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六幕 寂しがり屋のディンフェスト

 六幕 寂しがり屋のディンフェスト


 誰かに名前を呼ばれているような気がした。

 それも、苦しくなるくらい何度も何度も。

 あぁ、何としてもこの声を止めて安心させなければ。

 使命感にも似た感覚に、エセルは白みがかった視界を振り払おうと手を伸ばした。ところが、嫌がるように手は動かない。

 ここでエセルは、自分が横たわっていることに気づいた。

 どうしてだったか。

 探ろうと思考を巡らせた途端、身体中から悲鳴が上がった。

「うっ……」

 息を呑み込んだエセルは、蝕みだした痛みに顔をしかめた。

「エセル!」

「おい、しっかりしろ!」

「エセル、エセル!」

 賑やかに自分の名を呼ぶいくつもの声に、エセルは瞼を押し上げた。

 飛び込んできた光に眼を焼かれ、再び瞼を下ろしてしまった。

 エセルを包み込むように人の声は絶えず、名を呼び続ける。

「ゆっくり、開けるといい」

 苦笑する声は、エセルの記憶にあった。

「馬鹿野郎……心配かけさせやがって、許せねぇ」

 この声にも、だ。

「エ……セル?」

 瞬間、エセルの胸が張り裂けんばかりに高鳴った。

 動かそうとしていた左手をぎゅっと握る人肌を感じて、今度は慎重に視界を広げた。

 そこには神々しい金の髪をもったユグノースがいた。

 艶やかな金髪を乱し、隙のない切れ長の瞳は大きく揺れている。なめらかな白い肌には涙の筋がいくつも見て取れた。

 エセルは空気を吸い込んで止まってしまった。それとは裏腹に、ユグノースの動きは速かった。

 ユグノースは腰を浮かし、エセルの頭を撫でると髪ごと額に口付けした。繋いだままの手はいっそう強く握られた。

 驚きに眼を見開いたまま、エセルは真上にいるユグノースの泣き顔とも微笑みともとれる顔にすっかり心奪われる。

 エセルの顔に熱を孕んだ光の粒が舞い落ちた。

 ユグノースの涙は宝石のように美しく、眼にするのも勿体ない。

「……ユ、ユグー? ど、うして」

 どうして?

 自分の口から出た言葉に、エセルは眉をそっと寄せた。

 とてつもなく大切なことを見落としているような気がした。

 そのとき頬に、ふさふさしたものが触れてきた。

 エセルの瞳がそこへ動いたのをみて、ユグノースが意図をくみ取った。

 ユグノースはエセルから身体を起こし、繋いだ手も放して何かを両手で掴み上げた。

「ほら、エセルの命の恩人さ」

 ユグノースに首を掴まれ、お尻を掌に乗せられた黒い猫がいた。

 細く小さな四肢を前に出し、柔らかそうなお腹をさらし、月光色の瞳を爛々と輝かせている。小さな口を開いて、エセルに語るように一鳴きした。

――ニャア

 ぽっかり空いた穴へ、これまでの出来事が勢いよく流れ込んできた。

 ユグノースの手から逃れるように暴れた黒猫は、エセルにぴったり眼を合わせてシーツの上を歩きだす。エセルの腰を撫でながら一回りすると、四肢をぺたりとシーツに預けた。

「……ディー」

 鮮烈な記憶の数々に、エセルは胸を一杯にし、涙を溢れさせた。

「墓堀人がその猫を見つけたんだとよ」

「エセルがまだ生きていると報せるみたいに、必死に鳴いていたらしい」

 左右から見下ろしてきた人物に、エセルは脳天を痺れさせた。

「ラ、ラード……ルド隊長!」

 エセルは鈍重な身体をよろよろと起き上がらせようとした。もっと、よく周囲を見たかった。エセルの背中をユグノースと、ルドがそっと支えてくれた。

 エセルの寝台を囲んでいたのは、傭兵仲間だった。

 狭苦しい室内にむさ苦しい男たちがひしめいている。ガラス戸から差し込む西日は、彼ら一人一人を特別に照らしているようによく見えた。

 良かった、これで安心だという声もあれば、ひやひやさせやがって、心配させた分おごれよ、と皮肉る声もあった。

「俺、生きている、のか?」

 エセルは声を震わせながら絞り出した。

 ユグノースはエセルの手をそっと取った。ユグノースの口元に引かれていく自分の手を、エセルは放心して見つめる。

「当然だ。エセルが生きてなきゃ、僕はここにいない」

 おそらくずっと、握ってくれていただろう指先がさらに湿っぽくなった。

 ぞくぞくした。

 ユグノースの温もりを感じることが出来て。

「何さっそく口説いてやがる。それにだな、えっらそうにそんなこといえ……んん?」

 ラードがわざとらしい声を出して、エセルを覗き込んできた。

「何だぁ、その反応は?」

 頬をむにっと突かれて、エセルはやけに熱くなった顔を背け、ユグノースから手も引っこ抜いた。

「エセル?」

 ユグノースの不安げな声は、エセルの胸にまで直球で響く。もうどんな些細なことでも、傷つけたくない。それで、エセルは自分でも理解不能な言い訳を口走っていた。

「は、恥ずかしい、だろ、こー、いうのは今、やめろ」

 ピタリと静寂に包まれたことで、エセルは失言に気づく。

 今じゃなければいいのか?

