一幕 未来への旅 ~1~
一幕 未来への旅
『死ぬのが怖くなったんだ。だから、別の生き方を選ぶ』
死を間際にして、エセルは友の言葉を思い出していた。
否、正確には知ろうとした。
友がエセルの前を去ってから、一日だって忘れたことはないのだから。
エセルは全身に這いまわる痛みに抗うことも出来ず、手足を投げ出していた。頭から流れた血のせいで、視野が赤く染め上げられたような気がした。視界の端には、大地に突き刺さった剣や槍の柄があった。その内の一つに草色の布切れがさらさらと風になびいていた。
エセルが所属する、ルド傭兵隊の外套色だった。
仲間は無事だろうか。
エセルの腹に乗っかかっているのは、敵だろうか。肩に感じる重みは味方のものか。考えるだけ、無意味なことだった。こうなっては敵も味方もない。戦場に転がれば、屍という仲間だ。
死を恐れてすすり泣く声、呪うような呻き声が細々と聞こえたが、やがて消えていった。それでもまだ、エセルは彼らより長く命を取り留めている。
ゆるやかな風はひどく冷たく、ゴツゴツとした大地はじんわり温かい。
大空の神アティアは、人間どもが荒らした大地を今すぐ洗い流したいとみえた。どんよりたれこめた雲が、今にも涙を落としそうだ。
清浄なる天の滴がこの身に落ちれば、命も尽きるだろう。そう、エセルは他人事のように思っていた。
戦場を駆け抜けて七年。ついに、墓堀人の世話になるときがきた。
怖くはない。
予想していた結末の一つだ。
けれど、どうしても悔いていることがあった。
我が身同然と思っていた友と、唐突な別れをしたままだった。
今、砕けそうな命を繋ぎ止めているのは友への想いだ。
エセルは友と出会ったあの頃を、思い出さずにはいられなかった。
エセルが生まれ育ったのは、山間にある小さな農村だった。わずかな作物しか収穫できず、貧しい暮らしを余儀なくされた。そんな家庭はざらにあったので、不幸だなどと嘆いたりはしなかった。
家族は両親と、弟、妹、エセルを入れて五人だ。もっとも、五人そろって食卓を囲めるのは冬の季節だけだった。
父は、家族を養うために傭兵になっていた。この時代、最も手っ取り早く稼げる職業である。絶え間ない戦のおかげで苦しめられているというのに、解消する方法が戦に参加することだなんて、なんという皮肉。しかし、子供のエセルにそんな頭があるはずなく、毎年無事に帰ってくる父を尊敬し、誇りに思うだけだった。村の中でもちょっとした英雄扱いだ。エセルの鼻もぐんぐん伸びるというもの。となれば自然、エセルの将来も父の背を追うことだった。
「十三歳になれば連れてってやる、それまでは身体を鍛えておけ」
父の言葉を、エセルは守り続けた。
ところが、約束の冬に帰ってきたのは、壺に入った父だった。
掌に乗るほど小さな壺の中には、エセルと同じ灰を塗り込めたような色の髪束と、母が無事を祈って作った瑠璃色のブレスレットだけだった。
父の死を持ってきたのは、林檎を焦がしたような赤黒い髪のルド傭兵隊の隊長、ルド本人だった。
ルドは自分を庇って死んだと言って、頭を下げた。
想像できた未来のはずだった。けれど、叩き付けられた現実はエセルの理性を吹き飛ばすに値した。
父を直接殺したのは敵の刃によるものだろう。だが、エセルにとっては父の仲間さえ死を呼び込んだ敵に思えた。
エセルは、深々と頭を下ろしたルドに向かって殴りかかってしまった。
「おまえのせいで! おまえなんかのせいでっ」
泣くまいと絶えていたのに、叫んだ拍子にぼろぼろと涙が溢れた。
母がエセルを抱きしめがら、必死にルドに謝るのが許せなかった。母を非難したかった。どうして謝るんだ、怒らないんだ! と。
今思えば、なんたる無礼を働いたかと恥ずかしい限りだ。その後、酒の肴にされて傭兵仲間にからかわれるのだが、このときのエセルが知るはずもない。
「実は君を、エセルの面倒を頼むと、父上に頼まれた。私は約束を守りたいと思う。傭兵になりたいんだろう? どうだろうか。私と一緒に来ないか?」
