉の向こうへやった。

(馬っ鹿だな。言葉をもっと吟味しなよ)

「ご、めん」

 謝ってばかりのエセルと、謎の神ディンフェストの旅がようやく始まった。


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