 と心の中で突っ込みを入れて頭を悩ませていると、どっと狭い室内に笑い声が爆発した。

「恥ずかしい? 今さらぁ?」

「本当だよな、いつもユグーは口説いてるよな」

「それにいちいち怒鳴り散らしていたのによぉ、どーなってんだぁ?」

 エセルは身体中を真っ赤にして唇を噛んだ。

 そうだった。ユグノースがエセルを女のように扱う様をよく冷やかされ、その度いらぬ詮索をされた。誤解をとくために必死の声を上げると、ユグノースが余計怪しまれるからほっておこうよ、などと楽しそうに笑うのだ。そんなユグノースにもちろん怒るのだが、皆をからかうのは面白いからねぇ、なんて言ってやめようとしなかった。

「こら、エセルをからかうな、まだ身体が万全ではないんだぞ」

 ルドが笑いながらたしなめるのだが、笑いは一向におさまらない。

 羞恥が苛立ちに移ったエセルは、決然と顔を上げた。

「ユグーのことが好きだからに決まってるだろ!」

 再びしんと静まりかえった。

 エセルは叫んだせいで、叱りつけられるような痛みに襲われうずくまる。

「もしもしエセルちゃん? そーんなことここにいる奴ら誰だって知ってるぞ? それに、エセルちゃんはルドのことも大好きだろう?」

 ラードの小馬鹿にするような発言は、静かな水面に石を放り投げるに等しかった。さっき以上の笑声を浴びたエセルは、ますますかっかしてきた。のろのろ顔を上げて、苦笑するルドを見た。それから、屈んでエセルの背中に手を添えるユグノースを睨んだ。挑むように。 

 エセルはきょとんとするユグノースの胸元をぐいっと引っ張った。瞼が触れてしまうほど間近で一拍見つめ合ってから、唇を重ね合わせた。

 たっぷりおいてから、エセルは息を喘ぐようにして繋ぎを解いた。

 しっとりと濡れた唇を手の甲で拭いながら、唖然とした仲間達を見回した。

 いくらか気分は晴れた。心臓は騒がしいけれど、痛快だった。さらに、仲間達に追い打ちをかける台詞がストンと降ってきた。

「愛しているんだ」

 過去の夢を体験する前と、今の違いを、エセルは自身の言葉ではっきり自覚した。

「どどーしちまったんだ!」

「ぶっ倒れている間に何が!」

「お、おい施療師呼んでこいっ」

 と、違う方向で心配されてわらわらと散っていく奴らがいた。あんぐりと突っ立ったままの奴もいれば、拍手してそそくさと退出していく奴もいた。

 ラードは、ユグノースにぽんと肩を叩いて、衝撃を受けたらしいルドの背中を押して出て行った。と思ったらすぐに引き返して、残っている仲間に「野暮だぜ」と一声かけた。

 ユグノースと二人っきりになり、エセルの心拍数はさらに上昇する。そわそわと落ち着かない気持ちから逃げたくて、エセルは黒猫の背中を丁寧に撫で始めた。チラリと見上げた黒猫は、ふふんと笑っているような気がした。

 ディー。

 声を投げても、返事は聞こえてこない。 

 エセルはユグノースを想いながら死を遂げようとしていた。

 それから信じられない体験をしてきた。エセルの行動一つで全く違う、あり得たかもしれない過去を、ディーと共に旅してきたのだ。

 ディーは言っていた。ユグノースを救えば、未来を変える可能性が高まると。おそらく今、エセルは望み通りの未来を迎えている。

 なぜなら。

「ユグー、どこも、怪我してないな」

 魂が抜けたように立ち竦むユグノースを見上げた。身体中どこも傷がついていないか、確認するようにゆっくり視線を動かした。何となく、顔を見るのは勇気がいて、最後にとっておいた。

「おかしなことを」

 掠れた声に、エセルは相好を崩したユグノースと眼を合わせた。

「どうして、エセルが僕の心配をする? どうして、怒っていない? 言いたいこと、山ほどあるだろ」

 そうか。

 ユグノースとは噴水の前で別れたままになっているのだと気づいた。ならばここはどこだろうか、と今更ながら思った。

「え、えーと、ここは?」

 金の瞳はエセルに熱っぽい視線を投げてから、逃げるよう落とした。

「……都市シーメニアの宿舎だよ。墓堀人に担がれてきた十日前からずっと眠っていたんだよ。施療師はエセルの傷を見て、生きているのが奇跡だと、言っていた。出血もひどかったという。全身、切り裂かれていたって」

 エセルは眼を見開いてから自分の身体を見回した。

 薄い麻のシャツから身体をまさぐるように触る。腹も胸も肩も首も包帯が巻いてあった。頬から額にかけても傷があり、一番驚いたのは。

「もう剣は握れないかもしれない」

 ユグノースはエセルの右手をそっと取り上げた。

 エセルはやはり包帯で巻かれた右の掌をまじまじと見つめた。

 過去の夢で負った傷のような気がした。戦場での傷は、確かによく覚えていない。どこが致命傷だったかも分からないほど、身体を見渡す余力すらなかったのだから。だが、剣を握る利手を刺し貫かれれば嫌でも記憶に残りそうだ。

