第9話 ずれていく
夫は、その夜ほとんど眠らなかった。
リビングのソファで、何度も寝返りを打つ音が聞こえる。
私は寝室で目を閉じたまま、静かに呼吸を整えていた。
朝方。
キッチンでスマホを操作する音。
短く、苛立った舌打ち。
私は水を飲みに行くふりをしてリビングへ出た。
夫は慌てて画面を伏せる。
「……何してるの?」
「別に」
嘘。
テーブルの上に置かれたスマホに、一瞬だけ通知が見えた。
里奈:今はそっとしておいて
「病院、どこだったの?」
私は静かに聞く。
「……聞いてないって言っただろ」
「手術したなら、同意書とかあるよね」
「だから!」
声が荒れる。
でも、その奥に迷いが混じっている。
私は淡々と続ける。
「七週なら、心拍確認後だよね」
ぴたりと動きが止まる。
「確認、してた?」
「……」
「母子手帳は?」
沈黙。
私は責めない。
ただ、事実を置く。
「私、昨日健診だった」
嘘ではない。
「八週で、ちゃんと心拍確認できたよ」
夫の視線が揺れる。
「七週なら、普通は確認できるって先生言ってた」
空気が重くなる。
「お前、疑いすぎだ」
言いながら、声は弱い。
私はスマホを差し出す。
「これ」
里奈の飲酒投稿のスクリーンショット。
日付つき。
「この日、五週目って言ってたよね?」
夫の眉が寄る。
「妊娠初期で飲むかな?」
「……」
「しかも」
私は続ける。
「あなた、その週出張だった」
夫の顔色が変わる。
「位置情報、残ってるよ」
長い沈黙。
彼はソファに座り込んだ。
「……そんなはずない」
小さく呟く。
「俺に、妊娠検査薬の写真送ってきた」
「それ、いつ?」
「……先月末」
私は計算する。
その時期。
もし本当に七週なら、まだ四週前後。
エコー写真は早すぎる。
「写真、まだある?」
夫は震える指でスマホを操作する。
スクロール。
止まる。
「……消えてる」
部屋の空気が凍る。
「昨日まであった」
彼は呟く。
「なんで消すんだよ……」
初めて、夫の目に迷いがはっきり浮かぶ。
怒りではなく。
混乱。
「俺、病院行ってくる」
突然立ち上がる。
「どこの?」
「……聞いてない」
私は小さく息を吐く。
「一緒に行く?」
夫がこちらを見る。
その目に、初めて“疑念”がある。
「もし本当に流産なら」
私は穏やかに言う。
「私、ちゃんと謝るよ」
夫の喉が動く。
「でも、もし違ったら?」
彼は答えない。
答えられない。
信じたい気持ちと、
数字の違和感。
プライドと、
事実。
その狭間で、彼の世界が揺れ始めている。
私は追い詰めない。
崩れるのは、自分で気づいたときが一番痛いから。
玄関のドアが閉まる音。
夫は、確かめに行った。
奇跡を信じるか。
嘘を認めるか。
選ぶのは、彼。
(続く)