エセルに殴られても丁寧に謝り続けたルドは、言いにくそうに、それでいて強い眼差しでエセルの心を揺さぶってきた。
夢、だったのだ。
父の仇を討つためにも、一番最良の選択だと思った。
「行かないっ」
それなのに、エセルの口から飛び出したのは拒絶だった。
父の喪失という衝撃で判断を狂わされたか、それともエセルを力強く抱きしめてくる母を想ってか。どちらにしろ、ルドは村を去っていった。
「気が向いたら、いつでも来るといい」
そんな言葉を残して。
エセルの魂はこの日に縫い止められたように、ルドの言葉や顔を思い出しては悩み続けた。情けないことに、すぐに行くべきだったと後悔したが行動に起こせなかった。
恐れて、いただけかもしれない。偉大だと信じて疑わなかった父を殺した世界。踏み込む勇気が今更ながら萎んだのだ。
愕然としたエセルを奮い立たせたのは、ますます逼迫した家計だった。結局は金だ。父を失おうが腹は減る。守る家族は目の前にいる。ならば、とるべき道は最初から一つだけだった。
エセルが旅立つ決意をしたとき、すでに一年が経とうとしていた。再びやってきた冬とともに、エセルの村は地獄へ叩き落とされた。
北方からやってきたボアース人の掠奪を受けたのだ。
応戦しようと立ち上がったエセルの前に、母が立ち塞がった。泣きわめく弟妹をエセルに託し、地下の貯蔵穴へ隠れていろと言うのだ。冗談じゃなかった。
エセルの役割こそ母がするべきで、エセルは長子として家族のために戦う必要がある。母の制止を振り切って外へ飛び出そうとしたとき、掠奪者が家へ飛び込んできた。乱暴に扉を開け放ち、わずかにあった家具を容赦なく破壊していく。
ボアース人は雪のように白い髪と肌をもち、血のように紅い瞳をした美しくも残虐な悪魔だった。
エセルはがむしゃらに向かっていった。射竦められては終わりだ。とにかく動けと自身を鼓舞して剣を振り続けた。その間、母は耐え難い屈辱を受けて泣き叫んでいた。その叫びは、エセルを激昂させるのに四肢は鈍る一方だった。
壁に叩きつけられたとき、エセルは自分の身体が血だらけなことに気づかされた。いくつもの傷をつくられ、遊ばれていたも同然だった。もう、家族の声は耳に入ってこなかった。怒りを恐怖に塗り替えられ、最後には虚しさだけが胸に落ちた。
がっくりと項垂れたエセルは、大人しく死を待った。
そのとき。
空気を切り裂く音と共に、くぐもった声がエセルの頭上に降ってきた。
誘われて顔を上げた瞬間、草色の風が家の中に流れ込んだ。
「しっかり! 大丈夫か」
朦朧とする意識の中、エセルの眼前に現れたのは太陽神ヴューの化身かと思わせる金色の少年だった。髪も、両の瞳も眩しいほどの光を湛えていた。
友、ユグノースとの出会いだった。
少年ユグノースの手には弓が、背中には矢筒があった。足元に転がったボアース人の首にはおそらく、その矢が刺さっていた。
エセルはユグノースから視線を剥がし、次々とボアース人を屠っていく男たちを見た。そこには、一年中エセルを悩ませたルドの姿があった。
どういうわけか、父と再会したような懐かしさに胸が詰まった。
安心してエセルは意識を手放した。
目が覚めたとき、ルドは真摯な態度でこう告げた。
「どうしても約束を果たしたい。私の願いを叶えてはくれまいか?」
そのためだけに、再びやってきたというのだ。
エセルは泣き崩れた。泣くことしか知らない、生まれたての赤ん坊のように永延と。
こうしてルド傭兵隊へ入ったエセルは、年の近いユグノースとすぐに仲良くなった。ユグノースが特別だと思えたのは、同じ志を持っていたからだった。
ユグノースもエセルと同じく、ボアース人に家族を殺された過去を持っていた。
入隊してから知ったのだが、エセルの父を殺したのもボアース人だったと聞かされ、憎しみは、募る一方だった。