 エセルは疑問を解消してくれそうな黒猫をチラリと見やる。

 ディー。

 黒猫は見つめ返すだけでやはり何も言ってこない。

 エセルは再度ユグノースに支えられた右手を見据えた。

 その様が、ユグノースにとってはこう思えたらしかった。

「また、奴らに復讐するべき理由ができたな」

 ユグノースの苦しげな声に、エセルは意識を取り戻す。

「その恨み僕がもらいたい」

 金の瞳から、光が消えていくような気がした。

「そう、思う。エセルを傷つけた奴らは許せない。絶対に。命で償わせたい。この気持ちは、本当だ。けど……けど、僕にはその資格ががないんだよ」

 言いながら、声が震えていった。

 エセルはユグノースが何を告白しようとしているか悟った。何に怯えているのかも。喋らせたくなかった。二度も、ユグノースの苦しむ顔を見たくない。

「ユグー、俺さ、怖くなった」

 口を開きかけたユグノースが、眼を瞬いた。

「死ぬのが怖くなった。戦場に出るのはもう嫌だ。人殺しも避けたい。復讐が、虚しくなったんだ。だから、別の生き方を選びたい」

 それは全部、ユグノースが別れるときに口にした文句だった。

 途方に暮れたような顔をしたユグノースに、エセルは今できる精一杯の笑顔を浮かべた。

「もう過去に固執するのはやめにした。家族の復讐を理由に、今を代償にしたくない。ユグーを傷つけたくない。俺は、ここにしか居場所がないから、ユグーの傍に居続けたかったから、ずっと、復讐心を利用していた。冷たい奴だと思うだろうが、もうとうに決着はついていた」

 家族の死を過ぎ去った仕方のない思い出にまとめるなんて、薄情だと思う。

 気づかぬふりをして隠してきたが、一度明るみに出てしまえばもう無理だ。

「俺のこと薄情だと思う?」

「まさか! それどころか僕も同じで」

 と言いかけて言葉を飲み込んだユグノースは、思案気に眉を寄せた。そっとエセルの手をシーツに置いてから、緊張気味に訊ねてくる。

「……もしかして、ルド隊長に聞いたの? 僕の、こと」

「う、うん? まぁ、そんなとこ、かな」

 心の中でつかさずルドに詫びた。

 背を伸ばし、くるりと背中を向けたユグノースは、急に腰が抜けたように寝台の端に座った。

「そ、そうか……もう、知っていたのか」

 ユグノースは乾いた笑い声を上げてから、黙り込んでしまった。その背中が、また見えない場所へ消えてしまいそうに思えた。

「少し、僕の昔話を聞いてくれる?」

 横顔のユグノースは窓の外に眼を向けながら、ぼんやり語り出した。 

「僕の母はヴァリア―ムでもボアースでもない、異国人だった。船で漂流していたところをルメリオ族に拾われたんだ。母は、どこから来て、どうして一人で海を漂っていたのか。そういうことは今も分からない。というのも、記憶を失っていてね。声も、失われていた。言葉も通じなかった。でも、とびきり美しい人だったから、アイツに……見初められた」

 窓から降り注ぐ夕陽が、少しでもユグノースの気持ちを和らげてくれればいいのに。

「だけど、父には既に妻がいたし、子供も沢山いた。それでも、父は母に僕を生ませた。族長である父に直接、石を投げる奴などいないが、母はそれを一身に浴びた。特に正妻の嫌がらせは陰湿だった。声が、出なかったからね。さぞやりやすかったはずさ。唯一僕らの味方をしてくれたのは、叔父のギルンスだった」

 ユグノースは、耐えかねたように顔を俯けた。金の髪がはらりと落ちて、表情を隠す。けれど、震える肩が、拳が、声が、物語っている。

「自分を殺してやりたいほど、僕は非力だった」

「ユグー、もう喋るな。いいよ」

 エセルの懇願を、ユグノースは頭を振って拒んだ。

「非力だった僕が憎悪を直接向けたのは、義兄弟だった。一度、たかが外れて殴り殺しかけたことがあってね。それが、決定打。母は、僕のせいで殺されてしまった。綺麗な髪の毛はむしられた。火にかけられた。焦げた身体を雪の上へ捨てられた」

 今抱きしめたら、ユグノースは粉々に砕け散りそうだった。それでも、そうせずにはいられない。エセルは思い通りに動けない身体を屈ませた。

 衣擦れの音で気づいたユグノースは、迷子になった幼子のような顔を振り向けてきた。エセルが伸ばしていた指先を、そっと掴んでくれる。

「なのに、その母を見て、アイツは、こう言ったんだ。目障りだから、捨ててこいって。まるで、塵のように」

 金の瞳に水が集まって、ぼろっと大きな粒がユグノースの頬に転がり落ちた。

「母を散々いたぶってきた奴らも殺したいと思っていたけど、本当に肉を切り裂いてやりたいと思ったのはあの瞬間だったかもしれない。記憶が吹っ飛ぶぐらい怒りに塗りつぶされた僕は、自分でも信じられないくらい身体がよく動いてね。父を、ナイフで刺していたんだ。死んだと思ったよ」

