第二話 初めてのターフ
ヒダカレミントンがトレーニングセンターへ入厩したのは、二歳の夏の終わりだった。
管理するのはベテラン調教師、来栖洋介。長く競馬の世界にいる男で、派手さはないが確かな腕を持つ人物だった。そして、この馬にはもう一人、重要な人物がいた。
オーナーの久留木裕二。
競馬界では決して有名な馬主ではない。むしろ、自分でもこう言っている。
「俺なんて、馬主の端くれみたいなもんだよ」
実際、久留木がこれまで所有した馬で大きなレースを勝った馬はいない。中央で数勝した馬が数頭いる程度だった。それでも彼は、競馬が好きだった。
だからこそ、このヒダカレミントンには少しだけ夢を見ていた。
「血統は悪くない」
初めて馬を見たとき、久留木はそう言った。
父はGⅠ馬ゴールドクラッチ。母ホーリーナイトは、これまでに重賞馬を四頭送り出している優秀な繁殖牝馬だ。血統だけ見れば、大物が出てもおかしくない。だが、競馬はそんなに甘くない。
「走るかどうかは、走ってみないと分からない」
来栖洋介はそう言った。
トレーニングセンターの調教コースで、ヒダカレミントンは元気よく走っていた。
とにかく前へ行きたがる。抑えようとしても、まだ若い体は勢いのまま加速する。「速いな」と助手がつぶやく。
「だが気性がな」と来栖は腕を組んだ。
「暴走するタイプだな」
だが来栖は、この馬をある騎手に任せることを決めていた。
有馬裕太。
デビュー三年目の若手騎手だった。
まだ重賞勝利もない。だが来栖は、その騎乗を気に入っていた。
「馬と喧嘩しない」
それが理由だった。
「こういう馬には、あいつが合う」
そして迎えたデビュー戦。
秋の東京競馬場。芝1600メートルの新馬戦。
パドックの観客はまだ多くない。ヒダカレミントンの名前を知る者もほとんどいない。
だが、その馬体は目を引いた。
筋肉の張り。歩き方の軽さ。そして気合。
久留木裕二は柵の外からその姿を見ていた。
「頼むぞ」
小さくつぶやく。
馬主としては決して派手ではない人生。だが、この馬だけは少し違う気がしていた。
有馬裕太がヒダカレミントンにまたがる。
「よろしくな」
軽く首を叩く。
芝コースに入ると、ヒダカレミントンの耳が動いた。
広いターフ。観客のざわめき。
そして遠くに見えるゴール板。
ゲートへ入る。
有馬は深く息を吐いた。
(落ち着け......)
そしてスタート。
ゲートが開いた瞬間、ヒダカレミントンは弾丸のように飛び出した。
「速い!」
実況が思わず声を上げる。
一歩目から違う。
あっという間に先頭へ。
有馬は慌てて手綱を引く。
「待て!」
だがヒダカレミントンはまだ余裕そうだった。
直線。
残り400メートル。
有馬は合図を送る。
その瞬間だった。
ヒダカレミントンの脚がさらに伸びる。
まるで体の奥にエンジンがあるように。
一気に差を広げる。
スタンドがどよめく。
ゴール板。
ヒダカレミントンはそのまま先頭で駆け抜けた。
デビュー戦、勝利。
パドックの外で、久留木裕二は思わず笑った。
「おいおい......」
その目には、ほんの少し涙が浮かんでいた。
「夢、見てもいいのか?」
だが、この時まだ誰も知らない。
この馬がやがて
何度も2着を繰り返し、
シルバーコレクターと呼ばれることになることを。
そして最後には――
銀色の魂を燃やすことになることを。