傭兵を構成しているのは、エセルのような農民層が最も多い。他には、主を失った騎士、職を持たない市民、流浪の生活をする渡り人、犯罪を犯した者など、様々な出自の者がいる。そして、ボアース人もいるのだ。
エセルはしばしばボアース人と喧嘩騒動を起こし、その度ルドに叱られた。ルドの片腕といわれる連隊長ラードには、よく青臭いガキだと笑われた。
そうかもしれないが、構うものか。
ユグノースはエセルの気持ちを一番理解してくれた。賛同してくるのだ。
しょっちゅう怪我をするエセルを、呆れるどころか心配してくれた。
ふんわり微笑むユグノースは、見た目通りおっとりとした性格だった。なのに、戦場に出れば全く別の顔を出す。エセルはユグノースに何もかも敵わないのだ。いっそ、清々しいので羨んだりしない。むしろ、誇らしくある。
面倒見の良い兄のようでいて、心のしれた親友のようでもあるユグノースと、エセルはいつも一緒だった。それを、仲間からは変に揶揄されることがある。
同性愛者なんだろう? と。
その度に、エセルは怒鳴り散らして暴れた。ユグノースの名誉を守るためにもだ。愛しているかと問われれば、おそらく、きっと、頷く。けれど、仲間のからかいはいやらしい含みがあるのだ。ならば、断固否と訴えねばならない。
本人たちが想像もしていないというのに、勝手に盛り上がられて不愉快だ。
なのに、当のユグノースは腹も立てず淡々と受け流す。
「エセルが怒れば怒るほどさ、みんな面白がるから笑っていなよ」
神族と見まごう繊細な美貌を持つというのに、神経は図太く肝が据わっている。
「なんなら、みんなの前で唇を重ねてやろうか? 痛快だろうなぁ」
などと冗談を口にする面もあった。
その、ユグノースが突然別れを告げてきたのだ。
戦場に出るのがもう嫌だ。剣を握るのも御免だ。復讐が虚しくなった。死ぬのが怖くなった。だから、別の生き方を選ぶ。こう、言った。
始めエセルはまた何かの冗談かと思った。しゃれにならないことを真顔で言って、あとでからかっただけだよ、というのはよくある手だった。
だから、背中を向けて遠のいていくユグノースを黙って見送っていた。踵を返して戻ってくると期待して。けれど、エセルの皮膚は確実にピリピリと音を立てて剥がれていた。
夜になって宿舎に姿を見せなくても、まだ、エセルは信じられなくて、帰ってくるのを信じて待った。なのにその日も帰ってこない。
三日目の朝、エセルはようやく心を乱して市内を駆け回った。仲間に尋ねても、エセル同様に驚いて知らないと言うばかり。
ユグノースを罵倒しながら必死に捜した。
怖い。
エセルは自分の命が尽きようとする今よりも、あの時感じた恐怖の方が強烈だと思った。
裏切られた? 捨てられた。嫌われた? どうして!
発狂寸前にまで追い詰められても答えが出るわけなかった。
ルドは何かを知っているようだった。
「落ち着いたら必ず会いに来るから、今はユグノースの意思を尊重してくれ」
苦しげな表情でそうルドに言われ、エセルは諦めたくなかったがしつこく縋ることはできなかった。正直、その気力さえ失われていた。
純粋な怒りに身体が熱くなることもあれば、漠然とした虚無感に苛まれ、血さえ冷え切る思いがした。
家族の喪失以外に、エセルの精神を折る存在などいないと思っていた。
違っていたらしい。
ユグノースの存在はひょっとしたら、家族以上に育っていたのか。
(ユグー、おまえのせいだ)
エセルは笑おうと口の端を上げた。笑えているのか分からないが、自嘲するしかなかった。死を迎える結果となった原因を、ユグノースのせいにしようとしたのだから。
(なんて見苦しいんだろうな、俺)
あの日に戻りたい。
別れを告げられたあの日に戻って、ユグノースの背中を追いかけたかった。そしたら、掴まえてやるんだ。訳を聞かせてもらう。静かに耳を傾けるから。
だから。
「俺を捨ててくれるな」
声に出せたかさえ分からないエセルの口内に、一粒の滴が落ちた。
舌を転がり、喉におちるまでに消えると、エセルの意識も絶ち消えた。