 わずかに口の端を上げたユグノースを、エセルは静かに見つめて頷いた。

 クニークルス戦でユグノースは父親と再会している。けれど、それは言おうとしない。打ち明ければ、エセルが罪の意識を覚えるかもしれないと思っているのだろうか。だとしたら、エセルはその想いを一生胸に刻んで生きていこう。

「それで、こっちへ逃げてきて、ルド傭兵隊に?」

「そう。けど、叔父は道中に負った怪我が元で、隊に入って間もなく死んでしまった。どうして、僕のためなんかにそこまでしてくれたのか、ずっと不思議だった。訊ねてみると、母が好きだったからと言った。僕のことも。でも、それはある事を隠すための小さな嘘だった」

 エセルは知っていた。何をギルンスが隠していたか。それを明かしに来たのが、ヴァンデなのだ。ディーはこう言っていた。

――ヴァンデは、無残に殺されたユグノース君の母親を、ひそかに弔ってくれたんだ。墓も立ててある。それはもちろんヴァンデの意思なんかじゃなく、ユグノース君の父親の意なんだよ。ヴァンデにとっては、族長の想いを誤解しているユグノース君が許せなかった。ユグノース君の父親は、誰にも打ち明けられない想いを、ヴァンデに零していただろうからね。だから、ユグノース君を故郷へ連れて、母親は愛されていたんだと証しを突きつけて、思いっきり後悔させてやりたいと考えているんだよ。

「お節介な奴が、わざわざ教えに来たんだ。叔父は、父に頼まれて僕を逃がしたんだと。言わなかったのは、自分が憎まれていた方が僕の生きる活力になるからって、父に口止めをされていたという。なんだそれは。今更だ。正妻の嫉妬から守ろうと、僕らを見捨てたフリをしたとか、やり方が不器用すぎる」

 ユグノースは、もう今はどこにもいない父親に向かって言っているようだった。

「知らないままの方が良かったか?」

「……難しい質問だ」

 エセルの指先をやんわり包んでユグノースは微笑んだ。

「ユグー、一緒に、おまえの故郷へ連れてってくれ」

 零れそうなほど大きく眼を広げたユグノースに、エセルは続けて言う。

「行くんだろ? 母さんのお墓に」

 ユグノースは瞼を下ろして深く息を吐いた。

「抱きしめていい?」

「は?」

 と返事らしいことも言えないうちに、エセルはユグノースの腕にやんわりと抱かれていた。

 どうしよう。

 嬉しい。

 瞼も唇も肩も指先も、細かく震えてしまう。怯えている訳じゃないと言わなければ。それどころか。

「ユグーに触れられてると、嬉しくて震えるみたいだ」

「何だって?」

 それほど思いがけない言葉だったのか、素っ頓狂な声を出してエセルと視線を同じ高さにおとしてきた。不安げに眉を寄せたエセルは訊く。

「俺……異常?」

「だったら僕はとうの昔から狂人だよ。ずっと、もうずっと以前からエセルとこんなことしたかったんだから」

 ふわりとユグノースの唇がエセルの頬に触れた。

「し、知らなかった」

 おどおどしく言うと、「可愛いよね」などと甘い台詞を聞かされた。

 か、可愛い? 誰が? 俺か? えぇ!

 嫌ではないが、さすがに逃げたくなってきたエセルは、別の話題をふった。

「そ、そーいえば、ルド隊長の故郷へ行ったんだろ?」

「あぁ、そうそう。隊長に頼まれごとをされて行ったんだけど、酷い目に遭ったよ。それで危ないところをあのお節介な奴に助けられて借りができたんだよ」

「お節介な奴?」

 エセルから距離を空けたユグノースは、少し不愉快そうな顔をした。

「さっき話した故郷から来たお節介な奴さ。ヴァンデって奴でね。僕が行くと言うまでしつこく追いかけてきてさ。ここにいることを教えてあるから、その内会わせるよ。嫌だけど。ソイツに案内されて行くことになっているからさ」

 エセルは息を止めて聞き入っていた。

「そういえば、エセルは知っていたの? ルド隊長が兄弟に狙われているって。夜の警備を固めた方がいいだなんて言ったんだろ?」

 眼をぱちくりさせて、記憶を漁り出す。

 それは確か、過去の夢で言ったことじゃないか。ルドの長兄が裏で糸を引いていたといことを知ったのも、ディーに聞いたからで、もともと知らない。

 どうも、現実と過去の夢でのことが混ぜ合わさっているように思えた。

「覚えてない? エセルが警告してすぐ、本当に夜襲を受けたじゃないか。幸い大事に至らず、襲撃者を捕らえることが出来た。かねてから危惧していた兄上の思惑を認め、さらに僕からの手紙も届いてますます証拠が集まった」

「で、でも、ユグーは手紙じゃ心配だからって、戻ってこようとしただろ?」

「どうして知ってるの?」

 ユグノースは心底不思議そうにエセルを見つめてくる。

 エセルは自分の頭の足りなさに呆れて肩を落とす。

「い、いや、だって、ユグーなら直接報せなきゃ心配でたまらないんじゃ、ないかと」

 エセルは視線を泳がした。我ながら不自然ではない、でたらめが言えたような気がする。

「それだけじゃないんだよ?」

 ぽつりと言ってから、ユグノースはゆらりと寄ってきた。

 エセルの顔に熱い眼差しをびしびし向けてくる。

「な、何?」

「エセルに会いたくてたまらなかったから」

 顔を背けたいのに、身体が言うことを聞かない。

「旅の間、ずっと後悔していた。あんな別れ方しなきゃ良かったって。僕は卑怯だった。臆病だから、卑怯なことをした。やっぱり、全てを告白してからちゃんと別れようと思った。エセルに嫌われるのは死ぬよりも辛い。辛いけど」

「言うな」

 エセルはユグノースの声を断ち切った。

「もう、いい。そんなこと言わなくて。意味、ない。俺はユグーを嫌っていないし。この先もずっとない」

 ユグノースは頭を抱えて唸りだした。

「なんてすごいことを言ってくれるんだ。吹き飛びそうだよ」

「何が?」

「……理性が」

「は?」

 というエセルの反応に、ユグノースは大袈裟すぎる溜息をついた。

「いや、何でもない。続きを話そう」

 しかし向けられた表情は、いつもの柔和な笑顔だ。

「察しの通り、僕は戻ろうとしたんだ。でも、敵に気づかれてしまってね。山中で襲われたんだ。まぁ、そして、アイツに助けられたわけさ。さらにすごいんだ。隊長が駆けつけてくれてね」

「えぇ?」

「本当にさ、もう、神々に弄ばれてる気分だったよ。隊長はラード連隊長に託して、僕の迎えをかねて兄上に決闘を叩き付けるつもりで向かっていたんだよ。でもさ、話にもならなかったね。命のやりとりがお望みならば、いつでもお相手します。って啖呵切ってさ、首の皮一枚剥がしてやったら、みるみる青ざめてたよ。爽快だったな」

 ユグノースは悪戯が成功したときの笑みを浮かべていた。

 再び湧き上がってきた涙の余波に、エセルは顔を俯けた。気持ちよさそうに眠っている黒猫を見つめる。

 ディー。

 エセルが頭を撫でると、黒猫は少し身じろぎをしてお腹をすやすやと上下させた。

 願っても、もうディーとは会話できないのだろうか。それとも、これはもうただの猫、なのだろうか。

「エセル?」

 頬をそっとユグノースの繊細な手が触れてきた。その指が、涙の粒を消してくれる。

「泣かないで」

 優しい金の瞳。心を震わす声。

「情けないことに、止まらないんだ。だって」

 言葉を呑み込んだエセルの肩を、ユグノースがそっと抱き寄せた。

「奇跡ばかり、俺の周りで起こるんだ。涙を流して感謝するしか、他に方法がない」

「なら僕だって」

 エセルのこめかみにユグノースの息がかかった。

「一番の奇跡はエセルだから。今こうしてここにいてくれてる。エセルこそが奇跡の塊だよ」

 それなら俺だって。

 と声に出せず、エセルはみっともないほど泣き続けた。


     ◇◆◇◆◇


 旅立ちの日がやってきた。

 ついさっき小雨が降ったが、今の空は文句なしに光り輝いている。

 結局エセルの体調が万全を期するまではと、半年近くシーメニアにとどまっていた。

 季節は涼やかな夏を迎え、その間にルド傭兵隊は別の都市へ行ってしまった。

 出発前夜、エセルはルドに離隊したいことを告げた。そう思うに至った様々な理由も付けて。もちろんその中には、ユグノースへの熱い想いも入っていた。相当驚いたらしかったルドにラードが、「驚くのは鈍い者同士のエセルとあんたぐらいだぜ?」と笑い飛ばされた。

 ユグノースはというと、至極平然と構え、エセルのように照れたり周囲の目が気になったりはしないらしい。どうしてかと尋ねるのも馬鹿馬鹿しく思え、エセルは苦笑するばかり。

 市場で旅支度を調え、あとは市門を潜るだけだった。

 地べたに隙間なく商品を広げた露天商たちに、散々足を止められた。それでなくとも、見たこともない工芸品や織物、装飾具などがエセルの眼に色鮮やかに映り、じっくり見てしまいそうになるというのに。

「金なら十分あるよ? ルド隊長にいただ分もあるし。気に入るものがあれば買うといい」

 ユグノースはすぐにエセルを甘やかそうとする。

「めずらしいから見てるだけで、買うほどじゃない」

「そうなの?」

 と隣で微笑むユグノースをチラッと盗み見ると、頭がくらくらした。今までは平気だったのに、気持ちに気づいてしまうと、こうも敏感になるものなんだろうか。そんな自分が自分らしくないようで、実に気持ち悪い。さらに、改めて思うのだが、ユグノースはとびきり、超絶、神がかり的に美しい。

 少し視野を広げれば、ユグノースのことを口をあけて見つめる人の数は半端じゃなかった。振り返ってまで見る人もいるし、遠目で囁き合う女性の群れもあっちこっちにいる。その隣にいるエセルがどうしたって釣り合わないと自虐的になるのも無理はないというもの。

 エセルは胸に抱えた黒猫をぎゅっと抱きしめて歩き出す。

 黒猫がエセルを心配そうに、否、嘲笑うように見上げてきた。

 何だよ、と文句を眼で訴えていたら、突然エセルの腕から飛び降りてしまった。

「ディー? 待ってくれっ」

 行き交う人の足で隠れてしまう黒猫に、エセルは大慌てで駆け出そうとした。が、ユグノースに肩を掴まれてしまう。

「エセル、待って。はぐれちゃうよ」

「で、でも、ディーを探さないと」

 エセルは自分がどれほど必死な眼をユグノースに向けているか知らない。

 ユグノースはややうんざりして、エセルの左の手を掴んだ。

「あぁ、分かってるよ。エセルの恩人なんだからね」

 先行するユグノースの後頭部を見て、エセルは首をひねる。

 怒ってる?

 ような気がしたが、今は追求していられない。

「ディー」

 視界がひらけたと思えばすぐに人の壁に阻まれて、うっとうしい。

 この状況には覚えがあった。

 過去の夢でディーと共に出発したばかりの時だ。去ったばかりのユグノースを追いかけたときとよく似ていた。すると、ますます嫌な予感がする。

 このままディーとは完全に別れてしまうのか?

 そもそもあれはただの黒い猫でしかないかもしれない。それでも、ディーとの繋がりを感じずにはいられないのだ。

 この今、息をして立っている大地、頭上に輝く空もなびく風も、何もかもが世界そのものであるディーだとしても。それは頭が納得してるだけだ。

 ディーと触れあっていた思い出を、大切に繋ぎ止めておきたい。

「あ、エセル!」

 振り返ったユグノースを眼にする間もなく、エセルの胸に黒い影が飛び込んできた。咄嗟に抱きしめたそこには、黒猫が戻ってきていた。

 エセルはへなへなとその場に崩れ落ちそうになった。

「ディー、どこいってたんだよ。まったく」

 ふさふさした背中に頬を押しつけてぎゅうぎゅう抱きしめると、耳にひんやりしたものがあたった。

 ん? とよくよく黒猫を見つめると、口元に魚がくわえられていた。

「おい! あんたの猫か? 金くれよ金!」

 追いかけてきた商人がエセルに掴みかかろうとした。

「悪かったね、いくら?」

 すっとユグノースがエセルを背中で庇うと、もう商人の顔は見えなくなった。支払いを済ませる間に、エセルは白けた眼を黒猫に投げた。

 ただ、欲しいものがあったから離れただけだったのか。

「取り乱した俺が馬鹿みたいじゃないか」

 文句をぶつけてやっても、魚をほおばるだけ。

 やっぱりただの猫か? 否、ディーなら面白がってやりかねない、とも思う。

「行こう、エセル」

 ユグノースが背中をそっと押してきた。促されて歩くのだが、落ち着きを取り戻したエセルに、先ほどの悩みが帰ってくる。

「あ、なぁ、もうちょっと離れてくれないか?」

「……どうして?」

 口を引き結んで、エセルは辺りをキョロキョロ見渡す。

 通り過ぎながら、エセルとユグノースをじろっと見てくる顔に、気まずくなる。特に深い意味はないだろう。深く考える自分こそが怪しいのだ。

「ユグーは目立つから、なんていうか、その、恥ずかしい」

「恥ず、かしい?」

 嫌がらせのように顔を近づけてきたユグノースに、エセルは一歩後退する。背中に添えられた手が、肩をぐいっと掴まえてくる。

「は、離れろって」

「恥ずかしいから?」

「そーだよ! 死ぬほど恥ずかしいんだっ!」

 やけになって叫ぶと、突然顎を掴まれ一気に唇を奪われた。ユグノースの瞳を見る間もない速さだった。

 抵抗する気力さえ削がれたエセルは、眼を見開いたままカチンコチンに硬まった。

「恥ずかしいだけで死んだりしないよ」

 ユグノースは唇を離してから、うっとりするほどの微笑を浮かべて囁いた。

 一時、音が消えたのかと思った。

 徐々に冷静さを取り戻したエセルは、思いっきりユグノースの肩を突き飛ばした。

 よりいっそうの視線を全身で浴びて、エセルはもう黒こげになるほどの熱さに狂いそうだった。下を向いたまま走り出して、その場を抜け出した。

「エセル!」

 ずっとユグノースの声が背中に当たっていたので、変な話、安心してエセルは足を止めることなくずんずん進んだ。人にぶつかって野次を飛ばされても、転びそうになっても構うものか。しかし、相手が構う場合もあることを失念していた。

「おい」

 むんずと腕を掴み上げられて、エセルはたたらを踏んだ。

「あ、悪かった。すまない」

 とエセルが謝って振り仰ぐと、そこには見知った顔があった。フードを被っているが、白髪の毛先が見えた。血色の迫力ある眼力に、エセルは吃驚仰天する。

「ヴァンデ!」

「あぁ? なんで俺のこと知ってんだよ」

 不審そうに見下ろされ、エセルは失態に気づく。ヴァンデとは一応、今が初対面になるのだった。

 不本意ながら助けられたユグノースは、借りを貸してもらえるまで傍を離れないというヴァンデの脅しに、渋々承諾したのだ。ヴァンデの望みはただ一つ。故郷へ連れていくことだ。つまり、今回の旅はこの三人と一匹になる。

 市門で待ち合わせてしていたのだったが、そんなことすっかり忘れていた。

「手を放せよ」

 険のこもった声で、ユグノースがヴァンデの手を引っ掴む。

「これが、一緒に連れて行きたい奴? なんだよ、男か。俺はてっきり好いた女でも連れて行くのかと思ったぜ」

 不敵に笑いながら、エセルをじろじろと視線でなめ回す。

「やめてくれる? おまえに見られるとそれだけでエセルを汚された気分になって不愉快だよ」

 ユグノースは当然のようにエセルを背中で隠す。

 ヴァンデはユグノースの尋常ならざる文句に閉口したようだ。

 エセルはあたふたと声を上げる。

「エ、エセルだ! よろしく頼む」

 ユグノースの背中から出て、エセルはヴァンデに手を差し出した。なのに、手を握ってきたのはユグノースだった。

「って、何してんだよ! 違うだろっ」

「だって! 嫌なんだもん」

「……もんって」

 がっくりと肩を落としたエセルは、心底呆れてそれ以上何も言えなかった。

 と、思ったものの、先ほどの公衆の面前でさらした情事を思いだすと怒りがふつふつ湧き出てきた。

「いい加減にしろよ! 過剰すぎるだろ、もっと遠慮しろ!」

 エセルの声に驚いたのか、黒猫が再び逃げ出した。あっ、と視線を追うとヴァンデの肩に飛び乗っていた。

 戻って来いよ、と黒猫を見ながら心で念じていると、ユグノースが割り込んできた。

「嫌だよ」

 ぶすっとした顔をしても絵になるユグノースに、エセルは片眉を上げた。

「なら聞くけど、エセルは僕とディーとどっちが大切なんだい?」

 何がなら、なのか。

 意味が分からず、しばらくエセルは黙した。それでもやっぱり分からないので、「はぁ?」と聞き返す。

「命の恩人ってのは分かるよ? 僕だって感謝してる。でも、僕の目の前で可愛がられてると苛々するんだよね。なのに、僕には離れろっていうし。僕に触れられると嬉しいって言ってたのにひどくないかい? 嫌だよ。今までどれだけ我慢してたと思う? もう遠慮したくない」

 エセルは眼を点にして、ぐるっと思考する。そして、ある可能性が浮かび上がった。

 嫉妬? 猫に?

 にわかには信じがたい結論に、エセルは手の甲で口を覆った。実はにやけそうな口元を隠したいだけだったりする。視線だけわずかに上げると、照れた素振りも見せない真面目な顔のユグノースが返事を待っていた。

 ほ、本気だ。

 もしもエセルが女ならば素直な気持ちを可愛らしく表現することが出来るだろう。抱きついてでも、頬に口付けをしてでも……たぶん。

 惚れた相手にそこまで言われて嬉しくないわけはない。ない、が。

「そ、そーいうことを言われるほど、居心地が悪くなる!」

 ユグノースの顔を見ずに、言い放った。

「……ごめん」

 しゅんとした声に、エセルはさっそく後悔してしまう。

「おい。どーいう仲かは分かったから。行こうぜ」

 静かに、それでいて堂々としたヴァンデの声で、エセルは二人だけの世界から抜け出すことが出来た。

「あ、あぁ。行こう」

 顔を上げても、まともにユグノースが見られず、エセルはそのまま何事もなく歩き出した。先をすたすた行くヴァンデの肩から、黒猫がぴょーんと下りてエセルに向かって駆けてきた。抱きついてくると思い構えるも、エセルを通り過ぎていった。眼で追いかけると、黒猫はユグノースの足に爪を立てていた。

「ディー」

 エセルが抱き上げようとしたら、ユグノースに先を越された。

 迷いながらもユグノースの顔を見ると、疲れたような笑みを唇に乗せていた。瞬間、エセルは声に出していた。

「本当は嬉しい、から」

 咄嗟にでた言葉に狼狽したエセルは言い訳する。

「でも、まだ慣れないし。そーいうのは。俺、男だしさ。女の子のように振る舞えないって。それに、ユグーは格好良すぎるから。隣にいるのが俺じゃぁさ、何だかおかしくないかって思ったりするし。そういうの、鬱々考える自分もなんか、おかしいし」

 言いにくかったことを口にする自分に、エセルは拍手を送りたいような気分だ。

 もう何だか、立派な女の子じゃないか? 頭の中は。

「エセル、大丈夫だよ」

 何が?

 などと問う間もなく、ユグノースが抱きついてきた。

「慣れないなら、慣らしていけばいい。別に僕はエセルが女の子だったらとか、考えたことないよ。僕の見た目が問題ならこれからは顔を隠すから。僕のことを考えてるエセルはちっともおかしくない」

 完敗。白旗気分だった。

 人目は多大に気になったが、まぁいいか。どうせ今からここを出るのだから。

 エセルはユグノースの背中に手を回してぎゅっと抱擁した。すると、妙な鳴声が上がった。二人の間に挟まれていた黒猫が抗議の声を上げたのだ。

「す、すまない、ディー」

 エセルの肩に逃げてきた黒猫を、ひょいっとユグノースが持ち上げた。

「僕が抱く」

 戸惑いはしたが、反対する理由もないので了承した。

「さ、行こうか。ところで、本当に歩きでいいのかい? 身体つらくない?」

 そろって歩きだしたユグノースは、もういつも通りだ。

「あ、あぁ。急ぐわけでもないだろ。ゆっくり景色を楽しみたいんだ。ユグーの方こそいいか?」

「もちろんだよ。エセルの言うこと全てに僕は賛同するよ」

 いや、さっき困らされたばかりじゃないか。

 なんて野暮なことはもう言わないと心に決めて、エセルは曖昧に笑う。

 目と鼻の先に構えた市門は大きな口を開けて待っている。遠目に、街道以外を覆う草原が見え、山々の姿も確認できた。門を潜るとそこはもう異国のような、そんな特別な気持ちをエセルの胸に抱かせた。

 先に歩いて待っていただろうヴァンデは、誰かと言葉を交わしていた。

 エセルはその人物に見覚えがあったような気がして眼を凝らす。

 フード付きのケープを羽織った鷲鼻の目立つ小男。

「世話になったな。お互い達者でな」

 ひらりと手を振って、小男は停めてあった荷馬車に乗り込んで街の中心地へと向かっていった。

「痴話喧嘩は終わったのか」

 近づいた二人を交互に見下ろしながら、どうでもよさそうにヴァンデが言った。

「あぁ。これからも待たせることがあるかもしれないからよろしくね」

「ロデンだ!」

 エセルは思い出したと共に、声を張り上げていた。

「え? 何だって? ロデン?」

 ユグノースがずいっと顔を寄せてきた。

「誰? どう考えても男の名前だよね。いや、女の名前でも気分悪いけど」

 何だか面倒うな男になってしまったぞ、ユグノース。

「な、何でもない」

 逃げ出すように足を動かしたエセルは、一瞬ヴァンデの表情を眼にしてしまう。しかし、ヴァンデはしつこく聞いてこようとしないだけマシだ。

 やや神聖視していたのに、慌ただしく門を潜り終えることになってしまった。

 唐突に世界が広がった。

 地上には緑の絨毯が敷き詰められ、所々に黄色い花が散りばめられていた。風に触れられれば、一斉に従ってお辞儀をする。

 大きな木が柵となって、街道の両脇を守っていた。そこから鳥の囀りがせわしく上がる。

 エセルは瞼を落としていた。肌をほかほかと暖めてくれる陽光をいっぱいに浴びてから、自然の中を歩きたいと思った。

「あ、虹だよ、エセル」

 無邪気なユグノースの声に、エセルの心臓はがしりと掴まれた。胸を高鳴らせて視界を広げた。

 白と水色を混ぜたような大空に、色鮮やかな虹がかかっていた。

 半分は雲に邪魔されているけれど、くっきりと七色の橋が空を背景に浮かんでいる。

「幸先良いねぇ。虹といえば、奇跡を降らす神だったね。確か、名前は」

「ディンフェストだろ」

 さらっと付け足してきたヴァンデに、ユグノースは不愉快そうに言い返す。

「それはボアースの方だろ。こっちでディンフェストといえば、夢渡りの神って言われてるんだよ」

「なんだそれ? 夢なんか渡ってどうすんだよ」

「っは。ディンフェストといえば、若い女の子に人気の神なんだよ。寝る前にディンフェストに祈れば、望んだ夢を見せてくれるってね」

 エセルは虹を見つめながら、ユグノースとヴァンデの会話を耳に、目頭を熱くしていった。

「あれ? そういえば、エセル。ひょっとしてディーって名前はディンフェストからとったの?」

 肩を並べてきたユグノースに、エセルは虹を見上げたまま肯定した。

「ユグーの夢をずっと見てた。ユグーを追いかける夢を」

「追いつけたね」

 エセルの正面に入ってきたユグノースは、満足そうに笑っていた。

 今、エセルの目の前には、この世界で最も愛して止まない存在がいる。手を伸ばせば掴んで、触れられて、抱きしめることができる距離に。湧き上がった衝動に、エセルは素直に従った。

 黒猫ごと、ユグノースをしっかり抱きしめた。

「ユグー、俺が知ってるのは違う。ディーは、ディンフェストは、世界を司る寂しがり屋の神なんだ」

 この世界に生きる全ての人間に、届けたい言葉だった。


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